イザヤ6:13, 11:1「切り株とキリスト」(宣愛師)

2024年12月29日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
旧約聖書『イザヤ書』6章13節, 11章1節


6:13  そこには、なお十分の一が残るが、 
それさえも焼き払われる。 
しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、 
それらの間に切り株が残る。 
この切り株こそ、聖なる裔。

11:1 エッサイの根株から新芽が生え、 
その根から若枝が出て実を結ぶ。



「切り株が残る」

 週報のコラムにも書きましたように、世間では12月25日が過ぎ去ればクリスマスも終わり、あっという間にお正月ムードになります。しかし、キリスト教会の伝統的な暦に基づくならば、クリスマスは12月25日だけで終わるものではなく、1月6日の“公現日”まで続いていくものです。ですから、クリスマスの飾りは来週まで「出しっぱなし」にしておくこととして、今日もクリスマスの讃美歌を歌い、そしてクリスマスに関する聖書のみことばに耳を傾けたいと願っています。

 ブッシュ・ド・ノエルという名前のケーキがあります。フランス語で「クリスマスの木」という意味だそうで、名前の通り「切り株」の形をしたケーキです。なぜクリスマスに切り株の形のケーキを食べるのかについては色々な説があるようです。「幼いイエス様を暖めて護るために、暖炉で夜通し薪を燃やしたことに由来する」という説もあるそうですが、実際のところ由来が何なのかははっきり分かりません。いずれにせよ、「切り株」というものは、何かとクリスマスとの関わりが深いようです。

 イザヤ書の6章にも「切り株」が登場します。11節から13節をお読みいたします。


6:11  私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は言われた。 

「町々が荒れ果てて住む者がなく、 
家々にも人がいなくなり、 
土地も荒れ果てて荒れ地となる。
 12  主が人を遠くに移し、 
この地に見捨てられた場所が増えるまで。
13  そこには、なお十分の一が残るが、 
それさえも焼き払われる。 
しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、 
それらの間に切り株が残る。 
この切り株こそ、聖なる裔。」

 神の民は、神のさばきを受けなければならない。彼らが罪を犯し続けたからです。神の民として選ばれたにもかかわらず、神のみことばに従わず、隣人を愛さず、貧しい人々を助けることもせず、自分勝手な生き方をやめようとしなかった。彼らの姿は、腐ったぶどうの木にもたとえられています。おいしいぶどうの実を実らせるはずだったのに、腐ったぶどうしか実らせることができなくなってしまった。虫に噛まれてしまって、病気に冒されてしまって、罪の深みに落ち込んでしまって、放っておけば周りにまで害を広げることになってしまう。

 ついに神様は、腐ったぶどうの木を切り倒すことを決意されました。彼らは切り倒され、焼き尽くされなければならない。さばかれて当然の罪のゆえに、自業自得の報いを受けなければならない。しかし、「それらの間に切り株が残る。」民の罪をさばかれる神、しかし民を愛してやまない神は、彼らを滅ぼし尽くすことなく、「切り株」を残してくださるというのです。

 私たちも、自分勝手な生き方をやめない私たち自身の罪のゆえに、神様からさばきを受けなければならない存在です。隣人を愛さず、貧しい人々を愛さず、自分勝手な、自己中心的な生き方をやめようとしない罪のゆえに、神の怒りを受けるべき存在です。高く高く成長したように見えて、見た目は立派になったかもしれないけれど、実る果実は腐っていて、知らぬ間に周りの人々に害を与えている。成長なんてしている場合ではありません。一刻も早く切り倒されなければならない、有害な存在です。しかしそれでも神様は、「切り株」を残してくださる。

 「切り株」についてインターネットで調べていたら、「枯れたはずのぶどうの切り株から新芽が出てきました」というブログ記事を見つけました。「切り株になって枯れたはずの巨峰から奇跡的に新芽がでました」とのことで、写真が添えられていました。ブドウスカシバという虫の幼虫に喰われてしまったことが原因で、切り倒すしかなかったのだそうですが、何ヶ月も様子を見守っていたら、切り株から新しい芽が出てきたのだそうです。


Amebaブログ「園芸で鉢植えの果樹を栽培」(https://ameblo.jp/s-fbl1sr2zd8/entry-12675571110.html)

「エッサイの根株から新芽が」

 イザヤ書11章の1節と2節をお読みします。


11:1 エッサイの根株から新芽が生え、 
その根から若枝が出て実を結ぶ。 
2 その上に主の霊がとどまる。 
それは知恵と悟りの霊、 
思慮と力の霊、 
主を恐れる、知識の霊である。

 ここでもイザヤは、「切り株」について語り続けています。切り倒された木の切り株、根株から、「新芽」が生えてくる。「若枝」が出て来て、実を結ぶまでになる。虫に喰われて、病気になって、そのまま放っておけば、根本から枯れてしまいます。しかし、神様が切り倒してくださって、「切り株」になったからこそ、そこから新しい芽が生えてくることができる。

 「新芽」や「若枝」という表現は、救い主メシアを指し示しています。二千年前のクリスマスに、貧しい家畜小屋にお生まれになった、私たちの主イエス・キリストを指し示しています。救い主は順調に大きくなった大木としてではなく、「切り株」に芽吹く小さな「新芽」として現れるのです。

 「エッサイの根株から」とも書かれています。「エッサイ」という人は、ダビデ王の父親です。普通の言い方であれば、「救い主はダビデの根株から生まれる」とか、「救い主はダビデの子孫から生まれる」と言ってもよいところでしょう。しかしイザヤはあえて、「ダビデの根株から」ではなく、「エッサイの根株から」と語ります。今やイスラエルの偉大な王となった「ダビデ」ではなく、あえて「エッサイ」という、平凡な一般人だった父親の名前を使うのです。

 救い主がお生まれになるということは、まずダビデが立派な王様になって、その子孫たちも正しい道を歩み続けて、立派な王様が何代も何代も続いて、最後に一番立派な救い主がお生まれになる、ということではありませんでした。むしろ、ダビデは大きな罪を犯し、ダビデの子孫たちも罪を犯し続け、神のさばきを受け、没落して、力を失い、どうしようもない、救いようのない状態に陥った、そのような罪深い歴史のただ中にあって、救い主はお生まれになりました。

 クリスマスが私たちに教えていること、「切り株」に芽生えた「新芽」が私たちに教えていること。それは、神の救いとは、私たちの正しさや努力や能力の延長線上において勝ち取られるものではなく、むしろ私たちの失敗や挫折の現実のただ中に与えられるものだ、ということです。

 今日は2024年最後の日曜礼拝です。「この一年は何もかも順調でした」とか、「順調に成長して立派な実を実らせました」とか、そんなふうに言える一年ではなかったかもしれません。むしろ、何をやってもうまくいかず、失敗し、停滞し、虫に喰われ、病気に冒され、周りにも多大な迷惑を及ぼしてしまい、そしてついに倒れてしまった、そんな一年だったかもしれません。高く高く成長して、他の木と背くらべをするような、そんな努力に失敗して、高さを競うどころか、ついに「切り株」だけになってしまった、そんな一年だったかもしれません。

 「切り株」になることは、恥ずかしいことです。周りの木々と比べれば、みっともない姿です。でも、腐った木が腐ったままで腐った実を実らせるくらいなら、いっそのこと切り倒していただいたほうが良いのです。必死に積み上げてきた評判。必死に作り上げてきた人間関係。それらのものがすべて崩れ去ることはとても辛いことです。しかし、そこから始まる恵みがあるのだと聖書は語るのです。「切り株」にしか分からない恵みがある。切り倒されたからこそ、神のさばきを受けた罪人だからこそ、本当の神様の優しさが見えてくるのだと、聖書は語るのです。

 私たちは「切り株」ですから、高さ比べをしません。私たちは「切り株」ですから、自分の高さを誇るようなことはしません。「切り株」は、自らがさばかれるべき罪人であることを心から認めています。そして、自分自身が大きくなることではなく、自分自身の中に新しい芽が育っていくことを誇りとします。私自身はみっともなくて良いのです。イエス様が私たちの中に住んでくださるなら、いつか必ず、おいしいぶどうの実を実らせることができるはずです。2025年はそのような一年となりますように。「切り株」として救い主とともに生かされ、まことの幸いを味わう一年となりますように。お祈りをいたしましょう。


祈り

 私たちの父なる神様。すくすくと成長して、他の木よりも立派な木に育って、美しい果実を実らせる、そんな順風満帆な人生を歩みたいと思っていました。しかし、あなたのさばきによって切り倒された時、そのようにして自分と人を比べたり、高慢になって人を見下す必要がないことに気づかされ、ほっとしました。どうか私たちの心の中に、イエス様が住んでくださいますように。私の力ではなく、私の栄光でもなく、イエス様の恵みが芽生え育っていくような人生を歩むことができますように。救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。