ルカ5:12-13「クリスマスは汚れた祭り?」(宣愛師)

2024年12月1日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ルカの福音書』5章12-13節


5:12 さて、イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」
13 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。



クリスマスは汚れた祭り?

 キリスト教会の暦では、今日から「アドベント」が始まります。「待降節」とも呼ばれています。降ることを待つ季節と書いて、「待降節」です。救い主がこの世界に降って来てくださることを、今か今かと楽しみに待ち望む、それが待降節であり、アドベントの季節です。

 しかし実は、アドベントやクリスマスを祝うことを快く思わない人々もいます。たとえば、「エホバの証人」というキリスト教系のグループがありますが、彼らはクリスマスを祝わないそうです。なぜクリスマスを祝わないのか。いくつか理由があります。

 第一に、そもそも誕生日を祝うということ自体が聖書的な習慣ではない、という理由です。創世記40章20節と、マタイ14章6節以降をお読みします。


【創世記40:20】

20 三日目はファラオの誕生日であった。それで彼は、すべての家臣たちのために祝宴を催し、献酌官長と料理官長を家臣たちの中に呼び戻した。

【マタイ14:6-10】
6 ところが、ヘロデの誕生祝いがあり、ヘロディアの娘が皆の前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。
7 それで彼は娘に誓い、求める物は何でも与えると約束した。
8 すると、娘は母親にそそのかされて、「今ここで、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい」と言った。
9 王は心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、与えるように命じ、
10 人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。

 聖書の中で誕生日を祝っているのは、エジプトの王ファラオと、ユダヤの王ヘロデだけ。しかもヘロデの誕生祝いには、あのパプテスマのヨハネが殺されるという、とんでもない悪事も行われている。誕生日を祝うというのは異教徒の悪しき習慣であり、聖書の神を信じる者たちは誕生日を祝うべきではない、というわけです。ですからエホバの証人の方々は、クリスマスを祝わないだけではなく、家族や信徒仲間の誕生日を祝うということも避ける傾向にあるそうです。

 エホバの証人がクリスマスを祝わない第二の理由は、クリスマスは異教の祭りに由来している、ということです。ローマ帝国では、太陽を神として拝むミトラ教と呼ばれる宗教があり、この宗教では12月25日を「不滅の太陽の復活祭」として祝っていました。12月25日というのは「冬至」の時期です。太陽が世界を照らす昼間の時間よりも、夜の時間のほうが長かった季節が終わり、これから太陽の力が復活していくのだということを祝うお祭りです。キリスト教をローマの宗教として公認したコンスタンティヌス皇帝が、このようなミトラ教のお祭りを、キリスト教のお祭りと混ぜてしまったのだ。クリスマスは異教の祭りに由来するものなのだ、ということです。

 そして第三に、エホバの証人の方々がクリスマスを祝わない最も重要な理由は、このような“汚れた異教の習慣”が聖なるキリスト教の中に入り込むことを、神様ご自身が忌み嫌われる、ということです。第二コリント6章ではパウロも次のように言っているではないか、というわけです。


6:15 キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。
16 神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。 

「わたしは彼らの間に住み、また歩む。 
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。 
──主は言われる── 
汚れたものに触れてはならない。 
そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、
18  わたしはあなたがたの父となり、
あなたがたはわたしの息子、娘となる。 
──全能の主は言われる。」

 「汚れたものに触れてはならない。」汚れた異教の祭りに由来するような行事を祝うことは、神に嫌われることである。だから、クリスマスを祝ってはならない。このような理由でクリスマスを良く思わないのは、エホバの証人だけではありません。いわゆる正統的なキリスト教徒たちの中にも、異教の祭りに由来するという理由で、クリスマスを祝うことを推奨しない方々がいます。

 私はこの問題についてあれこれと考える中で、この問題は、単にクリスマスを祝うべきか祝うべきではないか、ということにとどまらない、もっと重要な問題なのではないか、と思うようになりました。それは、神様に喜ばれる“聖なる生き方”とはどのような生き方なのか、ということです。私たちキリスト者が目指すべき“聖なる生き方”とは、「汚れたものに触れてはならない」という言葉だけで説明しきれるようなものなのだろうか、ということです。


「手を伸ばして彼にさわり」

 ルカの福音書5章12節を改めてお読みします。


5:12 さて、イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。

 「ツァラアト」というのは、皮膚病のようなもの全般を指す言葉でした。全身が剥がれたかさぶたのようになってしまい、肌はただれて色が変わってしまう。このような人々は、“汚れたもの”とみなされていました。彼らに触れると“汚れ”が移る、と思われていました。彼らは町の中に入ってはならず、洞窟などで隠れて暮らすことしか許されていませんでした。

 しかしこの時、驚くべきことが起こりました。13節をお読みします。


13 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。

 驚くべきことというのは、「すぐにツァラアトが消えた」ということだけではありません。もちろん、不治の病と思われていたツァラアトが癒やされたことは、驚くべきことです。しかし、それと同じくらい、いや、もしかすればそれ以上に驚くべきことは、「イエスは手を伸ばして彼にさわ」った、ということです。この地上で最も聖なる存在であるはずのお方が、神の子であるはずのお方が、最も汚れた存在とされていたこの病人に、自ら手を伸ばしてさわったのです。

 “聖なる生き方”と聞くと、できるだけ汚れたものに触らず、近づかず、自分のきよさを保ち続ける、そんな生き方を想像するかもしれません。しかし、イエス様が示した“聖なる生き方”というのは、そのような生き方ではなかったのです。汚れたものを避けるどころか、むしろ自らその汚れに触れていって、その汚れをきよめていく。自らのきよさを保ちつつも、周りの人々にきよさを広げていく、そのような生き方こそが、イエス様の“聖なる生き方”だったのです。

 私たちキリスト者も、イエス様のような生き方をしたいと思います。もちろん、イエス様とは違って私たちは、汚れたものをきよめるどころか、むしろその汚れに飲み込まれてしまうような弱い存在です。だからこそ聖書は、「汚れたものに触れてはならない」とも語るのです。自分自身のきよさを保つことが大前提であることは間違いありません。しかし、その上で私たちは、自分自身のきよさを保つことだけを考える“宗教的潔癖症”に陥らないように、イエス様の生き様を見つめ続けるものでありたいと思わされます。

 たとえば、お酒について考えてみましょう。聖書はお酒を飲むことそのものを禁止していませんし、イエス様もぶどう酒をお飲みになっていたわけですから、お酒そのものが汚れたものだとは言えません。しかし、お酒によって様々な罪が入り込んでしまうことも事実ですから、聖書は「ぶどう酒に酔ってはいけません」(エペソ5:18)とも命じるわけです。

 そこで、クリスチャンたちの間で時々話題になることがあります。それは、大学や会社の飲み会に、クリスチャンである自分は参加すべきか、ということです。先ほども言った通り、お酒そのものが罪だというわけではありませんし、健全な飲み会というものももちろんある。しかし、中には少々危険な、決して健全とは言えないような集まりもあるかもしれない。そのような場合に、クリスチャンは参加すべきか、それとも誘われても断るべきか。

 ここでも私たちは、“聖なる生き方”とはどのような生き方か、という視点から考えることができると思います。もしその人が、どうしても不健全な雰囲気に流されてしまい、飲みすぎてしまって良からぬ方向に流されてしまうようであれば、そういう集まりには初めから参加しないほうが賢明でしょう。自分自身のきよさを保てないと心配になるなら、そのような席から距離を置くというのは良い判断だと思います。

 しかし、そのような集まりにこそクリスチャンが必要だ、と考えることもできるでしょう。皆がビールを注文する中で、自分は烏龍茶を頼む、もしくは度数の弱いお酒を一杯だけにしておく、ということでもよいでしょう。酒の力を借りなければ本気で楽しめない、本音で語り合えないと思っている人たちの中で、コカコーラ片手にキラキラと楽しんでいる人がいたら、その場所には神様のきよさが広がっているのかもしれません。

 お酒に限った話ではありません。お金の使い方、休日の過ごし方、インターネットの使い方、異性との付き合い方などなど、生活のあらゆる領域において、私たちの“聖なる生き方”が問われているのです。どうすれば私たちキリスト者は、自分自身のきよさを保ちつつも、“宗教的潔癖症”に陥ることなく、イエス様のような生き方ができるのか。私たちそれぞれに問われていることです。


「義の太陽が昇る」

 異教の習慣に由来する祭りを祝うことを神様は嫌われるのではないか、と考える人々の気持ちはよく分かるような気がします。なるべく純粋な、なるべくきよらかなキリスト教を信じたい、余計なものが混ざっていない、純粋無垢な信仰を守りたい、そのような気持ちもよく分かります。しかし、私たちキリスト者が、何よりもまずイエス様に倣うことを目標とする時、どうすれば“汚れ”を避けることができるかというよりも、どうすれば“汚れ”をきよめていけるだろうか、ということを考えるところから始めたいと思うのです。

 たしかに、聖書の中で誕生日を祝っているのはファラオとヘロデだけです。しかも、ヘロデの誕生日パーティの様子を見てしまうと、誕生祝いなんてろくなもんじゃないな、とも思えます。しかしだからといって、誕生祝いという考え方そのものを“汚れた習慣”として避ける必要があるのでしょうか。むしろ私たちは、一人の人がこの世界に生まれたということを神様に感謝するという、温かで健全な喜びに溢れた誕生日を祝うことによって、ヘロデが汚してしまったかのように見えるこの習慣をきよめることができるのではないでしょうか。

 たしかに、12月25日という日付や、そのほかクリスマスの様々な習慣は、異教のお祭りに由来しています。ローマ皇帝コンスタンティヌスは、純粋なキリスト教と異教の習慣を混ぜようとしました。彼はキリスト教と太陽崇拝を混ぜこぜにすることによって、太陽崇拝を生き残らせたかったのです。しかし、それから約1700年が経った今、12月25日に太陽神ミトラスを拝んでいる人がどこにいるでしょうか。たしかに、クリスマスは異教の文化によって始まったという側面があります。汚れた異教が、聖なるキリスト教の中に入り込んでしまったとも言えるでしょう。サタンのねらいは、異教の文化を混ぜ込むことによって、キリスト教を堕落させることだったのかもしれません。そして実際、そのようにして堕落させられてしまった部分もあったでしょう。しかし、少なくとも12月25日が世界中でクリスマスとして祝われ、ただイエス様の誕生を喜ぶ日として知られていることは、ツァラアトに冒された人をきよめられた、イエス様の“聖なる生き方”の延長線上にあることとして、私たちは喜んでも良い、いやむしろ、大いに喜ぶべきではないかと思うのです。

 旧約聖書のマラキ書には次のように書かれています。マラキ書の4章1節と2節をお読みします。


4:1 「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。 
その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。 
迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。 
──万軍の主は言われる──
2  しかしあなたがた、
わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。
その翼に癒やしがある。
あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。……」

 キリスト教会では、クリスマスを祝い始める前から、マラキ書に書かれている「義の太陽」とはイエス様のことだ、と信じていました。12月25日とは関係なく、ローマの宗教を真似したからではなく、聖書にそう書かれていたから、イエス様を「義の太陽」として礼拝していたんです。それが結果的には、太陽神ミトラスと結びつくきっかけにもなったわけですが、最終的に生き残ったのは、異教の太陽神ではなく、神が遣わしてくださった「義の太陽」でした。

 冬が近づくにつれて、私たちの気持ちがどうしても落ち込んでしまうのは、太陽が力を失っているように見えるからかもしれません。やっと日が昇ったかと思えば、あっという間に夕暮れになってしまう。希望の光をすぐに見失ってしまう。しかし、「義の太陽」が必ず昇ります。暗い世界を照らしてくれます。汚れたこの世界に、温かいきよさをもたらしてくれます。

 クリスマスは“汚れた祭り”なのでしょうか。たしかに、“汚れ”はまだまだあるかもしれません。イエス様の誕生の意味が忘れ去られ、単なる商業的キャンペーンの季節になってしまっている部分もあるでしょう。ひとりぼっちの人たちにますます孤独を感じさせるだけの、冷たいお祭りになってしまっている面もあるでしょう。まだまだきよめられなければならない部分があります。しかし私たちは、汚れた部分が混ざっているからと言ってこれを全て捨て去るのではなく、むしろ、本来あるべき“聖なる夜”を取り戻していくことを目指すべきなのではないでしょうか。孤独の中に凍えそうになっている人々が、温かい食事の交わりに迎えられるようなクリスマスを、贈り物をくれる家族や友人のいない人々が、心からの贈り物を受け取れるようなクリスマスを、町の外にある洞窟に隠れてひっそりと暮らしている人々が、神の愛に触れられるようなクリスマスを、私たちは目指していきたいと思います。そして私たち自身もまた、そのような幸いなクリスマスを心から楽しみに待ち望む、幸いなアドベントの季節を歩みたいと願います。お祈りをいたします。


祈り

 父なる神様。聖なる、聖なる、聖なる万軍の主は、汚れた者にふれることを厭わない、汚れた者をこそ愛してやまない、恵みの神でした。この神の恵みを示すために、神の御子がこの世に降りて来てくださいました。暗く、さみしく、冷え切ったこの世界が、まことの光を知るために、まことのクリスマスの幸いを知るために、どうぞ私たち盛岡みなみ教会をあなたの聖なる宮としてきよめ、あなたの御心のままにお用いください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。