マルコ15:40-47「葬りを見つめて」(宣愛師)
2025年1月19日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』15章40-47節
15:40 女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた。
41 イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。42 さて、すでに夕方になっていた。その日は備え日、すなわち安息日の前日であったので、
43 アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。ヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。
44 ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いた。そして百人隊長を呼び、イエスがすでに死んだのかどうか尋ねた。
45 百人隊長に確認すると、ピラトはイエスの遺体をヨセフに下げ渡した。
46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを降ろして亜麻布で包み、岩を掘って造った墓に納めた。そして、墓の入り口には石を転がしておいた。
47 マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた。

「ヨセフは、勇気を出して」
クリスマスの季節が始まってからはしばらく中断していましたが、今日は2ヶ月ぶりにマルコの福音書を開くこととなりました。ご一緒に読み進めてきたこの福音書も、最終章の手前まで来ました。今日の箇所は、十字架に架けられて息を引き取ったイエス様の葬りがなされる場面です。40節から始まりますが、まずは42節と43節をお読みします。
42 さて、すでに夕方になっていた。その日は備え日、すなわち安息日の前日であったので、
43 アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。ヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。
「すでに夕方になっていた」と書かれています。日没が近づいていました。ユダヤ人の文化では日没から一日が始まると考えられていたので、この日が「安息日の前日」で、「すでに夕方になっていた」ということは、もうすぐ安息日が始まってしまうということでした。安息日が始まってしまえば、あらゆる仕事は禁止されてしまいます。死体を葬ることも禁止されてしまいます。日が暮れる前に、急いで葬りをしなければなりませんでした。
「アリマタヤ出身のヨセフ」。これまでマルコの福音書を読み進めて来た中で、一度も登場したことのなかった人です。いきなり出てきましたが、一体どういう人物なのでしょうか。「有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた」とあります。ルカの福音書23章51節を見てみると、「神の国を待ち望んでいた彼は、議員たちの計画や行動には同意していなかった」とあります。他方でヨハネの福音書19章38節には、「イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフ」とも書かれています。イエス様を殺そうと企む議員たちには賛同しなかったけれども、かといってイエス様の弟子であることを公にすることもできない、曖昧な立場の人でした。
しかし彼は、「勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た」というのです。普通、十字架に架けられて殺された犯罪者は、そのまま放置されて鳥や動物に食べられてしまうか、ゴミ捨て場のようなところに投げ込まれることになっていました。そんな犯罪者をきちんとした場所に葬りたいと願うことは規則違反でしたし、「自分もあの犯罪者の仲間です」と宣言するようなことでした。「有力な議員」としての立場を失うどころか、自分が一緒に死刑にされてもおかしくないような危険行為でした。それでも彼は、「勇気を出して」立ち上がった。
1910年に、「大逆事件」もしくは「幸徳事件」と呼ばれる事件が起こりました。後に冤罪だったことが発覚したのですが、明治天皇を暗殺しようとしたということで、十分な裁判も行われないままで、多くの人が死刑判決を受けた事件です。その中に大石誠之助というキリスト者がいたのですが、彼が処刑された後にこんな出来事があったそうです。
古賀敬太「内村鑑三とその時代(6):内村鑑三と植村正久の政治批判」(『国際研究論叢』36号3)50頁。一部修正。
大石誠之助は、処刑を執行された12名のうちの一人であった。……彼は根拠不十分であるにもかかわらず、幸徳秋水との事件の共謀が疑われ、1910年6月に起訴され、1911年1月24日に処刑された。植村正久は大石とは一面識もなかったが、1月28日に葬儀を執り行った。当時大逆罪で処刑された者の葬儀は許されなかったが、植村は当局の意向に逆らって、「遺族慰安会」という名のもとに葬儀を行った。……なおこの葬儀には、数名の警察官が戸外に控えており、会が終わるや、一人の警察官が植村に面会を求めたという。植村は大石誠之助の葬儀を挙行することを通して、反権力の立場を示したといえる。
大石誠之助の葬儀を執り行った植村正久牧師の姿が、アリマタヤのヨセフの姿に重なります。私たちはどうでしょうか。イエス様の弟子でありながら、それを公にすることを恐れたり恥ずかしがったりするような臆病な信仰者かもしれません。同調圧力に負けてばかりかもしれません。
私たちと同じように臆病だったはずのヨセフは、なぜ勇気を出せたのでしょうか。それは、彼がイエス様の十字架を見たからです。曖昧な立場のままでやり過ごそうとしていたヨセフが、イエス様の十字架でのお姿を見た時、「この世界を救うためにあの方が命をかけてくださったのに、なぜ自分はあの方にお従いせず、安全な場所にとどまろうとするのか」と思ったからに違いありません。彼はイエス様の十字架を見つめることによって、自分のいのちよりももっと大切なことがあることを知ったのです。イエス様の十字架を見つめることによって初めて、イエス様の弟子として生きる人生を恥じることなく、堂々とその信仰を告白することができるようになるのです。
44節から46節までをお読みします。
44 ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いた。そして百人隊長を呼び、イエスがすでに死んだのかどうか尋ねた。
45 百人隊長に確認すると、ピラトはイエスの遺体をヨセフに下げ渡した。
46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを降ろして亜麻布で包み、岩を掘って造った墓に納めた。そして、墓の入り口には石を転がしておいた。
旧約聖書には、「死人に触れる者は……七日間汚れる」(民数記19:11)と記されています。葬りのためであったとしても、死体に触れた者は七日の間汚れた状態となり、礼拝やお祭りに参加できなくなるという決まりがありました。この日の翌日には、ユダヤ人にとって最も大切な祭りの一つである「過越の祭り」が行われる予定でした。しかしアリマタヤのヨセフは、その大切な祭りに参加することよりも、汚れた者としてイエス様を葬ることを優先しました。ここにも、同調圧力に屈することがなく、イエス様への信仰を貫いたヨセフの姿を見ることができます。
「女たちも遠くから見ていた」
ここまではアリマタヤのヨセフの姿に注目して来ましたが、一方で私たちが忘れてはならないのは、イエス様に従い続けた女性たちの姿です。40節と41節、そして47節をお読みします。
40 女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた。
41 イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。
……47 マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた。
十字架の上で息を引き取られたイエス様の姿を、「女たちも遠くから見ていた」。イエス様が墓に葬られた時も、「イエスがどこに納められるか、よく見ていた。」イエス様の弟子といえば、十二弟子と呼ばれる男性の弟子たちが有名です。マルコの福音書でも、これまで登場した弟子は全員男性でした。しかし彼らは皆、権力者たちに逮捕されることを恐れてどこかに逃げてしまっていました。ヨハネの福音書を見てみると、全ての男性たちが逃げてしまったわけではなかったようですが、それでもほとんど全員がイエス様を見捨ててしまった。そのような中で、マグダラのマリアを始めとする女性たちは、イエス様のもとを決して離れなかったのです。
今以上に男女差別の激しい時代でした。女性には大したことはできないと思われていました。たしかに、イエス様が殺されようとしていた時、そして実際に殺されてしまった時、彼女たちにできることは何もありませんでした。彼女たちには、アリマタヤのヨセフのような力もありませんでした。ピラトに遺体の下げ渡しを申し出ることのできる立場でもなければ、イエス様を葬るための墓をエルサレムで用意することもできず、重い石を転がして墓に蓋をすることもできませんでした。しかし彼女たちはこの時も、自分たちには何もできないと分かっていながらも、「よく見ていた」のです。彼女たちには、遠くから見ていることしかできませんでした。しかし、遠くからであったとしても、「見ていた」のです。そして「見ていた」ということによって、彼女たちはやがて、世界の歴史を根本から変えてしまう大事件の目撃者となっていくのです。イエス・キリストの復活の第一発見者となったのは、ペテロでもヤコブでもヨハネでもなく、この女性たちでした。
「復活なんていうのは、イエスの弟子たちの作り話に違いない」と主張する人々もいます。「イエスが死んでしまったことを受け入れられなかった弟子たちが、イエスの復活なんていう作り話を作ったのだ」と。しかし、もし弟子たちが作り話を作ったのだとすれば、女性たちが復活の最初の目撃者だった、などという話にはしなかったはずです。女性が差別されていた当時の世界では、女性には裁判の証人として立つことさえ許されていませんでした。当時のルールについて、次のような資料が残っています。「女たちを証人にしてはならない。彼女らはその性のために軽率で無分別だからである。」このようなことが平気で言われていた時代です。もし作り話を作るなら、復活の第一発見者はペテロやヤコブやヨハネなどの男性たちだった、という設定にするはずです。
大したことはできないと舐められていた女性たちです。実際に彼女たちも、自分たちの無力さを痛感しながら、「私たちには見ていることしかできない」と思っていたでしょう。しかし神様は、社会からは価値がないと見做され、自分たち自身も「見ていることしかできない」と思っていたこの女性たちを、最も重大な歴史的瞬間の目撃者としてお選びになったのです。見ていることしかできなかった彼女たちが、しかししっかりと見ていたからこそ、イエス・キリストの復活という偉大な知らせを届けることができたのです。二千年が経った今もこの世界に希望をもたらし続けている世界最大のグッドニュースは、何もできないと思われていた女性たちから始まりました。
死を見つめ続けた者だけが、復活を語ることができます。「死」とは、必ずしも肉体の死だけではありません。聖書は、私たち人間一人ひとりの現実を、「罪の中に死んでいる」ものと表現します。罪という現実から逃れることのできない私たちは、生きているように見えて、実は死んでいるのだと聖書は語るのです。そのような自分自身の死んだ姿を見つめることなしに、復活の素晴らしさを語ることはできません。教会は楽しいところですよ、イエス様を信じたら幸せですよ、ということだけでは、福音を語ることはできません。罪の中に死んでいる自分の姿を見つめ、それを語ることによって初めて、イエス様の福音を誰かに伝えることができるようになります。
使徒パウロは次のように語りました。ローマ人への手紙6章4節から6節。
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
5 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。
6 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。
女性だろうと男性だろうと、何もできない時があります。自分の罪の現実を見て、どうして自分はこんなにも愚かなのだろうか、どうして人を傷つけてしまうのだろうか、どうして真面目に生きられないのだろうかと、途方に暮れてしまう時があります。そんな時、私たちがすべきことは、実は自分は死んではいないのだとか、実は大した罪人ではないのだ、などと言って現実から目を逸らすことではなく、むしろ死の現実、罪の現実を見つめ続けることです。私は死ななければならないほどに罪深い者だったのだ、こんな自分は死んでしまって当然なのだ、でも、だからこそイエス様が私とともに死んでくださったのだ、と認めることです。人に優しくできない自分、人を憎んだり妬んだりする自分、自分の力ではどうにも変われない自分を認めることです。
私は確かに死んでいる、ということを見つめ続ける人だけが、復活の目撃者となります。自分の死をしっかりと確認することができた人だけが、イエス様とともに死に、イエス様とともに生きるその救いに与ることができます。「こんな自分なんて死んでしまったほうがいい」と思うほどに自分に絶望した人だけが、「こんな自分のためにイエス様は死んでくださったのだ」と言えるようになるのです。来週の礼拝で再び、私たちはマルコの福音書を開きます。15章が語る死と葬りの現実から目を逸らさなかった者たちは、16章が語る出来事へと進んで行きます。来週の日曜日、再びここに集まるまでの間、私たちはそれぞれの場所にあって、自らの死の現実、罪の現実と向き合いたいと思います。そしてその上で、再びここに集まって、私たちを罪と死から救い出してくださる主の復活の素晴らしさをご一緒に味わいたいと思います。お祈りをいたします。
祈り
私たちの父なる神様。あなたを信じていると言いながら、教会の外では信仰を隠し続け、恥ずかしがってしまうような、臆病な私たちかもしれません。自らの罪の現実から目を逸らし、そんなに自分は罪深い人間ではない、死ぬ必要なんてないと思い込もうとして、ついにはイエス様の十字架からも目を逸らしてしまう、頑なな私たちかもしれません。どうせ自分には何もできないと開き直ってしまい、見つめるべきものを見つめることさえ止めてしまう、怠惰な私たちかもしれません。今一度、イエス様の十字架を見つめたいと思います。そしてその十字架が、私たちとともに死んでくださるための十字架であったことを思い起こしたいと思います。どうか神様、この一週間、自らの罪と向き合い、主の十字架を見つめることによって、古い自分が葬られてしまうことを願う私たちの上に、あなたの導きと祝福を豊かにお与えください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。