ヨハネ1:18「そのひとり子」(使徒信条④|宣愛師)
2025年3月2日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ヨハネの福音書』1章18節
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

「神を見た者はいない」
使徒信条は大きく三つの部分に分けることができます。第一部は、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」の部分。第二部は、「われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず」から始まる部分。そして第三部は、「われは聖霊を信ず」から始まる部分。父と、子と、聖霊、すなわち三位一体の神を信じる信仰を、使徒信条は告白していると言うことができます。
つまり、先週で第一部の学びを終えて、今日から第二部の学びに進む、ということになります。ある人は、「使徒信条はここから、ユダヤ教やイスラム教と袂を分かつことになる」と語りました。キリスト教もユダヤ教もイスラム教も、この天地をお造りになった全能の神を信じている。そういう意味では、同じ神を信じていると言うこともできます。しかし私たちキリスト教徒が、使徒信条の第一部から第二部に進んで、「われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず」と告白する瞬間、ユダヤ教徒やイスラム教徒とは違う仕方で、神を信じるということになる。
ヨハネの福音書のみことばを開きました。「私は神を見たことがある」と語る宗教家はたくさんいます。しかしヨハネは、「いまだかつて神を見た者はいない」と一刀両断にします。「いまだかつて神を見た者はいない」ということは、キリスト教徒だけではなく、ユダヤ教徒も、イスラム教徒も、謙虚になって認めるところです。ユダヤ教における最大の預言者モーセも、イスラム教における最大の預言者ムハンマドも、神様を直接見たとはされていないからです。
旧約聖書の出エジプト記33章11節には、「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた」と書かれています。しかし、その直後の33章20節には、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」という神様の言葉も記されています。あのモーセでさえ、「顔を顔を合わせて」神様と語ったけれども、しかし神様のお姿をはっきりと見ることはできなかったのです。
昨年から私は個人的に、イスラム教の聖典であるコーラン、クルアーンについても、拙いながら学びを続けています。たしかにそこには高尚な教えが記されていると思います。原語のアラビア語で読めているわけではありませんが、ムスリムの人々が「これこそ神の言葉だ。こんなにも美しい言葉は神にしか語れない」と信じたくなる気持ちも分かる気がします。しかし、もし本当にクルアーンが、ムハンマドが神様から聞いたことをそのまま記したものなのだとしても、神のことばを記すということと、神ご自身を説き明かすこととは、同じではないと思うのです。神ご自身を説き明かすということは、神様のことばを聞いてそのまま書き写すようなことではなく、もっと人格的で、情熱的で、ワクワクするような事柄ではないかと思うのです。
「父のふところ」
ヨハネは、「いまだかつて神を見た者はいない」と語りました。しかしそのすぐ後でヨハネは、「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」とも語りました。「ふところ」という日本語は、元々は「身体の中で一番太いところ」という意味だそうで、胸元を意味する言葉です。ここでヨハネが使っているギリシャ語も「胸」という意味です。子なる神は、父なる神のふところ、胸のところにおられる。それはつまり、父なる神の心臓の動きまですべてご存知だということです。
皆さんは、神様は怖いお方だ、という印象をお持ちでしょうか。特に旧約聖書を読んでいると、そこに記されている神様というのは、厳しい戒めをたくさん与えて、それを破った人間を容赦なく殺してしまう、そのような恐ろしい存在だと思われるかもしれません。たしかにそれはその通りではあります。しかし私たちは、聖書の文字面だけを読んで、ああ神は残酷だ、戒めも厳しすぎる、こんなものは読んでいられない、信じられない、と決めつけて良いのでしょうか。聖書に書かれたことばをそのまま読むだけで、神様について分かったことになるのでしょうか。
どうして神様は、あんなにも厳しい戒めを人間に与えるのか。なぜ神様は、あれほどまで容赦なく、厳しく罪人をさばかれるのか。その神様の心を、イエス様は知っておられるのです。厳しい戒めを与えなければならない神様の心苦しさも、イエス様は知っておられる。その戒めを人間が破り、互いに互いを傷つけるその罪深い姿を見つめる神様の心臓の鼓動も、「父のふところにおられるひとり子の神」は知っておられるのです。そしてその愛を、その切なさを、イエス様は私たちに伝えに来てくださった。「父のふところ」で感じ取ったすべてを、私たちに伝えるためです。
ヨハネの福音書は次のようにも語ります。14章の8節と9節をお読みします。
14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
9 イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。……」
「子は親の鏡」という言葉があります。子どもは親から多大な影響を受ける。子どもの振る舞いを見れば親の考え方や生き方がうかがい知れる。「親の顔が見てみたい」という言葉もあります。ピリポは“親の顔”を探し求めていました。しかし、イエス様は仰りました。「わたしを見た人は、父を見たのです。」親の顔はすでにそこにあったのです。「ひとり子」に出会ったピリポは、自分がすでに神ご自身の顔を見ていることに気づいていなかったのです。
先週の日曜礼拝の後、教会の玄関でJさんと立ち話をしていた時、「八木重吉が好きなんです」「僕も好きです」という話になりました。難しい言葉を使わずにキリスト教の真理を語った彼のことばは、その早すぎる死から百年が経とうとする今も、多くの人の心を深く捉え続けています。彼の最も有名な詩の一つには、「桃子よ」という題がつけられています。
『定本 八木重吉詩集』260頁
もも子よ
おまえがぐずってしかたないとき
わたしはおまえに げんこつをくれる
だが 桃子
お父さんの命が要るときがあったら
いつでもおまえにあげる
娘に対する重吉の深い愛情は、重吉自身も天の父から受けていた愛情でした。父なる神は、「げんこつをくれる」だけの神ではない。たしかに厳しいことも仰る。厳しい罰をお与えになることもある。しかしそのように厳しく振る舞う時にも、神様の心臓は激しく動いている。イエス様がこの世界に来てくださったのは、この愛情を伝えるためです。「天のお父さまはね、怖いお方だと思っているかもしれないけれどね、いつでも君たちにいのちをお与えになるおつもりだ。」そしてヨハネは、聖書の中で最も有名なこのみことばを語ります。3章16節をお読みします。
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ある宣教師の方が、一人の中学生から、こんな質問をされたそうです。「この世界には色々な宗教があるのに、色々な神様がいるのに、どうしてイエス様だけを礼拝するの?」その宣教師は次のように答えたそうです。「私のために死んでくれた神様は、イエス様以外にいないからだよ。」イエス様が私たちに教えてくださったこと、それは、この天地をお造りになった全能の父なる神は、いのちを捨ててしまうほどに私たちを愛しておられる、ということです。そして、本当にいのちを捨ててしまった。「お父さんの命が要るときがあったら いつでもおまえにあげる」と、神様は本気で、真剣な眼差しで、今日も私たち一人ひとりに語りかけておられます。こんな神様が他にいるでしょうか。
「イエスの胸のところ」
ヨハネの福音書には次のような出来事が記されています。13章21節から25節をお読みします。
13:21 イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」
22 弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。
23 弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。
24 そこで、シモン・ペテロは彼に、だれのことを言われたのか尋ねるように合図した。
25 その弟子はイエスの胸元に寄りかかったまま、イエスに言った。「主よ、それはだれのことですか。」
23節の最後のところに、「イエスが愛しておられた弟子」と書かれています。この弟子は、ヨハネの福音書を書いたヨハネ自身のことです。もちろんヨハネは、「イエス様が愛しておられたのは自分だけだ」と言いたいわけではありません。ヨハネが自分のことを「愛しておられた弟子」と呼ぶのは、自分は他の弟子に比べて特別優秀だ、などということではないはずです。むしろヨハネは、自分自身は名前を記す価値さえない小さな存在だけれども、こんな小さな自分でさえイエス様は愛してくださるのだという思いを込めて、このような書き方をしたのでしょう。
そのヨハネが、「イエスが愛しておられた弟子」が、「イエスの胸のところで横になっていた」と書かれています。やっぱりヨハネはイエス様と特別な関係にあったのか、もしかして恋愛関係だったのかと思うような場面ですが、当時の中東地域の文化では、男性同士が身体を近づけるのは珍しいことではなかったようです。今でもアラブ諸国では、恋愛関係というわけではなくても、たとえば男性同士で手を繋いで道を歩くのは普通のことだそうです。
ここで注目したいことは、イエス様とヨハネが恋愛関係にあったかどうかではなくて、23節の「胸のところ」という言葉です。実は、ここで「胸のところ」と訳されているギリシャ語は、1章18節で「ふところ」と訳されている言葉と同じです。イエス様が父なる神様の「ふところ」におられたのと同じように、ヨハネもイエス様の「ふところ」にいて、イエス様の心臓の音を聞いていたのだと言うのです。そしてヨハネは、イエス様のことを伝えるこの福音書を書いたのです。イエス様のことばをただ暗記したり、イエス様の行動をただ記録していれば福音書が書ける、というわけではありませんでした。21節に、イエス様の「心が騒いだ」とも書かれています。イエス様の心を、その鼓動を、イエス様の胸元で聞いていたヨハネだからこそ記すことのできたことです。イスカリオテのユダがイエス様を裏切ろうとしている、そのことをただ客観的に記すのでもありません。ユダを裏切り者として告発する時にも、イエス様の心は激しく動き続けていたのだということを、ヨハネは伝えようとしています。
福音書に限らず、聖書というのは、ただ神様から聞いたことを書き写した議事録のようなものではありません。神の心の高鳴りを知っている人々が、その鼓動を伝えるために記したものです。神ご自身の霊に動かされた人々が記したものです。ですから私たちも、ただ聖書の字面を読んで、神のことばを読んだ気になることはできません。もちろん、まずは文字面を丁寧に追うところから始まります。一つひとつの言葉の意味、文章の意味を理解するように全力を尽くします。しかしそれでも、ただその文章の意味がわかれば良い、ということではないはずです。そこに記されたことばの奥深くにある、神様の心の動きに気づかなければなりません。そうでなければ、神のことばを読んでいるつもりでも、神の心とはぜんぜん違うことを受け取ってしまう、ということになってしまいます。パリサイ人のように、神様のことばを詳しく知っているように思い込みながら、実際には“いのちのない”社会や教会を作り出すということにもなってしまいます。
聖書が伝えているのは、貧しい人々や虐げられた人々に出会った時に、胸が切ない痛みでいっぱいになるイエス様の姿です。しかし、私たちはどうでしょうか。貧しい人々や虐げられた人々に出会っても、ピクリとも心動かされず、胸を刺すような痛みが起こらないとすれば、私たちの聖書の読み方はどこか間違ってしまっているのではないでしょうか。イエス様の胸が痛んでいるのに、私たちの胸が痛まない。イエス様の心臓が激しく動いているのに、私たちの心臓は平常運転をしている。「泣いている者たちとともに泣きなさい」と言われた神様の心が、心の底から分かるようになるまで、私たちは今日も明日も聖書を読み続けたいと思うのです。そして、「泣いている者たちとともに泣きなさい」と言ってくださる神様が、この私が泣いている時にも、本当に、一緒に、涙を流していてくださるのだということを知る時に、私たちは他の場所では決して手に入れることのできない真実の慰めを得るのだと思います。
良い宗教はたくさんあります。良い哲学や思想もたくさんあります。自己肯定感を高めてくれる教えもあれば、いわゆる“成功者の人生”に導いてくれるような教えもたくさんあります。しかし、「あなたが泣いている時に、全能の神があなたと一緒に泣いてくださっている」「あなたには、神がいのちを捨てて救いたいと願うほどの価値がある」、こんな驚くべき事実を教えてくれたのは、イエス様以外に誰ひとりいません。神様がそんな方だったとは、全能の父なる神が、こんなにも情熱的で、誠実で、涙もろいお方だったなんて、イエス様以外に誰ひとりとして教えてはくれなかったのです。私たちは、「そのひとり子」を信じます。「われはそのひとり子を信ず」と告白します。そして、いつの間にか冷えて固まりきってしまった私たちが、イエス様と同じ心臓の鼓動を取り戻していくことを、すなわち、恵みとまことに満ちておられる神の心が私自身の心となることを切に祈り求めていくのです。お祈りをいたします。
祈り
イエス・キリストの父なる神様、そして、私たちの父ともなってくださった神様。「お父さんの命が要るときがあったら いつでもおまえにあげる」と言ってくださるあなたの愛に、私たちの心は突き動かされているでしょうか。苦しみの中にある人々、虐げられた人々と出会う時、私たちの心臓は正しく鼓動しているでしょうか。イエス様の姿を見つめさせてください。イエス様のふところで、その胸の高鳴りを、その痛みの音を、聞かせ続けてください。私たちをあなたの子どもとしてください。愛に飢え渇いている人々に、あなたの愛を余すところなく伝えることのできる、父のふところにいる神の子どもとならせてください。御名によって祈ります。アーメン。