第一コリント8:4-6「われらの主」(使徒信条⑤|宣愛師)

2025年3月16日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『コリント人への手紙 第一』8章4-6節


8:4 さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。
5 というのは、多くの神々や多くの主があるとされているように、たとえ、神々と呼ばれるものが天にも地にもあったとしても、
6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。



「わたしが、あなたとともにいる」

 先日、キリスト教求道中のKくんにちょっと無理やりお願いをしまして、キリスト教に関してKくんが抱いたことのある疑問をまとめた質問リストを送ってもらいました。そのリストには、なんと34個もの質問が書かれていまして、どれも意義深いものばかりだったので、伝道師としてちょっと武者震いと言いますか、この一年はこれだけで楽しめそうだな、とワクワクしているところです。そのリストの中に、こういう質問がありました。「宗教は、人々に自由を与えるものなのでしょうか? それとも、ある種の制約や義務を伴うものでもあるのでしょうか?」

 使徒信条の学びも五回目となります。本日は、「われらの主イエス・キリストを信ず」という信仰告白について、特に「われらの主」という言葉について、ご一緒に学びたいと思います。そしてそれと同時に、「宗教は自由を与えるのか、それとも、ある種の制約や義務を伴うものなのか?」というこの問いについても、聖書を通して考える機会となればと思います。

 さて、私たちの教会が用いている聖書の翻訳は「新改訳」と呼ばれるものですが、この翻訳で旧約聖書を読んでいると、「主」という言葉が太字で書かれているところが見つかると思います。たとえば、出エジプト記の3章14節と15節には次のように書かれています。


3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』〔エヒイェ〕という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』〔エヒイェ〕という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。
 15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、〔ヤハウェ〕が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。

 ここで太字の「」となっている部分には、元々は、「」ではなくて、「ヤハウェ」という神様のお名前が書かれていました。しかしイスラエルの人々は、「ヤハウェの名をみだりに口にしてはならない」(出20:7)という戒めを守るために、「ヤハウェ」というお名前をお呼びすることを避け、そのかわりに神様を「」とお呼びすることしました。

 では、「ヤハウェ」というお名前はどういう意味なのでしょうか。14節で神様は、「わたしは『わたしはある』という者である」と仰りました。「わたしはある」というのは、ヘブル語で「エヒイェ」と言います。この「エヒイェ」という言葉と、「ヤハウェ」という言葉はなんとなく似ていますけれども、単に似ているだけではなく、ヘブル語ではどちらも、「ある」という意味を持っています。「エヒイェ」は「わたしはある」という意味、ヤハウェは「彼はある」という意味です。

 しかし、「彼はある」とは一体どういうことでしょうか。「絶対的存在者」とか、「超越的存在者」とか、哲学的で小難しい意味なのでしょうか。少し前の12節に、そのヒントが書かれています。


3:12 神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる〔エヒイェ・インマフ〕。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。

 「わたしが、あなたとともにいる。」これが、ヤハウェという名前に込められた意味です。あなたとともにいる。あなたのそばにいる。ただ単に「ある」「存在する」ということではない。哲学的な意味で「存在者」というわけでもない。この世界をお造りになった全能の神が、この私とともにいてくださる。人生が180度変わるような、驚くべき大事件です。漫画やアニメで言えば、世界最強のキャラクターが自分の仲間になってくれるような、いや、それ以上の驚き、安心感です。

 モーセは臆病な人間でした。イスラエルという民族もまた、これといった特徴も強みも魅力もないような弱小民族でした。しかし神様が、臆病なモーセをわざわざ選んで、「わたしが、あなたとともにいる」と言ってくださった。何の取り柄もないイスラエル民族を選んで、「わたしが、あなたとともにいる」と約束してくださった。小さく弱く臆病だったはずの彼らは、他の人々に比べて何の才能も能力もなかったはずの彼らは、このヤハウェという名前の神がともにいるというたったそれだけの理由で、全世界に祝福を広げるために選ばれた民、祝福の民となったのです。


「唯一の主なるイエス・キリスト」

 イスラエル人たちはやがて、この「ヤハウェ」というお名前を呼ぶことを避けるようになり、「ヤハウェ」の代わりに「主」と読み替えるようになっていきました。しかし、たとえ彼らが「ヤハウェ」という発音を忘れてしまったとしても、この方のお名前を「主」と読み替える時には、「わたしが、あなたとともにいる」という神様のお約束を思い出していたはずです。

 ですから、そんなイスラエル人たちが、イエスという人間を「主」と呼び始めたということは、本当に驚くべきことなのです。あの人は、実はヤハウェご自身である、という驚くべき信仰です。「あなたとともにいる」と言ってくださったあのヤハウェが、天の王座からこの地上に降りて、本当に私たちのそばに来てくださった。コリント人への手紙第一の8章5節と6節をお読みします。


8:5 というのは、多くの神々や多くの主があるとされているように、たとえ、神々と呼ばれるものが天にも地にもあったとしても、
6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、
 この神からすべてのものは発し、
 この神に私たちは至るからです。
また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、
 この主によってすべてのものは存在し、
 この主によって私たちも存在するからです。

 「多くの神々や多くの主があるとされている」とパウロは語ります。当時の世界にはたくさんの神々がいました。愛と美の女神アフロディテや、お金の神マモンなど、多くの神々がおり、人々はそれらの神々を礼拝することによって、自分の人生やコミュニティを形作っていました。

 アフロディテが求めているのは、美しくて魅力的な人間です。ルッキズムとも呼ばれる力によって、彼女は今もこの世界を支配しようとしています。見た目が美しい人間こそ優れた人間である。醜い人間は価値のない存在である。それがアフロディテを礼拝するということです。彼女は私たちに一時的な快楽や優越感を与えてくれます。しかし、アフロディテを礼拝し、彼女に支配される人生は、「あれが欲しい、これが欲しい」という欲望や、「自分はどうしてこんな見た目なんだろう」という不満や、「あの人みたいになりたい」という妬みや、「この若さを失ったら誰が自分を愛してくれるのだろうか」という恐れに悩まされ続ける、ひどく不自由で、不幸な人生となります。

 また、お金の神であるマモンも、多くの人々を支配し続けています。お金こそが人生の最重要問題であり、なんだかんだ言ってもお金があれば幸せにはなれるのだという価値観が、本やテレビやYouTubeなどを通して広げられています。お金を拝む主義と書いて「拝金主義」と言います。英語では mammonism です。お金があれば幸せだ。お金がなければ不幸だ。年収の多さによって人間の価値は判断される。生産性の低い人間に価値はない。マモニズムに支配される時、私たちは人と比べて傷つき、自分の本当の価値を見失い、這い上がろうとして疲れ果ててしまいます。

 しかし、パウロは語ります。「私たちには、父なる唯一の神がおられる」「また、唯一の主なるイエス・キリストがおられる」。唯一の神、唯一の主とは、何の取り柄もなかったはずの人々に、「わたしが、あなたとともにいる」と約束してくださった、あの「」のことです。私たちの顔が整っているかどうか、センスのいい服を着ているかどうか、SNSにアップロードする写真がキラキラと充実しているかどうか、そのような基準とは一切関係なく、「わたしが、あなたとともにいる」「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)と言ってくださるお方です。アフロディテはあなたに魅力的な人間であることを求め続け、魅力的な人間であることによってのみ幸せを与えようとします。しかしヤハウェは、あなたがどんなに惨めな姿をしていたとしても、あなたととともにいることそのものを楽しみ、喜んでくださる神なのです。

 この神は、次のようにも仰りました。マタイの福音書6章24節と26節をお読みします。


6:24 だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富〔マモン〕とに仕えることはできません。
……26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。

 イエス様を「主」とお呼びすることは、他の神々を「主」とすることをやめる、ということです。偽物の神々、偽物の主人たちから解き放たれるということです。「だれも二人の主人に仕えることはできません。」私たちは、このみことばにどのように応えていくでしょうか。


「われらの主」

 唯一の主なるイエス・キリストを信じ、このお方だけを「主人」として生きる人生は、喜びと力に満ちた人生となります。見た目の美しさにも縛られず、お金のあるなしにも縛られない、自由で活き活きとした人生です。しかし、ここで私たちが注意しなければならないことは、私たちがイエス様だけを主として礼拝し、他の神々の支配から解き放たれ、何にも縛られずに活き活きと生きることができるようになったその時に、そのような私たちの姿が、気づかぬうちに誰かを傷つけていたり、落ち込ませていたり、つまずかせていたりすることがあり得るということです。

 パウロは次のように書きました。第一コリント8章4節と、飛んで7節をお読みします。


8:4 さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。
……7 しかし、すべての人にこの知識があるわけではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんできたため、偶像に献げられた肉として食べて、その弱い良心が汚されてしまいます。

 ここでパウロが論じているのは、異教の神々の偶像に献げた肉をクリスチャンが食べることは罪になるかどうか、という問題です。当時のギリシャの町々では、羊や牛などの動物が神々に献げられて礼拝が行われた後、その動物の肉がさばかれて神殿の部屋で食事会が始まり、そこでも食べきれずに余った肉は市場で売られていました。そのような肉をクリスチャンが食べることは、偶像礼拝の罪なのだろうか。イエス様に対して罪を犯すことになってしまうのだろうか。

 パウロ自身は、それらの肉を食べても問題はない、と考えていました。なぜならパウロは、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを知っていたからです。そしてパウロと同じように、食べても問題はない、と考えるクリスチャンたちがいました。「そんなことは気にしなくていいんだ!」と、活き活きと自由に生きているクリスチャンたちでした。アフロディテにも、マモンにも縛られない、ある意味では健全な信仰を持つ人々でした。

 しかし、そんな彼らに対してパウロは次のように命じたのです。9節から11節をお読みします。


9 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。
10 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、その人はそれに後押しされて、その良心は弱いのに、偶像の神に献げた肉を食べるようにならないでしょうか。
11 つまり、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。
12 あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。

 偽物の神々に縛られず、イエス様だけを主として信じるクリスチャンたちは、ある意味では“強い人たち”でした。しかし、彼らのその強い信仰、その自由で活き活きとした姿が、実は周りの人々を傷つけ、混乱させ、つまずかせていたということに、彼らは気づいていませんでした。

 今の時代もクリスチャンは、たとえば仏教式の葬儀や法事に参列する時、どこまで関わったらイエス様を悲しませてしまうのだろうか、と悩みます。中には、神社やお寺に足を踏み入れるだけでも罪なのではないかと心配する人たちもいます。そのような人たちに対して、「いやいや、それは気にしすぎでしょう」「キリスト教はそんな堅苦しいものじゃないですよ」と言うことは簡単です。しかし、パウロはそうしません。なぜなら彼は、教会の仲間を心から愛しているからです。

 また、これは最近になって少しずつ分かってきたことですが、どうやら私は、お金の心配をするということが人よりも少ないようです。それは本当にお金に困った経験がないからだ、と言われてしまうかもしれませんけれども、どちらかと言えば決して裕福とは言えない牧師の家で育てられましたから、お金がなくてもなんとかなるだろう、神様がなんとかしてくださるから大丈夫だろう、という感覚が人よりも強いのだと思います。しかしだからと言って私は、お金がなくて本当に悩んでいる人たちに対して、「もっと強い信仰を持てばいいじゃないですか」「どうしてもっとイエス様を信頼しないんですか」と突き放すようなことはしたくないと思うのです。私の自由な生き方、私の自由な信仰によって、教会の仲間たちを傷つけるようなことはしたくないと思うのです。

 使徒信条は、「われは信ず」と告白し、「われ」という一人の人間としての信仰告白を大切にしています。しかし、この使徒信条がイエス様をお呼びするときには、なぜでしょうか、「私の主」とは言わないのです。「われらの主」とお呼びするのです。イエス様を「私の主」として信じる人生は、たしかに素晴らしい人生です。何にも縛られずに、自由に生きていける。しかし、それと同時に忘れてはならないことは、イエス様は「われらの主」でもあるということです。私の人生が活き活きとしていく時に、どうして周りの人たちも自分と同じようになれないのかと見下すようなことは許されない。そんな態度は、「われらの主」を信じる信仰ではあり得ない。パウロは言います。「この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。」

 イエス様を信じる人生は、何よりも自由な人生です。しかしその自由は、隣人をつまずかせないために、自らの自由を制限することができる自由でもあるはずです。弱さを持つ隣人を愛するがゆえに、自分の強さを捨てることのできる自由でもあるはずです。たとえ自分自身は偽りの神々から自由になり、先へ先へと進むことができるようになったとしても、今も偽物の神々から逃れようと必死に歩いている仲間たちを見下すのではなく、むしろ立ち止まり、後戻りをして、「一緒に行こう」と手を握ることのできる自由であるはずです。「われらの主」を信じる信仰は、自己実現や自己満足の信仰ではなく愛の信仰です。「あなたとともにいる」と言ってくださったヤハウェの御名に相応しい自由とは、隣人とともに歩む自由であるはずです。お祈りをいたします。



祈り

 私たちの父なる神様。十分に魅力的であれば、十分にお金を持っていればなどと、様々な条件を付けて私たちを支配し、私たちの人生を弄ぶような偽りの神々から、そして、そんな神々だと分かっていても捨てることができない私たちのこの根深い罪から、私たちを解き放ってください。何の条件もなしに、いや、こんなにも条件の悪い私たちであるのに、「あなたとともにいる」と言ってくださるあなただけを信じ、あなただけを礼拝し、まことの自由の中を歩ませてください。そして私たちのその自由が、隣人を傷つける自由ではなく、隣人とともに歩む自由となりますように。ヤハウェのお名前を闇雲に、みだりに唱える信仰ではなく、そのお名前にふさわしい、愛の信仰を持つことができますように。私たちの主の御名によってお祈りをいたします。アーメン。