ヨハネ5:1-18「安息日に働く主」(まなか師)
2024年11月17日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』5章1-18節
5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
2 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。
3 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。
5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。
6 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」
7 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」
8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
9 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。
ところが、その日は安息日であった。
10 そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。
11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」
12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」
13 しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。
14 後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」
15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。
16 そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」
18 そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。
ベテスダの池
この朝も、愛する兄弟姉妹の皆さんと共に、みことばに聴くことのできる幸いを覚えます。お一人お一人の上に、神様の祝福がありますように。
ヨハネの福音書を読み進めてきて、今回から5章に入ります。
1節から3節を改めてお読みします。
1その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
2エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。
3その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。
イエス様はエルサレムに上られました。エルサレムには神様を礼拝するための神殿があり、そこでお祭りが行われます。神殿の北側には羊の門という入口がありました。人々がささげ物としての羊を携えながら、神殿に入っていく門だったようです。大勢の人たちが羊の門をくぐってお祭りに参加するため、列をなして神殿に向かっていました。街中が、お祭りのにぎやかで楽しい、わいわいとした雰囲気で満ちていました。
しかし、そのすぐそばにあったベテスダの池はどんな場所だったでしょうか。「病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた」。お祭りの活気、熱気の傍らで、それらとは無縁の人たちがいたわけです。喜びに満ちた神殿には入れない人たちが大勢、横たわっていた。
今日の箇所をよく読んでみると、3節の次は5節になっていて、4節が抜け落ちています。私たちが使っている翻訳では、3節の終わりに米印がついていて、下の欄外のところに次のように書かれています。
異本に3節後半、4節として、次の一部または全部を加えるものがある。〔彼らは水が動くのを待っていた。4それは、主の使いが時々この池に降りて来て水を動かすのだが、水が動かされてから最初に入った者が、どのような病気にかかっている者でも癒やされたからである。〕
この部分は、聖書のもともとの本文が書かれたより後に付け加えられたものなので、欄外に書かれているのですが、ここから、ベテスダの池がどういう池として当時の人々に認識されていたか見えてきます。詳しいことは分かりませんが、この池では時々水が動く。いわゆる間欠泉、温泉のようなものだったのかもしれません。迷信や言い伝えのようなものがあり、病気を治す効果があると信じられていました。ユダヤ人だけがこの池に癒やしを求めていたのではなく、異教徒もここを神聖な場所とみなしていた、という指摘もあります。医者に見放され、もう治る見込みがない人たちが、ある種の迷信に頼って集まっていました。
続く5節から7節をお読みします。
5そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。
6イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」
7病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」
38年も病気にかかっている一人の男の人がいました。彼が何歳から病気になったか分かりませんが、人生の大半を病気を抱えながら過ごしてきたはずです。ベテスダの池では、周りの病人たちはみんな競争相手です。我先にと池に飛び込もうとする人たちは、みんな自分のことで精一杯です。喧嘩も起こります。暴言が飛び交ったかもしれません。
そんな中で、家族が来て、池の中に入れてくれる人もいる。友だちが来て、助けてくれる人もいる。でも38年も病気で苦しんできた彼には誰もいなかった。心配してくれる人、手を貸してくれる人はいなかった。神殿に向かっていく多くの人々も、礼拝に早く参加したいからと、ただ通り過ぎていくだけ。彼のからだを担いで池の中に入れてくれはしない。「病気を直して、一緒に礼拝に行こう」とは言ってくれない。彼は孤独の中で、何を思って38年間過ごしてきたのでしょうか。神様にも見捨てられている、見放されていると感じていたのではないかと思います。
イエス様が「良くなりたいか」と問われると、彼は答えます。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。」
彼は間違った方法で癒やされようとしていました。イエス様は「池の中に入れてほしいか」と尋ねたのではなく、「良くなりたいか」と問いかけたんです。でも彼は「はい、良くなりたいです」と答える代わりに、「主よ、誰も池の中に入れてくれないんです」とイエス様に訴えた。
それはまるで、寂しさをお酒で癒やそうとしている人が、「主よ。誰もお酒をくれないんです」とイエス様に訴えているようなものです。貧しさを盗みで解決しようとしている人が、「主よ。誰も財布を盗ませてくれないんです」と言っているようなものです。
ベテスダの池は、間違った癒やしを求めて、人々が集まってくる場所でした。この男の人も、自分の病気を間違った方法で癒やそうとしていました。
癒やし主はだれか
8節から14節をお読みします。
8イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
9すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。
ところが、その日は安息日であった。
10そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。
11しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」
12彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」
13しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。
14後(あと)になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」
「起きて床を取り上げ、歩きなさい」。池の水ではなく、イエス様のことばが彼を癒やしました。そしてそのことばのとおりに、彼は床を取り上げて歩き出しました。ところが、その日は安息日でした。彼が癒やされてめでたしめでたし…と話は終わらなかったわけです。ユダヤ人たちは癒やされた男の人に詰め寄ります。「今日は安息日だぞ!いったい何を考えているんだ!床を取り上げることは許されていないだろう!」
神様はたしかに安息日に働くことを禁じていました。安息日は仕事から離れ、神様と喜び楽しむ、休息の日としなさい、と。それでユダヤ人たちは、安息日をそのように過ごそうとしていましたが、それにも関わらず、いやむしろ、そのように安息日を守ろうとしたからこそ、彼らは安息日を多くの制限で囲い込みました。あらゆる種類の労働のうち、何が禁止されるかをはっきりさせるために、労働を正確に定義しようとしました。そうして労働を39に分類し、「物を運ぶこと」つまり「床を担いで歩くこと」さえ禁止したのです。
38年間病気だったこの人にとって、安息日は大事なことではなかったと思います。働きたくても働けない、毎日横になるしかない彼にとっては、今日が安息日かどうかはどうでもいいことでした。孤独な病人にとっては、たとえ働かないで済むとしても、ただ横たわって過ごす毎日が安息であるはずがなかったからです。健康で毎日働くことができるユダヤ人たちには、この病人が置かれていた状況のつらさは理解できなかったかもしれません。その彼が癒やされ、やっと安息を手に入れることができたというのに、安息日のルールを守ろうとするユダヤ人たちによって、彼の安息が取り上げられそうになる。そんな理不尽が、ここにあります。
ユダヤ人たちは、一人の人の病が癒やされたことには目も留めません。一緒に喜ぶこともしません。むしろ、自分たちの掟を破った人がいると見るや、「安息日に床を取り上げてはいけない!」とまくし立てる。「『床を取り上げて歩け』と言ったのはどこのどいつだ!」と問い詰める。イエス様の癒やしのみわざにも、癒やされた人の喜びにも関心がないんです。「病気が治ってよかった!さあ、お祝いをしよう!」とは誰も言わないんです。
一方、癒やされた人も、自分を癒やしたのが「だれであるかを知らなかった」とあります。身体が治ったことを喜ぶあまり、癒やし主であるイエス様のことはすっかり忘れて歩き回っていたのでしょう。自分が癒やされたということに満足して、癒やし主がだれか知ろうとしない。その間に、大勢の人々に紛れて、イエス様は立ち去ってしまった。
ユダヤ人たちも、癒やされた人も、イエス様に関心がありません。自分のことで精一杯になっていて、イエス様の姿を見失っているわけです。
イエス様は、ユダヤ人たちによる迫害を引き起こすことも承知の上で、癒やされた男の人に、もう一度出会ってくださいます。神殿の中で、たくさんの人々の中から彼を探し出し、はっきりと語りかけます。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」
このイエス様のことばから、男の人が何らかの罪を犯したので病気になっていたのだ、と言われることがあります。けれどもイエス様は、同じヨハネの福音書の9章で、生まれつき目の見えない人に出会ったとき、その人が盲目で生まれたのは、その人が罪を犯したからではないとおっしゃっています。
では、「もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない」というイエス様のことばは何を指すのか。イエス様がここで仰った「罪」、それはおそらく、彼が迷信を信じていたこと、間違ったものに救いを求めていたことでしょう。まことの神様ではないものに、癒やしを求めていたことでしょう。本当の癒やし主以外のものに癒やしを求めるのが、私たちの罪です。
だからイエス様はこう言われました。「あなたはもうわたしと出会っただろう?わたしの癒やしを受け取っただろう?だからもう、わたし以外のものに癒やしを求めてはいけないよ。また古い生き方に戻っていってはいけないよ。わたしと出会ったのに、それでもなお、わたし以外のものに頼ろうとするならば、わたしを見失ったまま生きていくならば、さらに深い罪のどん底に陥ってしまうかもしれない。」
「もう罪を犯してはなりません」というイエス様のことばは、「わたしと一緒に生きていこう」というイエス様の招きのことばです。癒やし主であるイエス様を知って、イエス様と生きていく、新しい生き方へと招くことばです。
安息日に働く主
15節から18節をお読みします。
15その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。
16そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
17イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」
18そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」イエス様はそう言われました。
本来の安息日は、神様も休む日であったはずです。この世界を造られた神様が、天地創造のわざを終えた七日目に休まれたからです。だからユダヤ人たちも一週間の終わりの土曜日に、仕事の手をとめ、労働から離れて、休むことになっていた。
けれどもここでイエス様は、「わたしの父は今に至るまで働いておられ」るとおっしゃる。そして、だから「わたしも働いている」とまで言われる。なぜ父なる神様も、イエス様も、休まずに働いておられるのか。それは、本当の安息がまだこの世界には実現されていないからです。安息できずに苦しんでいる人たちが、まだまだたくさんいるからです。
神様が造られた世界で、人間は罪を犯し、神様に背いて、神様から離れて生きるようになりました。みんな自分のことばかりです。クリスチャンも例外ではありません。ユダヤ人たちがそうであったように、誰かの喜びを分かち合えないときがある。それどころか、誰かの喜びを奪ってしまうことがある。また、癒やされた人がそうであったように、イエス様のことを見失うときがある。羊の門を通って神殿に行く人々がそうであったように、誰かの苦しみや痛みのそばを素通りし、あわれみの心を閉ざすことがある。「自分さえ安息できればそれでいい。自分さえ祝福を受けられればそれでいい。」だからこの世界はいまも安息していません。私たちの罪のゆえに、この世界はうめいています。ベテスダの池のように、うめきや痛みに満ちています。敵意と争いにあふれています。
教会も自らの姿を省みる必要があります。安息日に病人を助けないで、自分たちだけでお祭りをしているとすれば、果たしてそれでいいのか? 安息日に孤独に過ごしている人がいるとしたら、そのままでいいのか? たしかに自分たちのことだけ考えていれば楽です。自分たちのルールを守って、日曜日に教会に来て、満足していれば簡単です。でも、それだけでいいのでしょうか。
私たちには、イエス様のよみがえりによって、安息が約束されています。罪の力に、復活の力が勝利したからです。もう罪の中に横たわって生きていく必要はない。よみがえられたイエス様とともに、新しく生きていくことができる。
安息とは、イエス様のうちに安心して、憩うことです。安息日は全員でイエス様を喜び楽しむ日です。なのに、安心できていない人がいるならば、喜べていない人がいるならば、手を差し伸べることを怠ってはいけない。まことの安息が完成するまで、私たちはその安息を広げ、隣人に届けていく働きをしなければならない。それこそ私たちが安息日になすべきことです。
イエス様が再び来られて、この世界を完成させてくださるとき、まことの安息が取り戻されます。そのときには、父なる神様もイエス様も、「やっとこのときが来たなあ」と安息されるでしょう。私たちクリスチャンにも、イエス様とともに憩う安息が約束されています。私たちはそうやって本当の安息が完成するまで、安息をこの世界に満たすために、イエス様とともに働き続けるわけです。私たち盛岡みなみ教会も、イエス様の復活によって与えられている安息を心から喜び、その安息を周りへと分かち合っていきたいと願います。お祈りをいたします。
祈り
父なる神様。私たちは自分を間違った方法で癒やそうとしてしまうことがあります。癒やし主がだれであるか、見失ってしまうことがあります。どうぞ、まことの癒やし主であるイエス様に、癒やしを求めていくことができますように。また、イエス様が本当の安息を取り戻すために働き続けてくださっているのに、私たちは自分さえ安息できれば、満足してしまうような者です。誰かの安息を奪い続けていることに、気づいてもいないかもしれません。どうぞ私たちの自己中心の罪を砕いてくださり、隣人に安息を分かち合っていくことができるようお導きください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。