2024年11月

週報コラム
No.137【教職者夫人の集い】※マナカ寄稿

◆先週火曜から木曜まで、同盟教団の「教職者夫人の集い」に参加してきました。全国各地から30名ほどの”牧師夫人”や”伝道師夫人”が長野県の松原湖バイブルキャンプに集まり、静まりと交わりの時間を持ちました。友人たちとの再会や […]

続きを読む
聖書の説教
マルコ15:33-39「神の子」(宣愛師)

・・・・・・しかし、イエス様が「どうして」と叫ばれたのはなぜでしょうか。ご自分がなぜ十字架にかからなければならないのか、イエス様はお忘れになってしまったのでしょうか。ご自分がこの世界に来たのは、「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」(10:45)だと仰っていたはずです。「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」(9:31)と、イエス様ご自身が弟子たちに何度も何度も教えておられたはずです。ご自分の死の意味も、その先に復活の希望があることも、イエス様はよくよく分かっておられたはずです。それにもかかわらず、「どうして」と叫ばざるを得なかった。なぜなのでしょうか・・・・・・

続きを読む
週報コラム
No.136【「女の人は教会では黙っていなさい」?】

◆「女の人は教会では黙っていなさい。……もし何かを知りたければ、家で自分の夫に尋ねなさい」(第一コリント14章34-35節)というパウロの言葉は差別的にも聞こえます。しかし、同じ手紙の中でパウロは、「女はだれでも祈りや預 […]

続きを読む
聖書の説教
ヨハネ5:1-18「安息日に働く主」(まなか師)

・・・・・・彼は間違った方法で癒やされようとしていました。イエス様は「池の中に入れてほしいか」と尋ねたのではなく、「良くなりたいか」と問いかけたんです。でも彼は「はい、良くなりたいです」と答える代わりに、「主よ、誰も池の中に入れてくれないんです」とイエス様に訴えた。それはまるで、寂しさをお酒で癒やそうとしている人が、「主よ。誰もお酒をくれないんです」とイエス様に訴えているようなものです・・・・・・

続きを読む
週報コラム
No.135【主の祈りの謎:「赦します」?「赦しました」?】

◆盛岡みなみ教会が使っている“主の祈り”の翻訳では、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました」(新改訳第3版)となっていますが、新しい翻訳(新改訳2017)では、「私たちの負い目 […]

続きを読む
聖書の説教
秋山善久師「主の御声を聴く者」(コロサイ3:12-17)

※本日は仙台のぞみ教会と盛岡みなみ教会の合同礼拝(第14回)でした。主任牧師の秋山善久先生が仙台から来てくださり、説教と聖餐式のご奉仕をしてくださいました。

続きを読む
週報コラム
No.134【正教師試験】

◆「ノア先生が受験する正教師試験ってどんな試験なんですか?」と尋ねてくださる方々が結構おられる(単に興味があるのか、僕にプレッシャーをかけて楽しんでいるのか……)ので、この場を借りてご説明したいと思います。大きく分けると […]

続きを読む
聖書の説教
マルコ15:16-32「強いられた恵み」(宣愛師)

・・・・・・激しい鞭打ちによって肌が破け、内臓や骨が透けて見えてしまっているような背中を、ザラザラとした十字架の木に押し付けられる。手首と足首を通る太い神経のど真ん中に釘を打たれて激痛が走る。自分の体重によって肺が圧迫されているため、呼吸をするためには身体を持ち上げなければならないが、そのたびにむき出しの背中は十字架の表面と擦れ合い、釘を差された手や足には気を失うような痛みが繰り返される……そのように残酷な十字架刑にもかかわらず、福音書にはただ、「彼らはイエスを十字架につけた」としか書かれていません。十字架がどれほど痛く、どれほど苦しいものだったのかということを、聖書はほとんど語ろうとしないのです・・・・・・

続きを読む