ヨハネ5:19-30「死からいのちに」(まなか師)
2025年2月16日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』5章19-30節
19 イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。
20 それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。
21 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。
23 それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。
24 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。
25 まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。
26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
27 また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。
28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。
29 そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。
30 わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。

はじめに
この朝も、愛する兄弟姉妹の皆さんと共に、みことばに聴くことのできる幸いを覚えます。お一人お一人の上に、神様の祝福がありますように。
以前、ある方と話していたとき、冗談半分だと思いますが、こんなことを言われました。「いのちのある教会なら通い続けてみたいけど、いのちのない教会はちょっとなあ」。
「いのちのない教会」が果たして存在するかどうかはさておき、文脈からすると、「いのち」があるかないかというのは、生き生きとしているかどうか、ということのようでした。活気にあふれた教会、エネルギッシュな教会が、「いのちのある教会」と表現されているんだなあと思いました。
教会とは、建物のことではなく、私たち一人ひとりのことですから、「いのちのある教会」があるとすれば、「いのちのあるクリスチャン」がいるということになるのでしょうか。「いのちのあるクリスチャン」とはどんな人でしょうか。元気があって、健康で、楽しそうに生きている人が、「いのちのある人」なのでしょうか。本当の意味で、いのちのある、生き生きとした生き方とは、どのような生き方でしょうか。いのちのある教会、生き生きとした教会とは、どのような生き方をする人たちの集まりでしょうか。ヨハネの福音書は、「いのち」について繰り返し繰り返し、しつこいくらいに語る福音書です。今日は特に「いのち」というテーマに集中して、ご一緒に考えてみたいと思います。
父と子はひとつ
19節から23節を改めてお読みします。
19 イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。
20 それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。
21 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。
23 それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。
24 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。
ここでイエス様が話しておられる相手は「ユダヤ人たち」です。5章の前半に戻ると、イエス様が安息日に一人の人の病気を癒やしたので、ユダヤ人たちはイエス様を迫害し始めた、とあります。ユダヤ人たちのルールでは、安息日は仕事をしてはならない日だったので、人を助けることもしてはいけなかったからです。しかしイエス様は、「父なる神が安息日に働いておられるのだから、わたしもまた、まことの安息を人々に与えるために、働きをやめることはない」と言われます。そのためユダヤ人たちは、5章18節、「ますますイエスを殺そうとするように」なりました。
旧約聖書の教えでは、父なる神が、人々をさばき、死人をよみがえらせ、いのちを与える。父なる神だけに、その権威がある。しかし、目の前にいるこの男は、「父なる神と自分はひとつだ」「心も行いも完全に一致しているのだ」「だから自分には、さばく権威があり、いのちを与える権威がある」などとのたまう。神への冒涜だ。
ユダヤ人たちは、父なる神様を敬っているつもりでしたが、実際には、父なる神様がどのようなお方か、全く分かっていませんでした。父なる神様は、人間を縛り付ける窮屈なルールを定めて、ルールを破った人間を問答無用で断罪するようなお方ではない。父なる神様は、たとえそれが見かけの上ではルール違反になるとしても、安息日にも、喜んで人を助け、人を癒やし、人を愛し、人を生かすお方である。このことが、ユダヤ人たちには分からなかったわけです。だから彼らは、安息日を破っているように見えるイエス様が、実は本当の安息と、本当のいのちを与えるために働いておられる、ということにも気付けなかったのです。
ユダヤ人たちは、熱心に聖書を勉強している人たちでした。しかし、父なる神様の御心を誤解してしまった。安息日というルールを厳密に守ることが、父なる神に喜ばれることだと思っていた。そんな彼らにイエス様は、父なる神は、安息日だからという理由で困っている人を見捨てるような方ではない、ということをはっきりと示したのです。私たちも、熱心に聖書を読んだとしても、神様の御心を誤解してしまって、かえってたくさんのルールで自分を縛り付けたり、他の人を断罪したりするような、窮屈な人間になってしまうかもしれません。聖書をルールブックのように読めば、父なる神様の御心が分かるとは限らないのです。
父なる神様の御心を知るために必要なのは、イエス様を知るということです。イエス様は安息日に何をされたのか。イエス様がルールよりも大切にされたものは何だったのか。それはいのちを与えることだったではないか。いのちを与えることこそ、父なる神様の御心ではないか。そのための聖書、そのためのルールではないか。イエス様を見つめるとき、私たちはもっとのびのびとした生き方を、本当の意味で生き生きとした、いのちのある生き方を生きることができるはずです。
「いのち」と「さばき」
続いて24節から26節をお読みします。
24 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。
25 まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。
26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
「永遠のいのち」とは何か。これは意外と難しい問いかけです。皆さんも、たとえば子どもたちから「永遠のいのちってなに?」と聞かれたら、なんと答えるでしょうか。いつまでも死なないで何百年、何千年と生き続ける、ということではないのは何となく分かるけれども、結局のところ「永遠のいのち」とは何なのだろうか。
24節のみことばから一つはっきり分かることは、「イエス様のことばを聞く」ということが「永遠のいのちを持つ」ことと関係するということです。イエス様のことばをよく聞き取ることが、永遠のいのちにつながるということです。私たちが今この礼拝の中でもしているように、みことばを聞くことが、私たちが生きるか死ぬかに関わっているわけです。
24節からもう一つ分かることは、永遠のいのちは、今すでに与えられているということです。私たちは今すでに「死からいのちに移っている」。これは、私たちが死んだ後に与えられるいのちではありません。今すでに始まっているいのちです。いまこの瞬間も、そしてこれからもずっと、イエス様とつながって生きていくという世界です。
25節でイエス様は言われました。「死人が神の子の声を聞くときが来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます」。ここで「死人」というのは、いわゆる肉体が死んだ人のことではありません。イエス様と出会う前の、私たち一人ひとりの姿です。いのちがない状態だった私たちのことです。
以前の説教でもお話ししたことがありますが、私は、イエス様と出会う前の自分というのは、死んだも同然だった、そんなふうに理解していました。けれども、もっと正確に言うならば、死んだも同然なのではなく、まさしく死んでいたのだ、とあるとき気付かされました。神様の目から見れば、私は全く死んだ存在だった。神様との関係が切れたままで生きている人は、死んでいる。いのちがないんです。
亡くなられた方のご遺体を、間近で見たことのある方はお分かりになると思います。死んでいる姿は、いのちがあるときの姿とは全く違います。それまで身体の中で働いていたものすべてがストップします。文字通り、いのちがない。放っておけば腐っていく。死んでいる人はどれだけいのちを取り戻そうとしても、自力では取り戻せません。
けれども、イエス様のことばを、イエス様の声を聞く者は、生きる。イエス様を受け入れた瞬間からいのちがある。イエス様のいのちを頂いて生き始める。死からいのちに移っている。
今日の箇所で、「いのち」と対比されて繰り返し出てくる言葉があります。「さばき」です。これも以前の説教でもお話ししたことがありましたが、「さばく」とは、もともとは「ふるい分ける」という意味です。たとえば私たちが、一流の音楽家のコンサートを聞きに行ったのに、その音楽の良さを理解することができず、「こんな音楽はつまらない。聞くに値しない」と言うならば、自分で自分に「良いものが分からないつまらない人」というレッテルを貼ることになります。自分で自分をふるい分けてしまうのです。
同じように、イエス様のことばを聞いても、それを受け入れない人は、自分で自分にさばきを下していることになります。「自分は何が良いものか分かっている」「イエスのことばなんてなくても生きていける」「こんな教えは自分には必要ない」と言って耳をふさいでしまうならば、自分からさばきを受けにいくことになってしまうわけです。
自分は病気もなく健康に生きているし、お金にも困っていないし、十分に生き生きとした人生を生きているから、だから自分にはキリスト教なんて要らない、イエス様なんて必要ないと考える人もいるでしょう。しかし、自分では生き生きとした人生を生きていると思っていても、実は死んでいる、いのちがない、ということもあり得るのです。逆に言えば、健康でもなく、お金もなく、周りから見れば生き生きとした人生とはかけ離れたような歩みをしている人も、実は「永遠のいのち」を持っている、「死からいのちに移って」いる、ということがあるのです。
いのちある生き方
では、いのちのある生き方とは、どのような生き方でしょうか。続く27節から30節をお読みします。
27 また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。
28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。
29 そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。
30 わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。
ここでは、終わりの日の「さばき」について語られています。イエス様が再びこの地上に来られて、人々をよみがえらせてくださるときの最終的な「さばき」です。
その日、墓の中にいる者がみな、イエス様の声を聞く。イエス様を受け入れた人も、受け入れなかった人も、やがての日に復活する。もしかしたらまずこのことに驚く方もいらっしゃるかもしれませんが、クリスチャンだけでなく、全ての人がよみがえる。そしてさばきは、それぞれの行いに基づいて行われる。良い行いをした者は、よみがえっていのちを受ける。悪い行いをした者は、よみがえってさばきを受ける。
けれども、改めてこの箇所を読んで、不思議に思われる方もいるのではないでしょうか。キリスト教が語る救いは、行いではなく信仰による救いであるはずです。私たちの行いによって救いが決まるわけではないはずです。それなのに、なぜここで「善を行った者」とか「悪を行った者」と言われているのでしょうか。
ヨハネの手紙第一の3章14節と、17節から18節をお読みします。
3:14私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。
17この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。
3:18子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。
ここでヨハネが語っていることは、周りの人を愛したから永遠のいのちを頂ける、ということではありません。永遠のいのちを頂いたから周りの人を愛する、ということです。兄弟を愛していること、兄弟に対してあわれみの心を開くことが、私たちが「死からいのちに移ったこと」の証しです。なぜなら、「永遠のいのち」とは、周りの人と分かち合うためのいのちだからです。周りの人といのちの喜びを分かち合っているということは、その人が「永遠のいのち」を持っていることの証拠となります。兄弟を愛することによって救われるのではありません。救われたからこそ、兄弟を愛する生き方に変わっていくのです。
「永遠のいのち」を持つとは、不老不死になるということではなく、今の人生を生き生きと生きられるということです。そして、自分自身が生き生きと生きているということにとどまらず、周りの人たちにいのちを与えるような生き方ができるということです。多くの人が、自分はもう十分生き生きとした人生を生きているから問題はない、と考えています。しかし実際のところ、どんなに生き生きとしているように見えても、困っている人にあわれみの心を閉ざしてしまう人がいます。兄弟を愛することよりも、どうすれば自分の人生が生き生きするかということで精一杯になってしまっている人がいます。その反対に、老いや病気や貧しさによって、いわゆる充実した人生を送っていないように見える人でも、困っている人がいれば喜んで手を差し伸べる、そんな人もいます。どちらが、死からいのちに移った人だと言えるでしょうか。どちらが、本当の意味でいのちのある人でしょうか。
永遠のいのちを持っている人は、健康に長生きするとしても、病気がちで思うように身体が動かないとしても、イエス様が下さったいのちを、さらに人のために用いて、生き生きとした人生を歩みます。イエス様のように、人にいのちを与える生き方です。私たちも、本当の意味でいのちのあるクリスチャン、いのちのある教会でありたいと願います。ただ楽しそうに生きているかどうか、楽しそうな場所であるか、ということを越えて、周りの人々にイエス様と一緒に生きるいのちの喜びを分かち合うことのできるような、そんなクリスチャンの集まりを目指していきたいと思います。お祈りをいたします。
祈り
父なる神様。私たちは、あなたの御心を誤解してしまうことがないでしょうか。誰かのいのちを生かすどころか、奪うようなことをしてしまうことがないでしょうか。どうぞ私たちの生き方をつくり変えてください。私たちに、兄弟を愛する愛を、あわれみの心をお与えください。イエス様のように、与えられた「永遠のいのち」を、周りの人たちに分かち合っていく歩みができますように、お導きください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。