第一ペテロ3:13-16「希望を語るために」(宣愛師)

2025年4月6日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ペテロの手紙 第一』3章13-16節


3:13 もしあなたがたが良いことに対して熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
14 たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。
15 むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。
16 ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。



キリスト教は倫理的に良いものか?

 私たち盛岡みなみ教会はこの4月から、「希望を語るために」というテーマを掲げ、第一ペテロ3章15節を掲げて、新しい年度を始めてまいります。私たちは、イエス様の素晴らしさを人々に伝えたいと願っています。しかし、「周りの人に伝道しましょう」と言われても、なかなか勇気が湧かなかったり、うまく伝えられなかったり、教会に来てくれたと思っても、しばらくするとまた来なくなってしまう。そのような歯がゆい経験を、私たちは少なからず持っていると思います。

 どうすれば、イエス様の素晴らしさを人々に伝えることができるのでしょうか。本日は、キリスト教を信じない人々の多くが抱いていると思われる三つの問いについて、聖書を通して考えたいと思っています。その三つの問いとは、「キリスト教は倫理的に良いものか?」「キリスト教は合理的に納得できるか?」そして、「キリスト教は人生に希望を与えるか?」という三つの問いです。

 まず初めに、「キリスト教は倫理的に良いものか?」という問いについて考えたいと思います。第一ペテロの3章13節から、15節の前半までをお読みします。


3:13 もしあなたがたが良いことに対して熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
14 たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。
15a むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。

 この手紙を受け取った教会は、迫害の中にありました。クリスチャンだというだけで逮捕されたり、拷問を受けたり、処刑されたりしました。今の日本では、あからさまな迫害は少ないかもしれません。それでも、「どうして外国の宗教を広めようとするのか」とか、「家族や地域の和を乱すな」という同調圧力は少なくないでしょう。もしくは、「真面目に生きるなんてダサい」とか、「意識が高い」「思想が強い」という冷ややかな目もあるかもしれません。それでも、「良いことに対して熱心」であり続けなさいと、ペテロはクリスチャンたちを励ましています。

 最近では、統一協会への解散命令がニュースになっています。統一協会の人々からすれば、「私たちは世間から不当な扱いを受けている。これは宗教に対する迫害だ」ということになるのでしょう。彼らもまた、「自分たちは良いことに対して熱心である」「私たちは義のために苦しんでいる」と本気で考えていると思います。そうなると、私たちキリスト教会が問われることは、私たちの信仰と、統一協会の信仰とは、一体何が違うのだろうか、ということです。

 ここで注目したいことは、ペテロの語り方です。ペテロは、「あなたがたは良いことに対して熱心なのに、どうして人々は迫害するんだろうね」という言い方はしませんでした。彼は、「もしあなたがたが良いことに対して熱心であるなら」と語りました。自分たちは本当に良いことをしているのだろうか、結局のところ私たちも、宗教という道具を使って人々の時間を奪ったり、お金集めをしているだけなのではないだろうか。自問自答の余地があることは大切なことです。

 良い宗教と悪い宗教を見分ける評価基準があるとすれば、それは一体何なのでしょうか。ペテロが語る「良いこと」とは、具体的には何を意味するのでしょうか。少し前の部分に戻って、3章8節と9節をお読みします。また、ヤコブの手紙1章27節も併せてお読みしたいと思います。


【第一ペテロ3章8-9節】最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。

【ヤコブ1章27節】父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。

 これらはすべて、イエス様が身を持って教えてくださった生き方です。このような生き方を悪いと言う人はほとんどいないでしょう。そういう意味では、「キリスト教は倫理的に良いものか?」という問いに対して、私たちは自信を持って「良いものです!」と答えることができます。

 しかしそこで問題になるのは、「では、クリスチャンたちはイエスのように生きているのか?」ということです。「クリスチャンたちは、悪に対して悪を返していないのか?」「牧師や伝道師や教会の人々は、困っている人たちを熱心に助けているのか?」「教会でささげられる献金は、困っている人々を助けるために用いられているのか?」盛岡みなみ教会はどうでしょうか。できている部分もあると思いますし、まだまだという部分もあると思います。自画自賛になってはいけませんけれども、「私たちの教会はとってもよい教会ですよ!」と安心してお勧めできるような教会を、皆さんとご一緒につくっていきたいと思います。私たちの伝道はそこから始まっていきます。


キリスト教は合理的に納得できるか?

 次に考えたいことは、「キリスト教は合理的に納得できるか?」という問いです。3章15節の後半と16節をお読みします。


15b あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。
16 ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。

 先月参加したKGK(キリスト者学生会)の合宿で、講師の先生がこんなお話をしていました。「多くの人は宗教には関心が無いが、神様を信じて真剣に生きている人の生き方には関心がある。」印象深い言葉でした。“宗教”を伝えようとしても伝わらない。しかし、イエス様を真剣に信じ、隣人を真剣に愛する“生き方”は伝わっていく。すると、そこで初めて、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人」が現れてくる。「宗教なんてみんな同じだと思っていた。みんなカルトみたいなものだと思っていた。でも、君たちは違うかもしれない」と思ってくれる人が現れる。その時に備えて、「だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」

 しかし、ここで気をつけておきたいことがあります。それは、キリスト教について「弁明」することと、キリスト教の正しさを「証明」することは違う、ということです。たとえば数学であれば、2+2=4 という数式について「証明」ができます。ところが、たとえば倫理学の分野では、「殺人は悪である」とか、「強姦は悪である」ということを「証明」することはできません。殺人も強姦も明らかに「悪」なのですが、それが「悪」であると「証明」することは不可能なのです。

 ただし、「証明」はできないとしても、「殺人は悪である」「強姦は悪である」ということを信じることは自然なことです。「証明」はできなくても、十分に合理的であれば、そのことを受け入れることは普通のことなのです。それと同じように、神様の存在やキリスト教信仰の正しさについても、数学のように「証明」することはできないとしても、十分に合理的な根拠が揃っているならば、信じることは自然なことです。ですから、私たちがなすべきことは、「証明」ではなく「弁明」です。相手を論破することではなく、疑問や批判、時には誤解や偏見について、一つ一つ丁寧に答えていくことです。イエス様を信じて生きることは決しておかしなことではなく、むしろ十分に理性的で、合理的で、納得のいくことなのだということを、柔らかい言葉でお伝えしていくのです。

 様々な問いに答えられるように、準備をしていきたいと思います。「神は存在するのか?」とか、「この世界にはなぜ苦しみがあるのか?」などと尋ねられたら、皆さんはどのように答えるでしょうか。「難しいことは牧師に聞いてください」と言って、教会に連れて来るのも良いと思います。しかし、その人は牧師の話を聞きたいのではなくて、あなたの話を聞きたいのかもしれません。ぜひ、あなた自身の答えを身に着けていただきたいと思います。

 大切なことは、「柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明」することです。「恐れつつ」というのは、人をではなく、神様を恐れつつ、ということです。私たちの説明の上手い下手によってではなく、ただ神様だけが信仰を与えることができるからです。牧師も含めて、私たちにも分からないことがたくさんあり、答えることが難しい問いもあります。しかしそれでも一つずつ、つまずきの石を取り除いていくことができれば、最後には神様がその人に信仰を与えてくださる。そのことを信じ、神を恐れつつ、神の力にゆだねつつ、「弁明」という奉仕を続けていくのです。


キリスト教は人生に希望を与えるか?

 ここまで、二つの問いについて考えてきました。「キリスト教は倫理的に良いものか?」という問い、そして、「キリスト教は合理的に納得できるか?」という問いです。しかし、これだけで十分だとは思いません。倫理も合理性も大切です。でも、私たち人間が何よりも切実に求めているものは、人生の希望です。「自分はひとりぼっちだ」「自分が生きている意味なんてあるのだろうか」という問いが沸き起こってくる。布団に入れば、「明日が来なければいいのになあ」と思いながら眠りにつく。しかし目が覚めてしまって、「また一日が始まってしまう」という虚無感。どうせ最後にはみんな死ぬじゃないか。それなら今すぐ死んでも同じじゃないか。だからこそ人々は、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める」のです。

 私たちのうちにある「希望」とは何でしょうか。キリスト教が与える「希望」とは何でしょうか。ペテロはこの手紙の初めの部分で、次のように語っています。1章3節と4節をお読みします。


1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。
4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。

 神様が与えてくださった「希望」のことを、ペテロは「生ける望み」と呼びます。「生ける望み」があるとすれば、「死せる望み」もあるということでしょう。「死せる望み」とは何でしょうか。ある人は、「社会的に成功し、偉大なことを成し遂げ、人々から認められる」という「望み」を抱いています。そして、その「望み」が叶わなければ、「自分は誰よりも不幸な人間だ」と自己憐憫に陥ったり、「自分が成功できないのは誰々のせいだ」と攻撃的になったり、「人生をやり直せれば今度こそ成功できるはずだ」と空想にふけったりする。たしかに「望み」は持っているのです。しかしそれは、「生ける望み」ではない。人を生かす希望ではない。

 そのほかにも、「死せる望み」と言えるようなものは色々あると思います。たとえば、「自分が不幸なのは、結婚していないからだ。結婚さえすれば幸せになれる」という希望を持つ人もいます。しかしそう考える人の多くは、いざ実際に結婚すると、今度は結婚相手への不満を口にするのです。そして、別の希望を抱いてみたりする。「そうだ、自分が不幸なのは、お金がないからだ。お金さえあれば幸せになれるはずだ」という新しい望みを抱いて、ただでさえ少ないお金で一攫千金を狙ってみたり、ギャンブルに費やしてみたりする。

 もちろん、結婚もお金も大切なものです。結婚もお金も、私たちのために神様が与えてくださった大切な仕組みです。それらを求めること自体は悪いことではありません。しかし、それらを人生の「望み」にしてしまって良いのでしょうか。それならなぜ、不幸な結婚をする人があんなにも多いのでしょうか。なぜ、社会的に成功したはずの人々が、自ら命を絶ってしまうのでしょうか。幸せな結婚生活にだって、いつか必ず終わりが来ます。どれだけお金を集めたからと言って、どれだけ好きなものを買い揃えたからと言って、いつか必ず終わりが来ます。虚しいのです。

 しかし、イエス様とともに生きる人生には終わりがありません。「どうせ最後にはみんな死ぬじゃないか」と諦める必要はありません。イエス様は本当によみがえったのです。神様は本当に、死んだ人間をよみがえらせることができるのです。全能の神がともにいてくださり、私たちを愛してくださっているならば、私たちは何があっても、明るい将来を信じて生きていけます。

 もちろん、イエス様の復活という過去の出来事について、「証明」することはできません。でも、信じるに値する合理的な証拠ならたくさんあります。今からその話を始めたらあと30分くらいかかってしまうので、今日はお話しできませんけれども、皆さんにはぜひ、何よりもまず「イエスの復活は事実か?」というこの問いに答えられるように準備をしていただきたいと思います。イエス様がよみがえらなかったのなら、私たちもよみがえりません。しかし、イエス様がよみがえったのなら、私たちの将来には希望があります。キリスト教の希望は、この一点にかかっています。

 私たちクリスチャンの中にも、「生ける望み」ではない「望み」が入り込んでいないでしょうか。私たちはなぜ伝道をしたいのでしょうか。表向きには、「イエス様とともに生きる喜びを知ってほしいから」ということになるでしょう。しかし、「教会メンバーが増えれば、奉仕をする人も献金をする人も増えて助かるから」という下心が、本当にないと言えるでしょうか。もしくは、「周りの人たちがキリスト教を信じてくれれば、自分が信じてきたことが正しかったと思えるから」というような、何か社会的成功のようなものを求めてしまう屈折した思いが、心の何処かに潜んでいてもおかしくないのです。もしくは、周りの人にイエス様を伝えたいと言いながら、「実はこれ以上、教会に人が増えてほしくはない。この居心地の良い場所を失いたくない」という自己中心な思いがあって、実は伝道をしたいとは思っていない、ということさえあるかもしれません。

 このように私たちクリスチャンも、「生ける望み」ではない望みを持ってしまう存在である、ということを、まず素直に認めるところから始めたいと思います。下心の全くない伝道とか、屈折した思いのない完璧な奉仕みたいなものは、罪深い私たちには無理です。望むべきではないことを望んで、伝道や奉仕をしてしまうものです。しかし、そんな私たちさえ、神様が今日も新しく造り変え続けてくださいます。私たちの歪んだ望みを、「生ける望み」に変えてくださいます。そのように変えてくださることを、祈り求めたいと思います。歪んだ動機によってではなく、「生ける望み」によって、心から喜んで伝道ができるように、新しく変えられ続けたいと思います。

 人々は、完璧な人間には興味がありませんが、神様の力によって人の生き方が変えられていくという不思議な出来事には興味があります。「あの教会、なんか変わったよね」「前もまあまあよかったけど、前よりもっといい感じになったよね」と思われるなら、それは素晴らしいことです。「あの人たちはどうして変わったんだろう。あの人たちが変われるのなら、私も変われるのかもしれない。あの人たちが変われるのなら、神様は本当にいるのかもしれない」と思ってもらえるかもしれません。私たちのダメなところを知ってもらうことも含めて、伝道なのだと思います。肩の力を抜いていきましょう。深呼吸して、イエス様におゆだねしていきましょう。そして、今の自分にできることから始めていきましょう。イエス様と一緒に、教会の仲間たちと一緒に、希望を語るために、今日から少しずつ少しずつ備えをしてまいりましょう。お祈りをいたします。


祈り

 イエス・キリストを死者の中からよみがえらせ、私たちにも新しいいのちを与えてくださった、全能の父なる神様。私たち盛岡みなみ教会には、イエス様の弟子として相応しくないところがたくさんあります。どうかあなたの御力によって、私たちを新しく造り変え続けてください。私たち盛岡みなみ教会が、良い意味で自信を持って人に勧めることのできるような、「こんな教会だったら私も行ってみたい」と思ってもらえるような、温かい教会になっていくことができますように。そして、私たちの希望について説明を求められた時には、知恵深く、穏やかに、愛をもって弁明することができますように。どうか私たちに、隣人への愛と、謙遜に学び続ける心、そして全てをあなたにおゆだねする信仰を与えていてください。イエス様の御名でお祈りします。アーメン。