マタイ1:20-25「イエス」(使徒信条⑥|宣愛師)
2025年3月30日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マタイの福音書』1章20-25節
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
23 「見よ、処女が身ごもっている。
そして男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、
25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。

「ヤハウェが救う」:何からの救い?
皆さんは、「イエス」という名前の意味をご存知でしょうか。ヘブル語では「イェホシュア」とか「イェシュア」と言いまして、これがギリシャ語になると「イースース」となり、日本語では「イエス」となるわけですが、このお名前はどういう意味かと言いますと、「ヤハウェが救う」という意味です。「ヤハウェが救う」「神様が救ってくださる」というのが、「イエス」というお名前です。
では、一体何から救ってくださるのでしょうか。私たちを何から救い出してくださる救い主なのでしょうか。たとえばユダヤ人の多くは、“ローマ帝国から救い出してくれる救い主”を求めていました。“自分たちを苦しめるあの罪人たちから救い出してくれる救い主”、もしくは、“まことの神様を信じないあの汚れた罪人たちから救い出してくれる救い主”を求めていました。
私たちクリスチャンも、似たようなことを考えるかもしれません。「自分に意地悪をしてくるあの人から」「自分が嫌いなあの人から」「あの困った人たちから」救い出してくれる救い主。そういう救い主を、私たちは求めているかもしれません。ところがどうでしょうか。問題は“あの人たちの罪”なのでしょうか。聖書は何と言っているでしょうか。マタイ1章21節をお読みします。
21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
「ご自分の民をその罪からお救いになる」と書かれています。「その罪」というのは、“私たちを苦しめるあの人たちの罪”ではありません。“他宗教を信じるローマ人たちの罪”でもありません。「その罪」というのは、まことの神様を信じているはずの、神の民自身の罪です。私たち自身の罪です。「イエス」というお方がこの世界に来られたのは、“あの人たちの罪”ではなく、私たち自身の罪のためである。問題は“あの人たち”ではなく、私自身である。私自身の罪が問題である。このことに気づくことから、「イエス」と呼ばれる救い主との出会いが始まっていきます。
「自分は指一本貸そうともしません」
この人間の罪について、イエス様が最も手厳しくお語りになったのは、マタイの福音書の23章です。この章の冒頭で、イエス様は次のようにお語りになりました。マタイ23章の1節から。
23:1 そのとき、イエスは群衆と弟子たちに語られた。
2 「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。
3 ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。
4 また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。
律法学者たちやパリサイ人たちは、まことの神様を信じる人々でした。“聖書に基づく正しい生き方”ができる人たちでした。そして彼らは、そのような“聖書に基づく正しい生き方”を、“正しい生き方”ができない人々に背負わせるのです。「そんなんじゃダメだ。正しい生き方をしなさい!」と教えてあげるのです。「盗みをしてはいけません!」「汚れたものに触れてはいけません!」「ちゃんと毎週教会に行って聖書の勉強をしなさい!」と親切に教えてくれるのです。しかし彼らは、「それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。」
クリスマスの説教でもお話ししたことがあると思いますが、当時の社会ではたとえば、羊飼いたちは“罪人”と呼ばれていました。なぜなら彼らは、毎週土曜日はユダヤ教の会堂に毎週行って聖書の勉強をする、という決まりを守れなかったからです。土曜日だろうと日曜日だろうと、羊たちのお世話をやめるわけにはいかないからです。また当時は、たとえば売春をする女性たちも“罪人”と呼ばれていました。経済的理由など様々な事情があって売春せざるを得なかったのですが、律法学者やパリサイ人たちはそんな彼女たちのことを“罪人”と呼び、見下していました。
今の世界はどうでしょうか。貧しい国々に目を向ければ、お金がなく、食べる物がなく、お腹をすかせて、仕方なく盗みをする子どもたちがいます。比較的豊かな国々でも、家庭や学校でのプレッシャーやストレスから現実逃避をするために、万引きを繰り返す子どもたちがいます。そんな子どもたちに対して、「盗みは悪いことだ」と叱りつけるだけで、何かが解決するでしょうか。もちろん、盗みは悪いことです。しかし、その子どもたちが抱えている問題を解決するために「指一本貸そうとも」しない人たちに、「盗みは悪いことだ」と叱りつける資格があるでしょうか。
「LGBTは罪だ」と主張する人たちもいます。しかし、仮にそれが罪なのだとして、「罪だ、異常だ」という主張によって、誰かが救われるのでしょうか。中には、男性から受けた性暴力によって男性不信になり、女性としか信頼関係を築くことができない、そういう女性たちがいます。もしくは、いじめなどの苦しい現実から逃れるために、“もう一人の自分”を作り出すことによって、なんとか生き延びている人々もいます。そんな人々が抱えている問題を知ってもなお、「指一本貸そうとも」しない人に、「LGBTは罪だ」などと主張する資格があるのでしょうか。
『反省させると犯罪者になります』という、興味深いタイトルの本があります。宮口幸治という児童精神科医が書いた本なのですが、宮口さんは非行少年たちを支援する中で、「ただ反省を強いるだけでは、根本的な問題解決にはならない」ということに気づいたそうです。多くの大人は、非行少年たちに対して、「どれだけ悪いことをしてしまったのか」という反省を促す。しかしそうやって反省を強要すると、少年たちの多くは、「自分はダメな人間だ」と自己否定感を強めて、結果的にますます非行に走ってしまう。問題行動をする子どもの多くは、自己肯定感が低く、家庭や学校で孤独感を味わっていたり、愛情不足に苦しんでいる場合が多い。彼らは「悪いことをしたい」のではなく、「自分の存在を誰かに気づいてほしい」「この苦しい気持ちを一瞬でも忘れたい」と感じている。だから本当に必要なのは、少年たちに反省文を書くように指導する大人ではなく、少年たちの心の葛藤に耳を傾けてくれる大人なのだと、宮口さんは語っています。
「罪」と聞くと、“悪い心”のことだと思う人が多いと思います。しかし、「罪」というものには、“正しい心”も含まれるのではないかと思うのです。以前妻と喧嘩をしまして、しばらく口を利かず、冷戦状態が続いていたある日、一人のお客さんが教会に来ることになりました。そこで私が妻に、「ちょうどさっき◯◯さんからいただいた苺があるから、それをお出ししよう」言ったら、妻が「あんなに高級なものを出しちゃうの?」と言うんですね。私はその言葉にカチンと来まして、「高級なものをお出しして何が悪いんだ。そういう態度はお客さんへの差別じゃないか」と思い、それからますます口を利かなくなってしまいました。今思えば、私たち夫婦のために頂いた苺を、他のお客さんに簡単にお出ししてしまうというのも、苺を下さった人に失礼なことだと分かりますし、仲直りしてから妻に聞いたら、「差別とかじゃなくて、単に苺が食べたかっただけ」ということでしたが、その時の私は、「人を差別するな」という自分なりの“正しい考え”に支配されて、ますます不機嫌の罪の中に陥っていきました。
“正しい心”や“正しい教え”が、罪を悪化させてしまう、ということがあるのだと思います。「だってあの人は間違ったことをしたのだから、私が不機嫌になるのは当然のことだ」と言って、正しさによって自分の罪を正当化するのです。正しさが、罪に加担してしまうのです。律法学者やパリサイ人たちの“正しさ”は、彼ら自身をますます罪の深みに陥らせていきました。そして彼らは、彼らの周りにいる人々を救うこともできませんでした。
「インマヌエル」:もう一つの名前
もちろん、時には反省を促すことも必要だと思います。イエス様も「悔い改めなさい」とお語りになりました。しかしイエス様は、「悔い改めなさい」「それは罪だから反省しなさい」と命じるだけで、あとは私たちの人生に指一本触れないようなお方ではありませんでした。イエス様にはもう一つのお名前があるのです。23節をお読みします。
23 「見よ、処女が身ごもっている。
そして男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
イエス様は、遠く離れた場所から私たちの罪を指摘して、「悔い改めなければ地獄に落とすぞ」と上から目線で指図するようなお方ではありませんでした。イエスという名前を持つお方は、「神が私たちとともにおられる」というもう一つの名前を背負って、私たちの世界に降りて来てくださいました。私たちが心の奥底で抱えている孤独、「誰かに気づいてほしい」という叫びに、そしてそこから湧き出てしまう様々な罪に、イエス様は指一本で触れるどころか、私たちの薄汚い手をぎゅっと握ってくださる。「寂しかったよね」と抱きしめてくださる。そして、私たちの重荷をすべて背負って、十字架というゴミ捨て場に持って行ってくださった。
What Would Jesus Do? という有名なフレーズがあります。「イエスならどうするだろうか?」という意味です。私たちもイエス様のように、誰かの救いのために生きられるようになりたいと思います。苦しんでいる人々を救ってあげられるような生き方がしたいと願います。「イエス様ならどうするだろうか?」と自分自身に問いかけながら、誰かの救いのために生きていきたい。正論を振りかざすのではなく、相手の心の痛みに寄り添えるような生き方がしたいと思います。
しかし、その時私たちが直面するのは、イエス様のように生きたくても生きられない私たちの現実ではないでしょうか。「寄り添うことが大切だ」と頭では分かっていても、つい正論を言いたくなってしまう。相手が自分の思い通りに動いてくれないと、「聖書にはこう書いてある!」と言って、敵対関係を作り出してしまう。
そして私たちはまた、イエス様のように生きられない自分の罪に気づいて、“反省”をするのです。自分はなんてダメなクリスチャンなんだろうか。すぐにカッとなってしまう。すぐに嫌になってしまう。疲れてしまう。感謝や見返りを求めてしまう。こんな自分ではダメだ、クリスチャン失格だ。反省と自己嫌悪の渦の中で、周りの人を罪から救うどころか、自分自身がまた罪の中に陥っていく。すべてがどうでもよくなって、結局は自分中心に生きるほうが楽だとさえ思ってしまう。
たしかに、自分の生き方を振り返って反省することは大切でしょう。しかし、神様が私たちに求めておられるのは“反省”なのでしょうか。むしろ私たちに本当に必要なことは、「神が私たちとともにおられる」ということによって、私たち自身の心の奥底にある飢え渇きが満たされることなのではないでしょうか。「誰かに愛されたい」「大切にされたい」「寄り添ってほしい」「自分のがんばりを見ていてほしい」「自分の存在に気づいてほしい」という、私たち自身の飢え渇きが満たされて初めて、周りの人を正しく愛することができるのではないでしょうか。「私を見ていてくださる方がいる」「私は孤独ではない」。このような発見こそが、罪からの救いのはじめの一歩なのだと思います。これは、“反省”の結果ではなく、信仰の結果であるはずです。自分自身を見つめ直すときではなく、神様の愛に目を向けるときに、私たちはこの大切な真理に気づくのです。
そしてその時私たちは、「イエス」と「インマヌエル」という二つのお名前が、ひとりの救い主を指し示している、ということの意味に気づき始めるのだと思います。“罪から救う”ということと、“神がともにいる”ということが、別々の事柄ではなく、一つの事柄であることに気づき始めるのです。そしてそれは、イエス様が私たちのためにしてくださったことであり、私たちが隣人のためにできる最善のことでもあるのだと思います。この世界が必要としているのは、罪人たちに対して正論を振りかざし、一方的に反省を求めるような人々ではありません。必要なのは、隣人の心の叫びに耳を傾け、ともにいることを選び続ける人々です。お祈りをいたします。
祈り
私たちの父なる神様。人の罪を指摘して自己満足に陥り、自分が高尚な人間であるかのように思い込み、しかし結局は誰の救いにもなっていない、そんな私たちの高慢さと空回りがあります。反省ばかりの歩みですけれども、反省して自分を見つめるばかりで、イエス様の温かな眼差しに気づくこともない愚かな者です。イエス様がともにいてくださいますように。そして、イエス様が私たちとともにいてくださるように、私たちも隣人とともにいて、ともに神の救いの恵みを喜び味わうことができますように。上から目線の“伝道”ではなく、ともに生き続けることを通して、その心の叫びに耳を傾け続けることを通して、神様の救いの恵みを分かち合うことができますように。イエス様の素晴らしい御名でお祈りいたします。アーメン。