マルコ16:1-8「そこでお会いできます」(宣愛師)
2025年1月26日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』16章1-8節
16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
2 そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。
3 彼女たちは、「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
4 ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。
5 墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。
6 青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。
7 さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」
8 彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

「週の初めの日の早朝」
こちらの写真をご覧ください。イスラエルのある地域で高速道路が工事されていた時に発見されたお墓だそうです。イエス様が葬られた墓ではなく、エルサレムの近くにある墓でさえありませんが、当時の墓がどのようなものだったか分かります。大きな丸石が溝にはめられていて、この石を転がすことによって墓の入り口を塞いだり開いたりできるようになっています。

イエス様が実際に葬られた墓がどこにあったのかは定かではありません。エルサレムには聖墳墓教会(聖なるお墓の教会)という名前の教会があって、その場所にイエス様のお墓があったのかもしれません。あるいは、そこから少し離れた場所にある「園の墓」と呼ばれる場所が、イエス様のお墓だったのかもしれません。しかし、今となってはどうでも良いことであるとも言えます。イエス様はもう、墓の中にはおられないからです。1節から3節までをお読みします。
16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。2 そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。3 彼女たちは、「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
福音書を研究する時には、四つの福音書を読み比べる、ということをします。様々な違いがあることが分かります。マルコの福音書を読んでみると、イエス様のお墓に行ったのは「マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメ」だと書かれていますが、ルカの福音書には、「マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たち」と書かれています。他方でマタイには、「マグダラのマリアともう一人のマリア」としか書かれておらず、ヨハネに至っては「マグダラのマリア」だけが登場します。
このように、それぞれの記録の仕方には違いがあるのですが、四つの福音書全てに共通しているのは、この出来事が起こったのが「週の初めの日の早朝」だったということです。週の初めの日、日曜日の朝だったのだということを、わざわざ書き記すのです。「安息日(土曜日)が終わったので」と書かれていますから、翌日が日曜日であることは自然と分かるわけですが、それでも福音書の記者たちは口を揃えて、「週の初めの日」とはっきり記すわけです。
いつのことだったか忘れてしまいましたが、クリスチャンの友人と話していた時に、「どうして礼拝は日曜日の午前中なんだろう。せっかくの休みの日はゆっくり眠りたいから、午後のほうが助かるのに」と冗談半分に言われたことがありました。私もそう思います。実際、日曜日の午後に礼拝をささげる教会もあります。午前中でなくてもいいのです。もっと言えば、日曜日でなくてもいいのです。毎日が礼拝の日だからです。しかし、キリスト教会がこの二千年間ずっと、日曜日の朝、「週の初めの日」の朝の礼拝を大切にしてきたのだということも忘れたくないと思います。イエス様の復活を喜び祝うことが礼拝の中心だということを、教会はこの二千年間、大切にし続けてきました。私たちも、「週の初めの日の早朝」というほど早い時間ではありませんが、教会の仲間たちと共に集まってイエス様の復活を喜び祝うことを大切にしたいと思います。
4節から6節までをお読みします。
4 ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。
5 墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。
6 青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。
復活なんて本当に起こったのか、キリストの復活は事実なのかということについては、私がこの教会に着任してすぐの説教でもお話ししましたし、その後も繰り返しお話ししてきました。死んだ人間がよみがえるなどという信じられない出来事ですが、しかしそれが本当に起こったのだと考えるに値する様々な根拠があります。オカルトや与太話ではなく、歴史学的な対象として、真面目な研究がなされています。今後も説教の中で折に触れてお話しできればと思っていますし、いつでも質問していただきたいと思います。復活について「説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい」(第一ペテロ3:15)と聖書に書かれているからです。
私はまだイスラエルに行ったことがないのですが、スタディツアーに参加した友人から話を聞いたことがあります。先ほどご紹介した「園の墓」にも行ったそうです。実際に墓の中にも入れるそうです。中には誰もいなかったよと、友人は笑いながら言いました。そしてその墓の入口には英語で、HE IS NOT HERE――FOR HE IS RISEN と書かれていたことを教えてくれました。「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」観光客向けのサービスじゃないかと興ざめする人もいるでしょうが、そうだとしても、私もいつかそこに行ってみたいと思いました。
HE IS NOT HERE――FOR HE IS RISEN。主イエスは死者の中からよみがえられた。主イエスは今も生きておられる。それは一体どういうことなのか。復活を信じるとはどういうことなのか。このことについて、ウィリアム・バークレーという聖書学者は次のように言っています。
(一)イエスは書物の中の一人物ではない。われわれが、他の歴史上の人物の生涯を研究するように、イエスの物語を研究するだけでは十分ではない。われわれは、そのように始めても良いのかもしれないが、彼に出会うことにまで至らなければならない。(二)イエスは思い出ではない。イエスは臨在である。思い出は、最も大切な思い出でも色あせていく。ギリシャ人は「時がすべてを拭い去ってしまう」と語る。しかしイエスは、われわれが語り合うべき思い出ではなく、われわれが出会う方である。
(三)クリスチャンの生活は、イエスについて知っている人の生活ではなく、イエスを知っている人の生活である。イエスについてすべてを知っている世界で一番偉い学者も、毎日主を知っている謙遜なクリスチャンには勝らない。
(四)クリスチャンの信仰は、立ち止まっていない。主が生きた主であるがゆえに、新しい驚きと、新しい真理が、発見されるようにいつでも待っている。
ウィリアム・バークレー『マルコの福音書』大島良雄訳、ヨルダン社、1968年、440-441頁を佐藤が一部編集。
主イエスが今も生きておられるということは、主イエスは今日この時にも新しいことをなさるということです。私たちは今日もイエス様に出会い、今日もイエス様に祈り、今日もイエス様に愛され、今日もイエス様に驚かされるということです。主イエスが生きておられるということは、今日もイエス様のみことばを聞くことができ、今日もイエス様に罪を犯すことができ、イエス様を悲しませることができ、しかし今日もイエス様に赦していただける、愛していただける、守っていただけるということです。イエス様は、今は目に見えないとしても、いついかなる時にも、私たちのそばにいてくださるお方です。
「ガリラヤ……そこでお会いできます」
さて、いよいよマルコの福音書も終わりに近づいてきました。7節と8節をお読みします。
7 さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」
8 彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
驚くべきことに、マルコの福音書はここで終わっています。明らかに中途半端な終わり方をしています。どうしてこんな終わり方をしているのでしょうか。マルコは最初からここで終わらせるつもりだったのかもしれませんし、途中で力尽きてしまって未完成になったのかもしれません。もしくは、マルコは本当は続きも書いていたのだけれども、当時の巻物の端っこは切れやすかったので、8節よりも後ろの部分が失われてしまったのかもしれません。
いずれにせよ、8節で終わるのは中途半端だということで、様々な「補遺」が書き加えられました。私たちが使っている聖書には、それらの「補遺」の中でも伝統的に大切にされてきた二つ、長いものと短いものが記されていて、括弧の中に括られています。後で加えられたものだからと言って、それが聖書的でないというわけではありません。これらの「補遺」を書いた人々は、ルカやマタイやヨハネなど他の福音書を参考にしながら、祈りのうちにこれらを付け加えたはずだからです。教会の信仰のことばとして、私たちも大切にしたいと思います。
その上であえて、私たちの手元に残されているマルコの福音書がこの8節で終わっている、ということも大切にしたいと思います。マルコが途中で力尽きてしまったのだとしても、もしくは巻物の端っこが失われてしまったのだとしても、それが神様の許しの中にあったことだとすれば、中途半端に終わったままだということにも神様のご計画があったはずだからです。そして、結末が残されていないということは、結末を想像するように招かれているということでもあるはずです。
「だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」この、「だれにも何も言わな」い、という表現は、実はマルコが何度も繰り返してきた表現です。1章44節には、「だれにも何も話さないように気をつけなさい」というイエス様の戒めが書かれていますし、7章36節にも、「このことをだれにも言ってはならない」と記されています。そして大抵の場合、「だれにも言ってはならない」と言われているのに、人々は我慢ができずに話してしまう。それがこの福音書のお約束なのです。ですからこの女性たちが「だれにも何も言わなかった」というのは、それでもこの後話したんだろうな、という予想を促すものだと言えるわけです。彼女たちはきっと、自分たちが見たこと聞いたことを語り伝え始めたはずです。黙り続けることはできなかったはずです。
7節には、「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい」と書かれています。どうしてペテロだけが特別扱いなのでしょうか。それは、ペテロが特別な罪人だったからです。「あんな人は知らない」と言って、三度もイエス様を裏切ったからです。イエス様が殺されてしまった後、他の弟子たちは一緒にいたのに、ペテロだけはそこにいなかった、という可能性もあります。イエス様を裏切り、罪悪感におしつぶされていたペテロは、他の仲間たちの交わりに入れなかった、ということです。しかしそれでもイエス様は、だからこそイエス様は、ペテロを特別に愛されました。どんなに大きな罪を犯した人であっても、いや、大きな罪を犯した人だからこそ、特別に愛してくださるお方です。時に私たちは、教会の交わりに入りにくいと感じることがあります。しかしイエス様は、そのようにして教会の交わりの外にいる一人ひとりのことを、なぜ教会に来ないのか、なぜ礼拝に来ないのかと責めるのではなく、特別に愛してくださるのです。
「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます」と語られました。しかし、弟子たちがガリラヤに行ってイエス様と再び出会ったという話は、少なくともマルコの福音書には残されていません。では、ガリラヤで再びお会いできるというこの言葉を、私たちはどのように理解すればよいのでしょうか。イエス様はどのようにして、ペテロたちと再び出会うのでしょうか。その手がかりとして私たちは、この福音書の中で最初に「ガリラヤ」が登場した場面に戻ってみたいと思います。1章14節から18節までをお読みします。
1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。
15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」16 イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」18 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
マルコの福音書の結末を求める私たちが、再び「ガリラヤ」に戻ってみると、そこには「シモン」すなわちペテロに初めて出会ったイエス様の姿があります。ペテロがどれだけ重い罪を犯してしまったとしても、どれだけイエス様を悲しませたとしても、ペテロを愛して赦してくださるイエス様は、ペテロと初めて出会ったあの日のように、「わたしについて来なさい」と語りかけてくださる。マルコの結末をこのように想像することは少々文学的に過ぎるかもしれませんが、他の福音書(ヨハネ21章など)に記された結末と矛盾するものでもないと思います。イエス様はガリラヤで、あの湖で、何度でも何度でもペテロに出会い直してくださいます。
私たちは今日、三年近くかけて読み進めてきたマルコの福音書を読み終えます。この三年間、色々なことがありました。経済的な見通しが立たず、もう無理かもしれない思っていた教会の歩みでしたが、様々な神様の恵みを経験しながら、今日までなんとか守られて来ました。それぞれの信仰生活にも色々ありました。楽しいこともあれば、そうでないこともありました。イエス様から離れてしまいそうになることもあったでしょう。しかしイエス様は何度でも、私たちに出会い直してくださいました。「またガリラヤで会おう」と言ってくださり、「わたしについて来なさい」と語りかけてくださいました。イエス様は書物の中の一人物ではなく、今も生きておられる方です。過去の思い出ではなく、臨在です。どんなに罪を犯しても、もうイエス様に顔向けできないと思っても、聖書を開くたびに、みことばを聴くたびに、イエス様は出会い直してくださいました。
福音書を読み終えて、満足して、「もうしばらく聖書はいいかな」ではなくて、これからも聖書を開き続けたいと思います。祈り続けたい、礼拝し続けたいと思います。今ここに、この場所に、イエス様が生きておられるからです。いつも一緒にいてくださるイエス様が、一緒にいてくださらないように思えてしまう時にも、日曜の朝にここに集まって、イエス様に深く愛されていることを再確認して、新しい出会いと喜びに満たされて、また新しい一週間を始めていく、そのような盛岡みなみ教会の歩みを、私たちの信仰の歩みを続けてまいりたいと思います。お祈りをいたします。
祈り
父なる神様。マルコの福音書を読み終えました。しかし、私たちの信仰は続いていきます。この福音書を通してイエス様に出会いました。出会い直しました。これからも出会い続けたいと思います。イエス様について知るだけでなく、イエス様を毎日知る人生を歩めますように。これからもみことばを聞き続け、そして礼拝をささげ続ける教会の歩みを、今も生きておられる主が豊かに祝福してくださいますように。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。