マルコ15:33-39「神の子」(宣愛師)
2024年11月24日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』15章33-39節
15:33 さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。
34 そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
35 そばに立っていた人たちの何人かがこれを聞いて言った。「ほら、エリヤを呼んでいる。」
36 すると一人が駆け寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒に付け、「待て。エリヤが降ろしに来るか見てみよう」と言って、イエスに飲ませようとした。
37 しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。38 すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」
「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
早速ですが、まずは33節をお読みします。
15:33 さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。
まだ太陽が上っている時間帯に、闇が全地をおおった。真っ暗になった。「全地」というのは、おそらく全世界という意味ではなく、ユダヤ地方全体、もしくはエルサレムの地域全体、という意味でしょう。それにしても、不思議な現象です。皆既日食が起こったのではないか、と考える人もいます。しかし、この日は過越の祭りの時期で、過越の祭りは満月の時期に行われますが、満月の時期に皆既日食が起こることはありません。もしかすると、地中海地域で今でも時々見られる激しい砂嵐によって、辺りが真っ暗になったのかもしれません。もしくは、分厚い雲が突然空を覆って、太陽の光を隠してしまったのかもしれません。いずれにせよ、闇が全地をおおった。真っ暗になった。
出エジプト記の10章に、次のように書かれています。出エジプト記10章22節と23節。
10:22 モーセが天に向けて手を伸ばすと、エジプト全土は三日間、真っ暗闇となった。
23 人々は三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立つこともできなかった。しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった。
エジプト全土が真っ暗闇になりました。イスラエル民族を奴隷として酷使していたエジプトを、神様がお裁きになりました。暗闇は神の怒りを表すものです。神のさばきを表すものです。弱い者たちを虐げ、自分勝手な振る舞いをする悪者たちに、神様が罰をお与えになるのです。
ところが、出エジプトの出来事から千年以上が経ったこの日、ゴルゴタの丘を暗闇がおおったこの時、罰を受けていたのは悪者たちではありませんでした。34節をお読みします。
34 そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
罪人たちへのさばきを象徴する暗闇の中で、さばかれていたのは罪人たちではありませんでした。何の罪も犯しておられないはずのお方、神の子であるはずのお方が、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでおられる。罪人たちが受けるべき罰を、イエス様が受けておられる。本当なら私たち人間が受けなければならない神の怒りを、イエス様が一身に受け止めてくださっている。
しかし、イエス様が「どうして」と叫ばれたのはなぜでしょうか。ご自分がなぜ十字架にかからなければならないのか、イエス様はお忘れになってしまったのでしょうか。ご自分がこの世界に来たのは、「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」(10:45)だと仰っていたはずです。「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」(9:31)と、イエス様ご自身が弟子たちに何度も何度も教えておられたはずです。ご自分の死の意味も、その先に復活の希望があることも、イエス様はよくよく分かっておられたはずです。それにもかかわらず、「どうして」と叫ばざるを得なかった。なぜなのでしょうか。
こう考える人もいます。このイエスの叫びは、絶望の叫びにほかならない。イエスは本当は、自分が十字架で死ぬ意味も分かっていなかったし、自分が復活するなんて考えたこともなかった。イエスの弟子たちが聖書の中にあと付けしたのだ。イエスは本当は十字架にかかるつもりなんてなかったのに、弟子たちが「イエス様は最初から私たちのために十字架にかかるおつもりだった」と思い込んで、イエスがあたかも自分の死を予告していたかのような言葉を付け加えたのだ。イエスは自分が復活するなんて考えたこともなかったのに、弟子たちが後からそういうふうに付け加えただけなのだ。そうでなければ、いざ十字架にかかったイエスの、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という絶望の叫びは説明がつかないじゃないか。
なるほど、と思わされるような説明です。ですが、このように考える人たちに尋ねてみたいことがあります。それは、復活の希望を持っている人は、絶望してはいけないのか、ということです。「どうして」と叫んではいけないのか、ということです。私たちキリスト者も、復活の希望を持っています。どんなに苦しい中でも、最後には必ず神様が最善を為してくださると信じています。しかし、それでも絶望することがあるのです。「どうしてですか、神様」と祈りたくなるのです。「いいや、そんなふうに祈りたくなるのは、信仰が足りないからだ」と言う人もいるかもしれません。でも、そうではないのです。確かに信仰はある。確かに希望も抱いている。でも、それでも「どうして」と祈る。希望を抱きながら、それでも絶望するということは、私たちにもある。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。この絶望の祈りは、旧約聖書の詩篇22篇の祈りでもあります。詩篇22篇の1節をお読みします。
22:1 わが神 わが神
どうして私をお見捨てになったのですか。
私を救わず 遠く離れておられるのですか。
私のうめきのことばにもかかわらず。
たしかにこれは、絶望の叫びです。絶望の淵から注ぎ出された祈りの言葉です。しかし、この詩篇は、絶望から始まったとしても、それだけで終わるものではありません。続きを読みます。
2 わが神 昼に私はあなたを呼びます。
しかし あなたは答えてくださいません。
夜にも私は黙っていられません。
3 けれども あなたは聖なる方
御座に着いておられる方 イスラエルの賛美です。
4 あなたに 私たちの先祖は信頼しました。
彼らは信頼し あなたは彼らを助け出されました。
5 あなたに叫び 彼らは助け出されました。
あなたに信頼し 彼らは恥を見ませんでした。
6 しかし 私は虫けらです。人間ではありません。
人のそしりの的 民の蔑みの的です。
お分かりいただけるでしょうか。この詩は、「どうしてあなたは答えてくださらないのか」という絶望の中でも、「いいや、本当は神様は信頼すべきお方だ。私の先祖たちは、この方に信頼して助け出されたのだから」と、神様への希望を思い起こしているのです。絶望と希望が入り混じっているのです。このような祈りを繰り返しながら、この詩は進んでいきます。神様、どうして私をお見捨てになったのですか。いいや、あなたは私のいのちを造ってくださったお方です。私をお見捨てにならないはずです。でも、それでも苦しみが終わりません。本当に助けてくださるのですか。神様、どうか私から離れないでください。混沌とした祈り。しかしこの祈りが、21節後半の祈りに繋がっていきます。
21b あなたは 私に答えてくださいました。
たしかに、絶望から始まった祈りでした。しかし、絶望と希望が混ざりあった道、疑いと信仰がこんがらがった道をひたすらに進みながら、ついにたどり着いたのです。私たちもまた、神への信仰を持つ限り、この道を歩んでいくのです。そして誰よりもまず、イエス様がこの道を歩んでくださったのです。
「神の子」 の死に様
マルコの福音書に戻って、15章35節から39節までをお読みします。
35 そばに立っていた人たちの何人かがこれを聞いて言った。「ほら、エリヤを呼んでいる。」
36 すると一人が駆け寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒に付け、「待て。エリヤが降ろしに来るか見てみよう」と言って、イエスに飲ませようとした。
37 しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。
38 すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」
イエスはもう一度大声をあげた、そしてそのまま息を引き取られた、と書かれています。最期にどんな叫びをあげられたのかはここには書かれていません。しかし、イエス様の最期の叫びを聞いたローマの百人隊長が、「この方は本当に神の子であった」と思わず口にしてしまうような、そのような叫びでした。ルカの福音書は、イエス様の最後の叫びの言葉が記録しています。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」(ルカ23:46)。「どうして」という祈りは、「ゆだねます」という祈りになりました。絶望の祈りは、神様に全てをおゆだねする祈りに変わりました。
十字架のそばに立っていた人たち、ローマの兵士なのか、ユダヤ人たちなのか、いずれにせよイエス様を十字架につけた人々は、神の子を嘲ることをやめません。「ほら、エリヤを呼んでいる」「待て。エリヤが降ろしに来るか見てみよう」。寄って集ってイエス様を馬鹿にして、嘲って、ほら、誰も助けに来ないじゃないか、と絶望を煽る。サタンはこのようにして、私たちの希望を失わせようとするのです。「どうして」と祈る私たちの祈りを、絶望のままで終わらせようとするのが悪魔のやり口です。エリヤは来ない。神の救いは来ない。だれもお前を助けてくれやしない。私たちが絶望したまま、神を呪って死んでいってほしいのです。それがサタンのねらいなのです。しかし、イエス様は勝利されました。
「この方は本当に神の子であった。」そう口にしたこの百人隊長というのは、イエス様の弟子でもなければ、ユダヤ人でさえもなく、たまたまこの十字架刑を担当させられただけの人です。イエス様とは何の関係もなかったような人です。しかしこの人が、この世界で一番初めに、と言ってよいでしょうけれども、真理に気づき始めていた。
なぜこの人は、イエス様が「神の子」だと思ったのでしょうか。イエス様の死に方が普通ではなかったからです。この百人隊長はこれまで、何十何百と死刑を担当してきたはずです。十字架の上で死んでいく死刑囚たちの死に方を幾度も見てきたはずです。狂ったように泣き叫びながら死んでいく人もいたでしょう。兵士たちに憎しみと復讐の言葉を浴びせながら死んでいった人もいたでしょう。「ごめんなさい、赦してください」と命乞いをする人たちも大勢いたことでしょう。
しかし、このイエスという男は、たしかに「赦してください」と言ったけれども、それは自分を赦してほしい、十字架から降ろしてほしいということではなく、「彼らを赦してほしい」という言葉だった。そんなことを言いながら死んでいく死刑囚を見たことがなかったのです。そしてこのイエスという男はただ、「わが神、わが神」と言って死んでいった。自分を裏切った弟子たちへの恨みを言うのでもない。自分を馬鹿にし続けた兵士たちや祭司長たちを呪いながら死んでいったのでもない。ただ、「わが神、わが神」と言って、ただ神に向き合って、神に向かって叫びながら死んでいった。この人は違う。他の人間たちとは死に方が違う。
淀川キリスト教病院の理事長で、柏木哲夫先生というクリスチャンの方がいます。この方が、「人は生きてきたように死んでいく」というエッセイの中で、こんなことを書いていました。
ホスピスという場で約2,500名の患者さんを看取った。重い仕事である。同時に学ぶことの多い仕事でもある。看取りという仕事を通して学んだ最も大きいことは「人は生きてきたように死んでいく」ということである。しっかりと生きてきた人はしっかりと死んでいく。周りに感謝して生きてきた人は家族やわれわれスタッフに感謝しながら死んでいく。不平を言いながら生きてきた人は不平を言いながら死んでいく。生き様が死に様に反映するのである。「良き死」を死すためには、「良き生」を生きねばならないと思う。
私たちはどのような死に方をしていくでしょうか。それは、私たちはどのような生き方をしていくか、という問いでもあります。私たちは、イエス様のように死ねるでしょうか。それとも、絶望したままで、神様に不平を言いながら死んでいくのでしょうか。私たちは、信仰を持ち続けて死んでいくでしょうか。それとも、疑いの心に支配されながら終わってしまうのでしょうか。
この11月、月間聖句として、私たちはルカの福音書22章32節に繰り返し聴き続けてきました。
22:32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
イエス様が、今も私たちのために祈ってくださっています。今も私たちとともに歩んでくださっています。復活の希望が与えられているのに、それでも絶望してしまう私たちの弱さを、イエス様が知ってくださっています。イエス様も神様に叫んだからです。「どうして」と叫んだからです。イエス様も絶望の中から「立ち直った」人だからです。私たち罪人が背負うはずの苦しみを、神の子が背負ってくださった。そして、まことの信仰の道を開いてくださった。十字架を見上げる時、そして復活のイエス様を見上げる時、私たちは、疑ってもいいんだな、と思えます。絶望してもいいんだな、と思えます。でも、絶望したままでいなくていいんだな、とも思える。「どうして」と祈っていい。そして、「ゆだねます」と祈っていい。色々なものが混ざった信仰でいい。それが私たちキリスト者の「良き生」ではないでしょうか。お祈りをいたしましょう。
祈り
私たちの父なる神様。私たちはどのように死ぬでしょうか。不安があります。最期まで信仰を持ち続けられる自信がありません。でも、そんな私のためにイエス様が祈ってくださっている。私が歩む道を、すでにイエス様が歩んでくださった。そして今もともに歩んでくださっている。このことが私の慰めです。疑いながら、絶望しながら、それでもあなたを信じる信仰者として生かされている、この幸いを感謝いたします。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。