ローマ10:1-11「われは信ず」(使徒信条①|宣愛師)
2025年2月2日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ローマ人への手紙』10章1-11節
10:1 兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。
2 私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。
3 彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。
4 律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。
5 モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」と書いています。
6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。
7 また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
8 では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。
9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
11 聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」

「私たち」から「私」へ
先週の日曜日でマルコの福音書の連続講解説教が終わり、今日から「使徒信条」に基づく説教を始めることとなりました。「使徒信条」とはどのようなものか。丸ごと暗記しているという方も多いと思います。色々な翻訳がありますが、盛岡みなみ教会では次の翻訳を用いています。
われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とをさばきたまわん。
われは聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。
アーメン
まず初めに注目したいことがあります。それは、「われは信ず」という言葉です。なぜ、「われらは信ず」「私たちは信じます」ではなく、「われは信ず」「私は信じます」なのでしょうか。それは、使徒信条の元となった言葉が、教会の洗礼式で用いられた信仰告白だったからです。洗礼を授ける司祭が、「あなたは全能の父なる神を信じますか」というふうに尋ねる。これに対して洗礼を受けようとする人は、「私は信じます」と答え、水に浸される。続けて司祭が、「あなたは主イエス・キリストを信じますか」と尋ねる。「私は信じます」と答える。そして水に浸される。このように問いと答えが繰り返される中で洗礼が授けられ、一人の人が教会の一員となっていくのです。
盛岡みなみ教会でも、洗礼式の際には「式文」に則って次のような信仰問答が行われます―――「あなたは、天と地の造り主、生けるまことの神のみを信じますか。」「信じます。」「あなたは、この神の前に、自ら罪人であることを認めますか。」「認めます。」「あなたは、自分のために十字架の贖いを成し遂げてくださった神の御子イエス・キリストを信じますか」―――使徒信条と同じ言葉ではありませんが、中心的な内容は同じです。「あなた」に対する問いかけがなされます。そしてこの問いかけに、「私」という一人の存在として答えることが求められます。
二千年前、最初期のキリスト教会は、ローマ帝国という異教社会の中に置かれていました。ローマ帝国の人々は皆、「カエサルこそが主である。カエサルこそがこの世界に真の平和をもたらす」と信じていました。それ以外の考えは許されない社会でした。そのような世界の中にあって、「私は、カエサルではなく、イエス・キリストが主であると信じる」と告白するのです。「われは信ず」という告白は、ローマ帝国という大きな「私たち」の中から、一人「私」という存在が一歩外に出て、新しい世界に飛び込むということを意味していました。
今の日本でも、キリスト教を学ぶことは良いけれど、洗礼を受けることはちょっと、と考える人は多いようです。当然のことだろうとも思います。日本人という大きな「私たち」の中から、「私」だけが一人飛び出すのです。日本の人口は約1億2千万人ですが、文化庁の調査によれば、約8千4百万人は神道の信者です。全人口の三分の二が神道の信者ということになります。ところが皆さんの周りに、「私は神道を信じます」と宣言する人がどれだけいるでしょうか。日本人として生まれたから、なんとなく信者ということになっている、という人が大半ではないでしょうか。どこどこの地域に住んでいるというだけで、自動的にその地域の神社の氏子に数え入れられる、という場合もあるでしょう。いつの間にか、「私」という存在が、「私たち」という大きなかたまりの中に組み込まれ、そこから抜け出そうものなら反社会的な存在だと非難されてしまう。「私は神道を信じます」なんて一言も言っていないのに、いつの間にかその中に取り込まれている。
明治以降、私たち日本人は、より良い国を作るために様々な努力を重ねてきました。他の近代国家に負けないようにと、「富国強兵」というスローガンを掲げ、豊かで強い国を作ろうと励みました。学校教育は、国家のために働く優秀な人材を育てるための工場となりました。国のため、天皇のために生きて死ぬことこそが幸せなのだと教えられました。その努力が失敗に終わり、戦争に敗北した後も、この努力は形を変えて続きました。たくさん勉強して、良い大学に入って、良い仕事に就いて、お金を稼げば幸せになれるのだ、会社のために生きるのだ、そうすれば幸せな国を作れるのだと、本気で信じて努力し続けました。しかしバブル経済が崩壊し、経済的な先行きが不透明になると、努力してもいい仕事に就けない、がんばっても大して幸せにはなれない、という諦めも広がり始めました。こうすれば幸せになれる、こうすれば良い国を作れる、良い世界を作れる、と信じて突っ走ってきたものが、行き詰まりを迎えてしまった。
今の若い世代の多くが、自分はこのために生きるのだという「生きがい」を見つけられずにいると言います。心のどこかには、大切な何かのために自分の人生を使いたいという情熱があるにもかかわず、その何かが見つからないのです。しかしそれでもこの国には、「私たち」という大きなかたまりは依然として存在していて、「私」がそこから抜け出そうものなら、途端に仲間外れにされてしまう。生きがいもなければ、自由も自分も見つからない。幸せが見つからないのです。
そのような社会にあって、「われは信ず」と告白することは、富国強兵のために生きるのでも、学歴主義に生きるのでもない、もっと別の道があるのだと宣言することです。この国が、この世界が本当に良い世界になるために、私は別の道を信じるのだ、ということです。ここに生きがいがある。ここに自由がある。本当の「私」がいる。だから私はこの道を信じるのだ。
「自らの義」から「神の義」へ
ローマ人への手紙の10章を開きました。信仰を告白するとはどういうことなのか、神を信じるとはどのようなことなのか、もしくは、神を信じずに生きるとはどのようなことなのかについて、大切なことが語られています。まずは1節から3節までをお読みします。
10:1 兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。
2 私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。
3 彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。
この手紙を書いたパウロは、自分の同胞であるユダヤ人たちのために、熱心に祈りをささげていました。「彼ら」というのは、イエス様を受け入れなかったユダヤ人たちのことです。彼らは、イエスがキリストであるということを信じませんでした。イエスが救い主だと認めなかった。なぜなら彼らには、世界を救うための彼らなりの計画があり、彼らなりの努力があったからです。
「神の義」とは、「この世界を救うと決心された神の正義」と言い換えることもできる言葉です。この世界を愛して止まない「神の仁義」もしくは「神の義理人情」とも言えます。この「神の義」を実現するために、神はイエス様をこの世に遣わしてくださいました。問題だらけのこの世界を救うためには、神の御子が十字架にかかるしかない。それが「神の義」の結論だったからです。
しかしユダヤ人たちは、「神の義」ではなく、「自らの義」にこだわりました。旧約聖書の律法を熱心に守り続ければ、やがて救いが訪れるに違いないと信じていました。たしかに、もし律法を守ることができたなら、そこから救いが始まることは間違いありません。律法もまた、この世界を救うために神様が与えてくださった素晴らしい教えだからです。しかし、律法を守ろうとすればするほど、それを守れない人間の罪が明らかになりました。神様がどんなに素晴らしい教えを伝えても、むしろそれに頑なに逆らい続ける人類の罪深い体質があらわになってしまいました。ユダヤ人は日本人とは違って、まことの神様を信じ、まことの神様に熱心に従おうとする人々であったはずです。しかし彼らも日本人と同じように、自分たちのやり方で救いを実現できると思い込んでいたのです。熱心ではあったけれども、正しい知識に基づく熱心ではなかった。そういう意味では、私たちキリスト者も気をつけなければなりません。神様に対して、イエス様に対して、熱心な信仰を持っているつもりだとしても、それが実は正しい知識に基づくものではなく、どこかでまだ「自分の義」に頼っている、ということが起こり得るからです。
使徒信条が語るのは、「自らの義」ではなく、「神の義」です。使徒信条を告白するということは、「この世界を救うと決心された神の義」「神の義理人情」を信じるということです。ユダヤ人が考えていた救いの計画には、自分たちの罪のために救い主が十字架にかかってくださる、などという発想はありませんでした。自分たちの罪はその十字架によって赦され、それゆえ自分たちも自分たちの敵を赦すのだ、などという発想はありませんでした。日本人も同じです。たくさん勉強をして、真面目に働き続ければ、僕たちはきっと幸せになれる。しかしそのような計画の中には、自分たちは赦されなければならない罪人である、何よりもまず悔い改めと赦しから始めなければならない、という発想はありませんでした。私たちに足りないのは努力であって、罪の赦しではない。私たちに足りないのは強さであって、十字架で殺されるような弱々しい救い主ではない。私たちに足りないのは経済力であって、貧しくみすぼらしい神の御子の愛などではない。
このようにして「自らの義」にこだわり続ける人々のために、パウロは祈り続けていました。そしてパウロはひたすら、「神の義」について語り続けました。4節から7節までをお読みします。
4 律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。
5 モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」と書いています。
6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。
7 また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
ここでパウロは、「だれが天に上るのか」「だれが深みに下るのか」という申命記30章の表現を用いて、「神の義」について語ります。イエス様が天から降りてきてくださって、すでに福音を届けてくださったのだから、これ以上新しい福音を求める必要はない。イエス様が地の深みからよみがえってくださって、すでに復活の希望を与えてくださったのだから、これ以上新しい希望を求める必要はない。すでに「神の義」は始まっているのだ、すでに私たちのもとに届いているのだ、だから私たちはもう「自分の義」にこだわる必要はないのだと、パウロは語ります。
またパウロは、「あなたは心の中で……と言ってはならない」という表現を用います。見落とされがちなのですが、実はこれも申命記からの引用です。申命記の8章17節18節をお読みします。
8:17 あなたは心のうちで、「私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。
18 あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えるのは、あなたの父祖たちに誓った契約を今日のように果たされるためである。
「あなたの父祖たちに誓った契約」とは、この世界を救うために神様が結んでくださった契約のことです。アブラハムの子孫を通して全世界を祝福する、という契約です。アブラハムの子孫であるユダヤ人たちは、この契約のとおりに祝福を頂きました。豊かな生活ができるようになりました。それは、彼らが優れた人間だったからでも、彼らがたくさん努力をしたからでもなく、ただ神様の恵みによって与えられたものでした。そして、神様が恵んでくださったものだからこそ、他の人々と分かち合っていくべきものでした。そのようにして、富んでいる人にも貧しい人にも、ユダヤ人にも異邦人にも、神の祝福が広がっていくはずでした。
しかし彼らは、与えられた恵みを、自分の力によるものだと思い込んでしまうのです。そしてそれゆえに、他の人々と分かち合うこともしなくなるのです。「自らの義」を打ち立てる生き方は、人間を高慢と自己中心へと誘惑します。ユダヤ人たちが陥ったこの罪は、ユダヤ人だけの罪ではないはずです。私たちも同じ罪に陥ります。たくさん努力をします。たくさん勉強をして、たくさん働きます。成功します。そして、これは自分の力だと有頂天になる。周りの人と分かち合うことをしなくなる。「自分はこれを努力して手に入れたのだから、他の皆も努力すべきだ」などと言い始める。今の日本には、「自己責任論」がますます広がっていると言われています。いい暮らしができているのは、自分が努力したから。あの人がお金に困っているのは、あの人がきちんと努力して来なかったから。そうやって決めつけてしまう冷たさがあります。共感力の欠如があります。お国のために、会社のためにというスローガンを信じて信じて突き進んだ先に、こんなにも冷たい未来が待っていたとは、だれも想像していなかったのではないでしょうか。
「心に信じて、口で告白して」
ローマ人への手紙に戻って、10章の8節から11節までをお読みします。
8 では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。
9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
11 聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」
「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」この世界を救う福音は、すでに私たちの近くにある。私たち人間があれこれと考えるのではなく、すでに神様がご計画を始めてくださっている。神の御子が十字架につけられることによって、私たち人類の罪がどれほど悲惨なものであるかを明らかにしてくださった。私たちの自己中心の罪、高慢になる罪、豊かさを分かち合わない罪、それらの罪を、イエス・キリストが十字架の上で処罰してくださった。そして、神はイエスを死者の中からよみがえらせ、この世界の新しい王として定め、神の王国をスタートさせてくださった。この世界の救いは、人間が必死に努力して作り出す「自分の義」にあるのではない。私たちの幸せは、富国強兵というスローガンの先にあるのでもなければ、学歴主義や能力主義の先にあるのでもない。そのようなものを信じていれば、必ず失望する。必ず行き詰まってしまう。しかし、「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」
パウロは、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」とも語ります。浄土真宗であれば、南無阿弥陀仏と口で唱える必要もなく、心の中で信じるだけで極楽浄土に連れて行ってもらえる。しかしキリスト教は、洗礼を受ける時だけではなく、週毎の礼拝においても、日毎の生活においても、心の中にある信仰を口で告白することを求めるのです。もちろん、身体障害や知的障害など様々な事情で、信仰を言語化することが難しい人もいます。それでは駄目だというわけではありません。しかし、私たちはそれぞれに可能な限り、「私はイエス・キリストを信じます」と告白します。そうしなければ、この国の常識の中に、大きな「私たち」の中に、いとも簡単に飲み込まれてしまうからです。何も言っていないのに神道の信者に数えられたり、頼んでもいないのに学歴主義や能力主義にいつの間にか組み込まれてしまうような社会だからです。
「われは信ず」という信仰告白は、この世界の常識という大きな「私たち」の中から、「私」という存在が一歩外に出ることだとお話ししました。しかしそれは、「私」という存在が一人ぼっちになることではありません。「われは信ず」と告白することは、教会という新しい「私たち」に加えられることでもあります。「われは信ず」という告白は、自分で考えたオリジナルの信仰を信じるということではありません。世界中の教会が二千年もの間受け継いできた信仰を、数え切れないほど多くの仲間たちとともに、場所も時代も人種も越えて告白するということです。そして、神様の救いのご計画に「私」という存在を加えていただくということです。この信仰を持つ仲間が一人でも多く加えられて、神様の救いのご計画がますます前進していくことを祈りつつ、ご一緒に学びを続けたいと思います。最後に皆さんで声を合わせて、この使徒信条を告白しましょう。
われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とをさばきたまわん。
われは聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。
アーメン
お祈りをいたします。
祈り
私たちの父なる神様。より良い人生、より良い世界を目指して「自らの義」を打ち立て、その道に行き詰まれば、今度は生きがいの無い無気力な人生を送ってしまう、実に頼りなく不安定な私たちです。「自らの義」がうまく行った時には、調子に乗って独りよがりになり、責任論を押し付け合う自己中心な私たちです。どうか、あなたの道をお示しください。いや、すでにあなたの道が示されていることを感謝します。イエス様が与えてくださった信仰を、私の信仰とし、私の生きがいとして歩むことができますように。そしてこの信仰によって結ばれた私たちが、この盛岡の地にあって、人々の祝福のために用いていただけますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。