マルコ15:16-32「強いられた恵み」(宣愛師)

2024年11月3日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』15章16-32節


15:16 兵士たちは、イエスを中庭に、すなわち、総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。
17 そして、イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
18 それから、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで敬礼し始めた。
19 また、葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んだ。
20 彼らはイエスをからかってから、紫の衣を脱がせて、元の衣を着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。

21 兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。
22 彼らはイエスを、ゴルゴタという所(訳すと、どくろの場所)に連れて行った。
23 彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
24 それから、彼らはイエスを十字架につけた。そして、くじを引いて、だれが何を取るかを決め、イエスの衣を分けた。
25 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
26 イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
27 彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。
29 通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。
30 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。
32 キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。



着せ、脱がせ、着せ

 本日の聖書箇所が語っているのは、イエス様がいよいよ十字架につけられた、まさにその時の出来事です。まずは16節から20節までをお読みします。


15:16 兵士たちは、イエスを中庭に、すなわち、総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。
17 そして、イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
18 それから、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで敬礼し始めた。
19 また、葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んだ。
20 彼らはイエスをからかってから、紫の衣を脱がせて、元の衣を着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。

 「ユダヤ人の王」と呼ばれたイエス様が、ローマの兵士たちによって叩かれ、馬鹿にされながら、十字架の場所へと連れ出されていきます。ユダヤ人とローマ人との間には、絶えず争いがありました。ユダヤ人たちは、自分たちを支配するローマ人のことを憎んでいました。ローマ人の支配から脱出しようとするユダヤ人たちの中には、武力や暴力を用いる者たちもいました。時には暴動を起こし、時には暗殺を行いました。そうなれば当然、ローマ人の側も、ユダヤ人のことが憎い。自分の仲間がユダヤ人に殺された、というローマの兵士もいたでしょう。そのようにして互いに憎み合う人々の間に立ち、「あなたの敵を愛しなさい」とお語りになったイエス様。互いに憎み合う人々の只中で、怒りと暴力とあざけりを受け止め続けるイエス様の姿がここにあります。

 私たち人間にとって、“服を着る”という行為には、少なからず重要な意味があります。着たい時に着て、脱ぎたい時に脱ぐ。これは単なる温度調整とか、ファッションの好みとか、そういうことを超えて、人間の尊厳に関わることだとも言えます。介護や看護のお仕事であれば、患者さんや利用者さんの着替えに関わる時には、細心の注意を払うものです。勝手に服を着せたり、勝手に服を脱がせたりすることは、人間としての尊厳を踏みにじることにもなりかねません。

 ある聖書学者は次のように言いました。「イエスが兵士たちの気まぐれによって服を着させられたり脱がされたりしていることは、武力によって支配されたこの空間でいかにイエスが無力であるかを示している。」今の時代にも、着たい服を着たい時に着る自由を持たない人々、もしくは、脱ぎたくない服を強制的に脱がされるような支配の中に置かれている人々がいます。もちろん、衣服に限ったことではありません。言いたいことを言葉にする自由を持たずに悩んでいる人々もいます。頭を叩かれても、唾を吐かれても、そこから逃れる自由のない人々がいます。そのような人々の苦しみを、辱めを、誰よりもまずイエス様が知っていてくださる。

 そしてイエス様は、それらの苦しみを受けても、不当な扱いを受けても、復讐という形によってその苦しみを広げることなく、ご自身の中に受け止められた。人間の尊厳を踏みにじるような扱いを受けても、踏みにじり返すようなことをしなかった。これまでの説教でもたびたびお伝えしてきたように、イエス様の十字架とは、復讐の連鎖を断ち切るものです。この世界に渦巻く憎しみと怒りの連鎖を断ち切り、まことの平和をもたらすために、救い主は十字架にかかられた。


人の苦難と神の計画

 22節から27節までをお読みします。


22 彼らはイエスを、ゴルゴタという所(訳すと、どくろの場所)に連れて行った。
23 彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
24 それから、彼らはイエスを十字架につけた。そして、くじを引いて、だれが何を取るかを決め、イエスの衣を分けた。
25 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
26 イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
27 彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。

 23節を見ると、「彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった」と記されています。「没薬を混ぜたぶどう酒」というのは、痛みを和らげるための麻薬、もしくは鎮痛剤のようなものだったと考えられています。どうしてローマの兵士たちが、イエス様にわざわざ鎮痛剤を与えるようなことをするのでしょうか。となると、イエス様にぶどう酒を与えようとしたのは、ローマ兵たちではなく、イエス様の弟子たちだったのかもしれません。23節で「彼らは」と訳されているギリシャ語は、「彼女たちは」とか「人々は」と訳すこともできる表現です。ある伝承によれば、イエス様の弟子であった女性たちが、イエス様の十字架の苦しみを和らげようとして没薬を混ぜたぶどう酒を持って来た、と言われています。しかしいずれにせよ、イエス様はそのぶどう酒をお受けにはなりませんでした。酒と麻薬によって意識を朦朧とさせ、十字架の痛みを和らげるようなことはなさらなかったのです。

 兵士たちがイエス様を十字架につけた時、イエス様の衣を分けるためにくじを引いた、と書かれています。「こいつはこれから死ぬのだから、おれたちがもらってやろう」というわけです。どこまで馬鹿にすれば気が済むのでしょうか。しかしこの時、旧約聖書に書かれたみことばが成就していました。詩篇22篇18節には、次のように書かれていました。「彼らは私の衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします。」イエス様の十字架刑から千年近く昔に語られていた詩篇の言葉が、ここにおいて成就し始めていることに、私たちは気づかなければなりません。

 また、イエス様が十字架につけられた時、「二人の強盗を、一人は右に、一人は左に」と書かれています。この「一人は右に、一人は左に」という言葉も、十字架以前において語られていたものでした。マルコの福音書10章37節に記されていますが、イエス様の弟子のヤコブとヨハネがやって来て、「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください」と言った。するとイエス様が10章40節において、「わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです」と仰った。イエス様の十字架の右と左に一つずつ立てられた十字架は、父なる神のご計画の中で「備えられた人たちに与えられる」ものでした。偶然に起こった災難ではなく、神の計画の一部だったのです。

 この十字架刑がどれほど苦しいものだったのか、どれだけ残酷な処刑方法だったのか、ご存知の方も多いかと思います。激しい鞭打ちによって肌が破け、内臓や骨が透けて見えてしまっているような背中を、ザラザラとした十字架の木に押し付けられる。手首と足首を通る太い神経のど真ん中に釘を打たれて激痛が走る。自分の体重によって肺が圧迫されているため、呼吸をするためには身体を持ち上げなければならないが、そのたびにむき出しの背中は十字架の表面と擦れ合い、釘を差された手や足には気を失うような痛みが繰り返される。そして最後には、呼吸をするために身体を持ち上げることさえできなくなり、息ができなくなり、窒息死に至る。

 そのように残酷な十字架刑にもかかわらず、福音書にはただ、「彼らはイエスを十字架につけた」としか書かれていません。十字架がどれほど痛く、どれほど苦しいものだったのかということを、聖書はほとんど語ろうとしないのです。その代わりに聖書が語るのは、この十字架によって、旧約聖書のみことばが成就し、神が備えた計画が着実に進んでいるのだ、ということです。

 私たちはどうでしょうか。苦しみや痛みの中を通る時、自分の苦しみや痛みがどれほど辛いものであるか、ということばかりに気を取られてしまわないでしょうか。自分の苦しみの大きさを誰かにわかってほしくて、理解してほしくて、これが本当に辛いんだ、これが本当に痛いんだと、苦しみの大きさにばかり心を奪われる。もちろん、苦しい状況を誰かに話して分かち合うことは大切なことですし、互いの苦しみのために祈り合うことも大切なことです。しかし、どれだけ苦しいか、どれだけ辛いか、ということだけに目を向けて終わってしまって良いのでしょうか。むしろ私たちは、「この苦しみを通して神様はどのようなご計画を進めておられるのか」ということに目を向けられるようになりたいと思います。私たちが苦しむ苦しみを通して、神様は何かのご計画を成就しようとしておられるということに気づきたいと思います。そして、そのような気づきにおいてこそ、私たちの苦しみは本当の意味で癒やされていくはずです。苦しみの意味を知ることによって、癒やされるのです。


“強いられた恵み”

 29節から32節までをお読みします。


29 通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。
30 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。
32 キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。

 「通りすがりの人たち」は言いました。「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」イエス様はこれまでずっと、貧しい人々を救うために働いてこられました。貧しい人々は、このイエス様こそが、自分たちを救い出し、新しい世界を作り出してくださる救い主、新しい世界を治めてくださる王様になってくださるのではないかと期待していました。しかし、権力者たちは新しい世界を望まず、古い世界が続いていくことを願って、イエス様を十字架につけました。貧しい人々は、十字架につけられるイエス様を見てがっかりしました。彼らが求めていた救い主、彼らが願っていた王様は、ただちに悪を懲らしめ、正義をもたらすようなヒーローだったからです。「今すぐ自分たちの苦しみを取り除き、世界を正しく裁いてほしかったのに、このイエスは結局、十字架で死ぬような負け犬だったのか。」「貧しい人々が苦しみ、金持ちたちがのうのうと生きるこの世界を、神はなぜ今すぐにでも作り直さないのだろうか。」

 人々は言いました。「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」「今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」今の時代にも、同じように考える人々がいます。「不正義に満ちたこの世界を今すぐ救ってくれる神。そんな神を見せられたら信じよう。」彼らの言い分はもっともだとも思います。結局のところ神には、この世界を救う力などないのではないか。この世界を救うことのできない神など、信じるに値せず、存在しないに等しいのではないか。しかし、そのようにして神を裁こうとする人々の多くは、「通りすがりの人たち」であることが多いのです。「この世界を救うような奇跡を神が行うならば、神を信じてやってもいい」と語る人々は、自分自身は世界を良くするために真剣に働くこともせず、外からガヤを入れているだけということが多いのです。自分は十字架に指一本触れず、遠巻きに眺めているだけなのです。

 ところが、これらの「通りすがりの人たち」、もしくは外野から文句を言っているだけの人たちとは対照的な人物がいました。「クレネ人シモン」という人でした。21節をお読みします。


21 兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。

 この人は「田舎から来ていた」と書かれています。エルサレムで行われていた過越の祭りに参加するために、北アフリカのクレネからはるばる旅行をしてきたのかもしれません。旅行のために必死にお金を貯金してきたかもしれません。ところが突然、死刑囚の十字架を無理やり背負わされるという、とんでもない災難にあった。そしてシモンは、重い十字架を背負いながら、「イエスを殺せ。十字架につけろ」と叫ぶ群衆たちの中を歩きながら、「なぜこのイエスという人は殺されるのだろうか。なぜこんなにも憎まれているのだろうか」と問い続けることになっていく。

 このシモンという人は、「アレクサンドロとルフォスの父」だと、わざわざ書かれています。また、新約聖書のローマ書16章13節には、「主にあって選ばれた人ルフォスによろしく」というパウロの言葉が記されています。ローマの教会に、ルフォスというクリスチャンがいて、パウロがその人に「よろしく」と挨拶をしている。そして、このマルコの福音書もまた、最初はローマの教会のために書かれた書物だったのではないかと考えられています。つまり、このルフォスこそが、「クレネ人シモン」の息子ルフォスであり、ローマの教会の一員として、当時のクリスチャンたちによく知られていた人だったのかもしれません。十字架を背負って歩いたシモンは、やがてキリスト者となり、その息子たちも父の信仰に倣っていったのかもしれません。

 「通りすがり」の一人に過ぎなかったはずのシモンは、「通りかかった」一人となり、無理矢理に背負わされた十字架をかついで歩いていく中で、“関係者”となり、“当事者”となっていきました。シモンは、「あのイエスという奴のせいでとんだひどい目にあったぜ」と文句を言い、周りの群衆と一緒になってイエス様をあざけるようなことはしなかったのです。むしろ彼は、十字架から降りなかった救い主を信じる者となっていったのです。十字架から降りなかったこの方こそ、この世界の全ての憎しみの連鎖を断ち切る救い主であるに違いないと、確信するようになっていった。

 “強いられた恵み”という言葉があります。私の好きな言葉です。強いられた恵み。「ください」なんて言っていないのに、神様から勝手に与えられた恵みです。それは時に、苦しみという形で与えられる恵みです。この世界の理不尽さの中に、突如として置かれるのです。「どうして自分にこんな苦しみが」と思うような困難の中に置かれるのです。しかし、その苦しみの中にしか見出すことのできない神の救いの恵みを知るということがあるのです。少なくともシモンにとっては、イエス様の横を安全に通り過ぎることができなかったということが、最高の恵みとなったのです。

 “理不尽な苦しみ”を、“理不尽な苦しみ”として終わらせるのではなく、“強いられた恵み”として受け取ることのできる信仰者になりたいと思います。「私にこんな苦しみを与えるような神は神ではない」と文句を言うのではなく、「この苦しみを通して、神どのような恵みをもたらそうとしておられるのだろうか」と尋ね求める人になっていきたいと思います。「私が背負わされているこの十字架は、なんのために背負わされた十字架なのだろうか」と問い続ける信仰の道を歩みたいと思います。今、あなたが直面している苦難を通して、あなたが背負わされている苦しみを通して、神様が進めようとしておられるご計画は何でしょうか。ご一緒に祈りましょう。


祈り

 父なる神様。苦しみの大きさに目を向けるのではなく、この苦しみを通して成就するあなたのご計画に目を向けることができるように、私たちの信仰の眼差しを整えてください。「あれが苦しいんだ、これが辛いんだ」と語り合う時に、「そうだね、苦しいね、辛いね」と慰め合うだけに終わることなく、その苦しみの中で確かに進められている神の御業に目を向けさせ合うことのできる教会となることができますように。神のご計画の完成に向かって、苦しみの中にあっても平安を、理不尽の中にあっても納得を、絶望の中にあっても復活の希望を抱いて進むことができる、そのような信仰者の群れへと成長させてくださいますように。私たちの罪を背負うために、十字架を降りようとはなさらなかった方、救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。