2025年3月
No.155【八木重吉:イエスの名を呼ぶこと】
◆四角い枠にぎっしり書かれたコラムもいいですが、たまには“余白の美”もいいものです。(書く時間が無くなっただけですが。)今週は八木重吉という詩人が詠んだ、「イエスの名を呼ぶこと」(『貧しき信徒』97頁)という詩をご紹介し […]
マタイ1:20-25「イエス」(使徒信条⑥|宣愛師)
・・・・・・そしてその時私たちは、「イエス」と「インマヌエル」という二つのお名前が、ひとりの救い主を指し示している、ということの意味に気づき始めるのだと思います。“罪から救う”ということと、“神がともにいる”ということが、別々の事柄ではなく、一つの事柄であることに気づき始めるのです。そしてそれは、イエス様が私たちのためにしてくださったことであり、私たちが隣人のためにできる最善のことでもあるのだと思います・・・・・・
No.154【牧師の"按手"を受けました】
◆牧師(正教師)となるための“按手”を受けました。動画中継をご覧になった方は、〈膝立ちでうつむく若者たちの頭に手を置いて祈る理事たち〉という不思議な光景を見て驚いたかもしれません。そんな不思議さや異様さ(?)も、一生もの […]
ヨハネ5:31-40「神による証し」(まなか師)
・・・・・・お医者さんや歯医者さんから、「どうしてもっと早く来なかったんですか」とちょっと叱られてしまう、そんな経験をしたことがある方もいると思います。「こんなにひどくなる前に、どうしてもっと早く来なかったんですか。」すると私たちは、「すみません、ちょっと忙しくて…」とか、「こんなにひどくなっているとは思わなくて…」などと言い訳してみたりするものです。イエス様も同じ気持ちなのだと思います。「どうしてわたしのもとに来ようとしないのか。こんなに疲れているのに、こんなに傷だらけになっているのに、罪の病がこんなに進んでしまっているのに、どうして自分のいのちだけで生きていこうとするのか。どうしてもっとわたしを頼らないのか。どうしてもっとわたしに祈らないのか。」・・・・・・
No.153【 「主は唯一である」とは?】
◆「主は唯一である」(申命記6章4節)と聖書には書かれています。ところがキリスト教会は「御父」「御子」「御霊」の“三位一体の神”を礼拝します。「唯一」なのに「三つの位格」がある。これはどういうことなのか?―――大切なのは […]
第一コリント8:4-6「われらの主」(使徒信条⑤|宣愛師)
・・・・・・使徒信条の学びも五回目となります。本日は、「われらの主イエス・キリストを信ず」という信仰告白について、特に「われらの主」という言葉について、ご一緒に学びたいと思います。そしてそれと同時に、「宗教は自由を与えるのか、それとも、ある種の制約や義務を伴うものなのか?」というこの問いについても、聖書を通して考える機会となればと思います・・・・・・
No.152【秋山善久先生・仙台のぞみ教会との三年間】
◆秋山先生が主任牧師として盛岡みなみ教会に来てくださるのは、本日が最後となります。この三年間のお働きについては、教会総会資料の「2024年度牧会報告」に記した通りです。 仙台と盛岡の長距離を何度も行き来し、合同礼拝と聖餐 […]
秋山善久師「主の前での備え」(詩篇26:1-12)
※本日は仙台のぞみ教会と盛岡みなみ教会の合同礼拝(第16回)でした。佐藤宣愛伝道師の正教師試験合格(4月より牧師就任)に伴い、秋山善久師の兼任は3月で終了となるため、本日が最後の合同礼拝となりました。また、秋山先生の3年間のご奉仕への感謝を込めて、礼拝後にささやかな食事会を行いました。
No.151【盛岡と沿岸の“距離”】
◆【盛岡 沿岸 関係性】などと調べていたら、「盛岡市民のプライド」というページを発見。〈盛岡は常に「岩手県で一番」で然るべき、と信じている〉〈盛岡市民ではあるが、岩手県民だという意識は薄い〉〈盛岡以外の岩手県を「郡部」と […]
ヨハネ1:18「そのひとり子」(使徒信条④|宣愛師)
・・・・・・ある人は、「使徒信条はここから、ユダヤ教やイスラム教と袂を分かつことになる」と語りました。キリスト教もユダヤ教もイスラム教も、この天地をお造りになった全能の神を信じている。そういう意味では、同じ神を信じていると言うこともできます。しかし私たちキリスト教徒が、使徒信条の第一部から第二部に進んで、「われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず」と告白する瞬間、ユダヤ教徒やイスラム教徒とは違う仕方で、神を信じるということになる・・・・・・