ヨハネ5:31-40「神による証し」(まなか師)
2025年3月23日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』5章31-40節
31 もしわたし自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。
32 わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。
33 あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。
34 わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。
35 ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。
36 しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。
37 また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。
38 また、そのみことばを自分たちのうちにとどめてもいません。父が遣わされた者を信じないからです。
39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。
40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

はじめに
この朝も、愛する兄弟姉妹の皆さんと共に、みことばに聴くことのできる幸いを覚えます。お一人お一人の上に、神様の祝福がありますように。
私が幼かった頃、母は私に「トイレの掃除用のブラシを触ってはいけないよ」と言いました。おそらく、あまりきれいなものではないので、不用意に触らないでねという意味だったのだろうと思います。でも、子どもであっても、触るなと言われると触りたくなるのが、人間というものです。私はある日、そのブラシを触りました。バレないようにきちんと元に戻したのですが、母に気付かれてしまいました。母いわく、大人の目から見れば、明らかにブラシの位置が動いていたそうです。私は母から「触ったよね?」と尋ねられて、最初は容疑を否認していましたが、動かぬ証拠としてブラシの位置を示され、結局白状しました。
さて、今日の聖書箇所は、イエス様が神の子であるという証拠について語っています。イエス様が話しておられる相手は「ユダヤ人たち」です。ユダヤ人たちは、イエス様が神の子であるという証拠を認めたのでしょうか。それとも受け入れなかったのでしょうか。
バプテスマのヨハネによる証し
5章の前半で、イエス様が安息日に足の不自由な人を癒やしたので、ユダヤ人たちはイエス様を迫害し始めました。彼らのルールでは、安息日には人を助けることもしてはいけなかったからです。イエス様はそんな彼らと向き合い、彼らに語っておられます。
31節から35節を改めてお読みします。
31 もしわたし自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。
32 わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。
33 あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。
34 わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。
35 ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。
イエス様は31節で、「もしわたし自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません」とおっしゃいました。当時のユダヤ社会では、旧約聖書にあるように、信頼できる証言とは、二人か三人の証人によるものだと考えられていました。ですから、イエス様だけが「わたしの証言は真実だ」と訴えていても、彼らは納得しなかったわけです。イエス様が何をおっしゃっても、「まあ、あなたはそう言うでしょうけどね」という反論が返ってくるはずです。一人の人が何をどう証言しようが、それは真実かどうか疑わしい。私たちにもこの考え方は理解できます。イエス様の証言は実際にはもちろん真実なのですが、イエス様の証言を裏付ける証拠が、つまり、ほかの人による証言が求められました。イエス様はそんな彼らの要求に応えられます。
32節はいったん飛ばして、33節から35節に注目したいと思います。ここで「ヨハネ」と呼ばれているのは、バプテスマのヨハネのことです。イエス様の半年前に生まれ、「悔い改めなさい」とユダヤ人たちに語り続け、イエス様の働きの道備えをしたヨハネです。ユダヤ人たちもヨハネをよく知っていました。
イエス様はヨハネを「燃えて輝くともしび」にたとえておられます。「燃えて輝く」という表現には「燃え尽きる」というニュアンスが含まれています。他の福音書によれば、ヨハネはヘロデ王に捕らえられ、首をはねられて死んでいきます。ヨハネによる証しは、ヨハネ自身にとって犠牲の大きいものでした。しかし彼は「ともしび」の役割を果たしました。「ともしび」とは、しばらくの間、道案内をし、まことの光のもとへと導くランプのことです。イエス様というまことの光へと人々を導く。その使命を果たして、ヨハネは燃え尽きていく。
「ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。」ユダヤ人たちもヨハネを喜びました。彼らは、自分たちの時代に本物の預言者が来てくれたと思って、大いに喜びました。ここで使われているギリシャ語は、単なる喜びではなく、あふれるような熱狂的な喜びを意味します。つまるところ彼らは、自分たちの世代に神が預言者を送ってくださったことに、ただただ熱狂していただけでした。ヨハネのメッセージそのものに、本当の意味で耳を傾けることはなかった。たとえ耳を傾けることがあったとしても、またすぐに背を向けてしまった。
それはまるで、イエス様が「岩の上に落ちた種」にたとえた人たちのようです。みことばを聞くとすぐに喜んで受け入れるが、しばらくは信じていても、困難や試練があると身を引いてしまう。自分たちに都合の悪いことがあるとつまずいてしまう。楽しい信仰生活ならいいけれども、苦しい信仰生活ならごめんだ。ただ神様の愛の中に包まれていたいだけで、悔い改めなんてしたくない。自分の生き方は変えたくない。ヨハネを受け入れなかったユダヤ人たちの姿は、悔い改めることのない自分本意な私たちの姿ではないでしょうか。
「わたしのもとに来ようとはしません」
続いて36節から39節をお読みします。
36 しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。
37 また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。
38 また、そのみことばを自分たちのうちにとどめてもいません。父が遣わされた者を信じないからです。
39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。
イエス様は、父なる神が証しをしておられると語ります。32節でもイエス様は「わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます」とおっしゃっていました。では、父なる神はどんな方法でイエス様を証ししておられるか。
イエス様がなされるわざは、父なる神のわざです。イエス様は、安息日に人を癒やしたことを非難されたとき、「わたしの父が今も働いているから、わたしも働いているのだ」とおっしゃいました。「安息日に人を癒やし、人を助けることは、父なる神の御心だから、わたしもそのようにするのだ」と言われたわけです。ユダヤ人たちは、安息日に仕事をしてはならないというルールを厳密に守ることが、父なる神に喜ばれることだと思っていました。けれども父なる神は、ご自身が安息日にも喜んで人を助け、人を癒やすお方であるということを、イエス様のわざを通してお示しになりました。
ユダヤ人たちは決して聖書を軽んじていた人たちではありません。むしろ聖書をこれ以上ないほどに大切にしていた人たちです。真剣に聖書に向き合っていた人たちです。何が神の御心にかなうことなのか、どうすれば永遠のいのちを得ることができるのか、まじめに、ひたむきに、本気で考えていた人たちです。彼らには聖書への信仰がありました。「聖書の中に永遠のいのちがある」と信じて、聖書を調べていたからです。それなのに、40節。
40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。
どうして、彼らはイエス様のもとに行こうとしなかったのでしょうか。バプテスマのヨハネも、イエス様のわざも、父なる神も、そして聖書も、皆がイエス様を指し示しているのに、それでも、彼らがイエス様のもとに行かなかったのはなぜか。「神による証し」がこんなにも揃っているのに、証拠が揃っているのに、それでも彼らがイエス様を信じない理由。
それは、第一に、イエス様より自分たち自身を信じたかったからです。自分たちのほうが正しいと信じていたかったからです。イエス様は彼らがご自分のもとに来ようとしないとおっしゃいました。“来ない”ではなく“来ようとしない”。そこには、たとえ無自覚だとしても、彼らの意思が強く働いています。自分たちが間違っていたと認めたくない。だからイエス様のもとには行かない。行こうとしない。
第二に、彼らは自分たちの生き方を変えたくありませんでした。自分たちの聖書の読み方を改めたくありませんでした。これまでの生き方や考え方を肯定してくれる救い主を求めていました。安息日をどう守るか。貧しい人や病気の人を助けていては、安息日を守れません。汚れた人や罪人に触れていては、自分たちのきよさは保てません。彼らは今までどおりに心地よく、清潔に、立派に生きていたかった。
第三に、これは少し後の箇所になりますが、44節にあるように、彼らは「互いの間」での「栄誉」を求めていました。人から尊敬される生き方を求めていました。聖書の教えに従うことで、神からの「栄誉」を受けるのではなく、人からの「栄誉」を受けることを願っていました。だから彼らは、聖書を調べていながら、神の御心を誤解していってしまった。
私たちも、聖書を読みます。聖書を信じています。しかも真剣に信じています。聖書を熱心に読んでいながらにして、自分中心な信仰者になってしまっていることがあると思います。
たとえば、日曜日の礼拝でみことばを喜んで聞くけれども、月曜日から土曜日まではどうか。大変だな、しんどいなと思っても、イエス様に祈ることもせずに自分の力で生きていこうとしていないだろうか。イエス様ではなく自分自身を信じてみたい。自分の生き方は自分で決めたい。そんな思いが自分でも知らないうちに潜んでいないだろうか。あるいは、いつでも自分こそ正しいと決め込んで、誰かを心のなかでさばくことがないだろうか。ひいては神様に対してさえ、「あなたが間違っている」などとつぶやくことがないだろうか。さらには、イエス様を信じているにしても信じていないにしても、人からどう思われるかが最優先になっていないか。聖書を読むこと、教会に来ること、礼拝をすること、奉仕をすることで、人から一目置かれたりするのがどこか心地よい。いつの間にかイエス様は二の次になっている。イエス様が隅に追いやられている。イエス様以外の何かからいのちが得られると思い込んでいる。そういったことがあるかもしれません。
お医者さんや歯医者さんから、「どうしてもっと早く来なかったんですか」とちょっと叱られてしまう、そんな経験をしたことがある方もいると思います。「こんなにひどくなる前に、どうしてもっと早く来なかったんですか。」すると私たちは、「すみません、ちょっと忙しくて…」とか、「こんなにひどくなっているとは思わなくて…」などと言い訳してみたりするものです。
イエス様も同じ気持ちなのだと思います。「どうしてわたしのもとに来ようとしないのか。こんなに疲れているのに、こんなに傷だらけになっているのに、罪の病がこんなに進んでしまっているのに、どうして自分のいのちだけで生きていこうとするのか。どうしてもっとわたしを頼らないのか。どうしてもっとわたしに祈らないのか。」そうすると私たちは、「すみません、ちょっと忙しくて……」とか、「こんなにひどくなっているとは思わなくて…」と言い訳をしたくなるのかもしれません。
イエス様からいのちを頂くことで、私たちは生きます。いのちを得るには、私たちが死んだ者であるということをまず認めなければいけません。自分は正しくもなく、立派でもなく、人から尊敬されるべき者でもない。外面だけ立派に見せているけれども、内側は最悪で、病気だらけ。そんな自分というものが心底嫌になって、なぜこんな自分が生きているのだろうか、こんな自分は死ぬべきではないか、と気付いた人こそ、イエス様のもとに飛び込んで、「あなたのいのちを私に下さい」と申し上げることができるのです。まことのいのちはイエス様のうちにしかありません。これが、バプテスマのヨハネが証しし、父なる神が証しし、聖書が証ししていることです。
そしてクリスチャンとは、イエス様のいのちにつながりながら生きていく人のことです。イエス様なしには生きていけない人のことです。自分の中にいのちはないということを知った人こそ、イエス様のいのちにとどまって生きていくのです。
私たちはいつの間にか、イエス様以外のものを求めます。「自分を信じれば生きていける」「人から認められれば生きていける」と考えてしまいます。けれども、自分のうちにも、人のうちにもいのちはありません。他のものにいのちを求めてしまったならば、何度でもイエス様のもとに戻って、「ごめんなさい」と悔い改めればよい。「わたしにはあなたが必要です」と申し上げればよい。私たちは何度でも、いのちの主であるイエス・キリストのふところに飛び込んでいきたいと思います。
教会は、イエス様のもとで悔い改める仲間たちの集まりです。盛岡みなみ教会も、いのちに至る悔い改めをこれからもやめることなく、そして互いの悔い改めをますます受け入れ合う群れへと導かれていきますように。お祈りをいたします。
祈り
イエス・キリストを遣わされた父なる神様。私たちには、イエス様のもとに行こうとしない、頑なさがあります。イエス様ではなく自分自身を信じてみたい。自分の生き方は自分で決めたい。人から称賛されたい。そんな思いがあります。どうぞ私たちをあなたのもとに引き寄せてくださり、何度でも悔い改めさせてくださり、あなたのふところに飛び込ませてください。あなたのいのち無しには、私たちは生きていけません。そのことをますます深く、私たちに教えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。