創世記1:31「天地の造り主」(使徒信条②|宣愛師)

2025年2月9日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
旧約聖書『創世記』1章31節


1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。



「はじめに神が天と地を創造された」

 先週の礼拝から使徒信条の学びが始まりました。まだ使徒信条を暗記していないという方も、まずは最初の部分だけでも覚えていただきたいと思います。「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」今日はこの「天地の造り主」という部分について、ご一緒に学びを進めましょう。

 現代社会、特にこの日本という国では、「天地の造り主」を信じる人は多くありません。神が造ったのではなく、ビッグバンという大爆発によって始まったのだ。そして星たちが誕生し、太陽が誕生し、地球が誕生し、そこに生物が誕生し、豊かな自然が育まれ、やがて人間が誕生したのだと、学校の教科書に書かれています。しかし、教科書があまり真面目に取り扱おうとしない問いがあります。それは、「ビッグバンの前には何があったのか?」という問いです。

 ビッグバンの前には何があったのか。「真空のゆらぎ」があったのだ、という説明もあります。ビッグバンの前には、真空があったのだ。しかし「真空」とは言っても、そこに物質がなかったということではないようです。むしろ、ビッグバンの元となるような物質とエネルギーがその真空を構成しており、そこからビッグバンが起こったというわけです。そうなると、私のような理屈っぽい人間が考えることは、「では、その物質やエネルギーはどこから生まれたのか?」ということです。遡れば遡るほど、物質世界の始まりを現代科学で説明することは難しいのではないかと思ってしまうのです。

 神の存在を信じるなんて非合理的だ、非科学的だと思われている時代です。学校の教室で立ち上がって、「神様が宇宙を造ったと私は思います」などと言えば、この子はよほど宗教に洗脳されているのだろうと心配されてしまうような時代です。しかし私からすれば、この宇宙の始まりを神抜きで説明することのほうが、よほど非合理的なのではないかと思ってしまうのです。そこにある種の洗脳はないのだろうか、なぜそこまでして神の存在を否定しようとするのだろうかとさえ思ってしまうのです。

 聖書がその最初の最初に語るのは、「はじめに神が天と地を創造された」ということです。このことを信じることは、実はそれほど非合理的なことではない、と私は思うのです。いやむしろ、こんなにも美しい世界が、美しい大自然が、望遠鏡に映る星たちの煌めきが、顕微鏡に映るミクロ生物学の驚くべき世界が、偶然の結果として生まれたものではなく、「天地の造り主」によってデザインされたものだと信じることは、十分に合理的なことではないかと思うのです。

 皆さんは皆既日食をご覧になったことがあるでしょうか。太陽と月がぴったりと重なります。ご存知の通り、太陽と月の大きさは同じではありません。太陽の直径は約140万km。それに対して月の直径は約3500㎞。それにもかかわらず、地球から見るとちょうど同じ大きさなのです。もちろん、時期によってはぴったり同じ大きさになるわけではありませんが、その小さなズレのおかげで、今度は金環日食という絶景を見ることもできます。偶然にしてはよく出来すぎている。あまりにも美しい。私は、聖書が次のように語ったことを思い起こすのです。申命記4章19節。


4:19 また、天に目を上げて、太陽、月、星など天の万象を見るとき、惑わされてそれらを拝み、それらに仕えることのないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が天下のあらゆる民に分け与えられたものである。

 この世界の美しさに見惚れる時、私たちはこの世界そのものを礼拝するのではなく、この世界をお造りになった神を礼拝したいと思います。この美しい世界を私たち一人ひとりに分け与えてくださった神を礼拝したいと思います。次に日本で日食が見られるのは2030年6月1日だそうです。北海道に行けば見られるそうです。実際に現地に行くことになるか、それともテレビで見ることになるのか、まだ予定も何も考えていませんけれども、いずれにせよその美しさを味わいながら、「われは天地の造り主を信ず」と告白したいと思います。偶然では片付けられないからです。


「見よ、それは非常に良かった」

 でも、次のように異議を唱える方もいらっしゃるかもしれません。なるほど、よし分かった。百歩譲って、「神が天と地を創造された」ということは認めよう。この世界が神によって造られたことは一旦認めよう。しかし、もし神がこの世界を造ったのだとしたら、あまりにも欠点が多すぎるのではないか。そのように考える方もおられるかもしれません。たしかにこの世界は美しい。しかし、決して美しいとは言えないようなものがたくさんあるではないか。理不尽な苦しみが多すぎる、不完全な世界ではないか。もしも神がこの世界を造ったのだとしたら、その神というのは不完全であるか、愚かであるか、意地悪な存在なのではないか。

 そのように考える人々は、昔からいたようです。キリスト教会が始まってから間もなく、「グノーシス主義」と呼ばれる異端的な宗教が広がり始めました。彼らの特徴は「霊肉二元論」です。霊肉二元論というのは、霊的世界こそが良いもので、物質世界は悪いものだ、という考え方です。霊は良いもので、肉体は悪いもの。天国は良いもので、この地上は悪いもの。ですからグノーシス主義者たちは、「この不完全な物質世界から抜け出して、霊的世界に帰ることこそが救いだ」と考えるわけです。「霊という崇高な存在が、この肉体という牢獄に閉じ込められている。この肉体を捨て去って、霊を解放しなければならない」というわけです。

 それゆえ彼らは、「霊的世界におられる神こそがまことの神であり、この物質世界を造った神は愚かで不完全な神である」とも考えます。旧約聖書の神は愚かで不完全な神であり、新約聖書の神こそがまことの神なのだ、と。つまり彼らは、「天地の造り主」を信じないのです。この天地を造った神は、まことの神ではなく、レベルの低い神だというわけです。この世界は、愚かな神が造った失敗作だ、だからこんなにも欠点が多い世界なのだ、と言うわけです。

 このような考え方は、たとえば仏教にも似ているところがあります。仏教でも基本的に、この物質世界は苦しみの世界であると考えます。そして、この世界から別の世界に抜け出すことこそが救いであると考えます。この物質世界に執着することをやめなければならない。あらゆる煩悩を捨て去り、この世界に何のこだわりも持たないこと、それこそが悟りであり、救いである。

 では、聖書は何と言っているのでしょうか。創世記1章31節、そしてテモテへの手紙第一4章4節をお読みします。


【創世記 1章31節】
神はご自分が造ったすべてのものを見られた。
見よ、それは非常に良かった。

【テモテへの手紙 第一 4章4節】

神が造られたものはすべて良いもので、
感謝して受けるとき、

捨てるべきものは何もありません。

 私たちクリスチャンはどうでしょうか。「神が造られたものはすべて良いもの」だと信じているでしょうか。むしろ私たちクリスチャンの中にも、どこかグノーシス主義者のような、仏教徒のような考え方が入り込んではいないでしょうか。この世界は最後には捨てられてしまって、私たち人間は地上から天国に移動して、そこで永遠に暮らすことが救いだと、どこかで思っていないでしょうか。この世界は、最初は良い世界だったかもしれないけれど、今はもう良い世界ではない、良い世界になんてなりっこないと諦めてしまってはいないでしょうか。主の祈りで私たちが祈っているのは、「御国が来ますように」なのに、いつの間にか「御国に行けますように」と間違って祈ってしまっていないでしょうか。イエス様がこの世界に来てくださった時に、私たちと同じように肉体を持ってくださり、そして肉体をもって復活され、肉体を持って天に昇られ、肉体を持って再びこの世界に戻って来られるということを、どこかで忘れてしまってはいないでしょうか。

 クリスチャンの中には、地球環境の保護など必要ない、と考える人もいます。この地球はどうなってもよいのだ。最後にはこの地球は滅んでしまって、私たち人間は天国に行くのだから、地球温暖化だって、絶滅危惧種だって、海洋汚染だって、気にする必要はない。そのように考えるクリスチャンがいます。しかし聖書ははっきりと、私たち人間の役割はこの美しい地球を守ることだと語っているのです。創世記2章15節には次のように書かれています。


2:15 神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。

 ここで「耕す」と訳されている言葉は、元々は「働く」とか「仕える」という意味の言葉です。神様がお造りになった世界のために働き、仕えることが人間本来の役割でした。ある研究者によれば、「耕す」というのは、「水を循環させる」という意味に理解できるようです。土を掘って川から水を引き、神が造られた美しい果樹園をさらに美しく守っていく。地球温暖化やSDGsが叫ばれるよりも何千年も前から、聖書はこの地球を守ることが人間本来の役割であることを語り続けています。このことに気づくことなく、いつの間にかクリスチャンたちもグノーシス主義者のように、この世界を捨て去るべきものと見做すようになってしまった。このような間違いに再び陥らないためにも私たちは、「われは天地の造り主を信ず」という告白を続けたいと思うのです。罪によってどんなに歪んでしまった世界だとしても、神様が大切に造ってくださった世界なのだということを、せめて私たちは忘れないようにしたい。そして、この美しい世界が今よりももっと美しい世界になるために、私たちもこの世界を耕し、この世界を守り続けたいと思うのです。

 もちろん、農業や環境保護に限った話ではありません。皆さんそれぞれがすでになさってきた色々なお仕事も、この美しい世界をより美しく保つための働きであったはずです。川から水を引いてきて地を潤すように、必要な助けが届いていない人々に助けが届くように整える仕事も、「耕し、守る」ということであるはずです。家族のために食事を用意することも、神様が造ってくださった食べ物を必要な場所に届ける大切な働きです。スーパーやコンビニで商品を綺麗に並べることも、少なからずこの世界を美しく整える働きであるはずです。それぞれにできる働きがあるはずです。「天地の造り主」から与えられている使命があるはずです。


美しい心、美しい顔

 なるほど、なるほど、分かった。百歩譲って、「神が造られたものはすべて良いもの」だということは認めてあげようじゃないか。しかし、一つだけ決して認められないことがある。このことだけは認められない。この私も神に造られた。それだけは嘘だ。この私という人間も、神によって造られ、「非常に良かった」だなんて、そんなことは認められない。そんな風に考える方もおられるかもしれません。

 たとえば、どうしても自分の顔が気に入らない。目が気に入らない。鼻の形が気に入らない。もしくは、自分の声が気に入らない、髪の毛のクセが気に入らない、背の高さ低さが気に入らないという人もいるでしょう。これもすべて、神がお造りになったのか。本当にこれが「良いもの」なのか。失敗作なのではないか。やっぱり、この私の身体を造った神は愚かで不完全な神、もしくは意地悪な神なのではないか。受け入れられない。私は私を受け入れることができない。私を大切にすることができない。神様に愛されているだなんて、どうしても思えない。

 たしかにこの世界には、人間の罪のせいで歪んでしまったものがたくさんあります。美しかったはずのものが、美しくなくなってしまった、そのようなものがたくさんあります。私のこの気に入らない顔も、罪の結果として歪んだものなのではないか。そんな風に思ってしまうこともあるでしょう。しかし、むしろ歪んでいるのは、そのように考えてしまう私たちの心の方なのではないか、と考えることもできるのです。あれは美しくない、あれは気に入らないと言って、わがままに、偉そうに振る舞う私たちの物の見方こそが、まさに罪によって歪んでいる。神様がお造りになった美しい存在を、美しくない見方で見るようになってしまっている。

 そして、そのような歪んだ心のゆえに、本当に顔も歪んでいってしまう、ということもあるかもしれません。目の形とか鼻の形とか、そういうこととは全く関係がなく、醜い顔になっていく。人を寄せ付けないような、冷え切った表情になっていく。問題は、神がお造りになった私の姿形にあるのではなく、神がお造りになった私を認めようとしない私自身の心にあるのかもしれません。神様が大切に大切に造ってくださった。失敗作などではない。この顔が一番いい、最高傑作だと言ってくださっている。だから私も、気に入らないところはたくさんあるけれども、それでも神様が造ってくださったこの顔を、このからだを、私も大切にしていきたい。感謝して受け入れられるようになりたい。文句を言うのではなく、感謝して生きていきたい。そのような心を持つ人の顔というのは、どんな姿形をしていたとしても、美しいものであるはずです。この人と一緒に生きていきたいと周りの人に思わせるような、優しく美しい顔になっていくはずです。

 「われは天地の造り主を信ず。」この信仰告白は、誰が何と言おうと、私は神様に大切に造られた存在であり、それゆえ私は私という存在を丸ごと愛する、という決心でもあります。神様が造ってくださった美しいものを、美しいものとして受け入れ、愛するという決断です。それは、自分自身にとどまることではありません。私という存在を受け入れることができたなら、私の周りにいる一人ひとりもまた美しい存在なのだと信じることができるはずです。神様が造ってくださったものに失敗作などは一つとしてない。私はこのことを信じるがゆえに、隣人をも大切にして生きていくという決心です。罪のゆえに歪んでしまった部分が多々あるとしても、また、今の私の目には醜く見えてしまう部分が多々あるとしても、それでもあの人も、この人も、神様に造られた最高傑作であり、神様にとってかけがえのない存在であると思える心です。世界中の人々が、「天地の造り主」を信じることができたなら、そしてこの美しい心を持つことができたなら、きっとこの世界はもっと美しい世界になっていくはずです。「われは天地の造り主を信ず」と告白する者たちに、神様はきっとこの美しい心を、惜しみなく豊かに与えてくださるはずです。お祈りをいたします。


祈り

 天と地を創造し、そして全ての命をお造りになった神様。「われは天地の造り主を信ず」と告白しながらも、この美しい地球が汚されるままであることに無関心であり続けるような、自己中心的な私たちの歩みを悔い改めます。天地の造り主を信じると告白しながらも、私という人間を大切に造ってくださったことは認めようとせず、文句ばかりを口にし、周りの人々の価値も認めようとしない、わがままな心を悔い改めます。何よりも歪んでしまっているのは、この世界ではなく、私の顔でもなく、私の心であることを、そして、それにもかかわらずあなたが私を丸ごと、頭から爪先まで丸ごと愛してくださっていることを、へりくだって素直に、感謝して受け入れることができますように。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。