ルカ4:16-30「キリスト」(使徒信条⑦|宣愛師)
2025年4月13日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ルカの福音書』4章16-30節
4:16 それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。18 「主の霊がわたしの上にある。
貧しい人に良い知らせを伝えるため、
主はわたしに油を注ぎ、
わたしを遣わされた。
捕らわれ人には解放を、
目の見えない人には目の開かれることを告げ、
虐げられている人を自由の身とし、
19 主の恵みの年を告げるために。」20 イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。
21 イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」
22 人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。
23 そこでイエスは彼らに言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ』と言うでしょう。」
24 そしてこう言われた。「まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。
25 まことに、あなたがたに言います。エリヤの時代に、イスラエルに多くのやもめがいました。三年六か月の間、天が閉じられ、大飢饉が全地に起こったとき、
26 そのやもめたちのだれのところにもエリヤは遣わされず、シドンのツァレファテにいた、一人のやもめの女にだけ遣わされました。
27 また、預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました。」
28 これを聞くと、会堂にいた人たちはみな憤りに満たされ、
29 立ち上がってイエスを町の外に追い出した。そして町が建っていた丘の崖の縁まで連れて行き、そこから突き落とそうとした。
30 しかし、イエスは彼らのただ中を通り抜けて、去って行かれた。

「キリスト」:油注がれた者
使徒信条の学びの7回目となる本日は、「キリスト」という言葉について、ご一緒に学びたいと思います。皆さんは、「キリスト」という言葉の意味をご存知でしょうか。子どもたちに聞けば、「知ってるよ、イエス様の苗字でしょ」と答えるかもしれません。「知ってるよ、アメリカ人の名前って、名前が先で苗字が後なんでしょ」とも教えてくれるかもしれません。そこで私たちが優しく教えてあげたいことは、イエス様はアメリカ人ではなく、イスラエル人だということ。そして、「キリスト」というのはイエス様の苗字ではなく、イエス様のお仕事の名前だということです。
「油注がれた者」というのは、ヘブル語では「メシア」と言い、ギリシャ語では「キリスト」と言います。たとえば、イスラエルで新しい王様が選ばれた時、その王様の頭にオリーブ油が注がれました。また、人々の罪の赦しのためにお祈りをする祭司たちや、神様のことばを人々に語る預言者たちも、神様からの「油注ぎ」を受けました。このように、「王」「祭司」「預言者」という三つの務めを担う者たちは、「油注がれた者」、すなわち「メシア」「キリスト」と呼ばれました。
そのような中で、イスラエル人たちはやがて、特別な「メシア」、特別な「キリスト」を待ち望むようになりました。イスラエルを支配する外国人たちを打ち倒し、イスラエルを解放してくれる特別な王様。イスラエルの罪の赦しのために、偉大な祈りをささげてくれる特別な祭司。そして、イスラエルの救いという偉大な希望を力強く語ってくれる特別な預言者。これらの役割を兼ね備えた特別な「キリスト」が現れることを、イスラエルの人々は待ち望むようになったのです。
ですから彼らは、イエスと呼ばれるこの人が現れて、様々な町で奇跡を行い、人々の病を癒やし、悪霊に支配されている人を解放し、罪の赦しを宣言し、神のことばを力強く語り始めた時、本当にワクワクしたのです。「もしかしたら、このイエスという人がキリストなのかもしれない」という期待に胸を躍らせていたのです。ルカの福音書の4章16節から21節までをお読みします。
4:16 それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。18 「主の霊がわたしの上にある。
貧しい人に良い知らせを伝えるため、
主はわたしに油を注ぎ、
わたしを遣わされた。
捕らわれ人には解放を、
目の見えない人には目の開かれることを告げ、
虐げられている人を自由の身とし、
19 主の恵みの年を告げるために。」20 イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。
21 イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」
「油注がれた者」の役割は、「貧しい人に良い知らせを伝える」ことだと書かれています。「貧しい人」というのは、単にお金がない人のことだけではありません。ルカの福音書では特に、「貧しい人」とは、“社会から排除された人”のことを意味します。たとえば、クリスマスの記事に登場する羊飼いたちは、安息日などのルールが守れないせいで、社会的・宗教的に“排除された人々”でした。また、取税人のザアカイという人は、お金持ちではありましたが、外国人のために税金を集める仕事だということで、イスラエルの人々から嫌われ、“排除された人”でした。そのほかにも、目や耳や身体に障がいを持っている方々も、社会から“排除された人々”でした。
つまり、「捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを」と語るイザヤの言葉は、様々な理由で社会から排除されてしまった人々を、神様が必ず受け入れてくださるという、喜びのメッセージだったのです。たとえ、この世界があなたを受け入れなかったとしても、神様だけは受け入れてくださるという、喜びの「良い知らせ」だったのです。
期待外れのキリスト、怒り狂う人々
ですからナザレの村の人々は、「ついにキリストが現れたのかもしれない。しかも、自分たちの村から現れたのかもしれない」という驚きと喜びに溢れていたのです。22節をお読みします。
22 人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。
「この人はヨセフの子ではないか」という言葉は、「ヨセフの息子のくせに偉そうなことを言いやがって」という意味にも解釈できますが、「おれたちが昔からよく知ってるあのヨセフの息子がキリストなのだとしたら、こんなにありがたいことはない!おれたちの村からキリストさまが現れるなんて素晴らしい!」という意味にも理解できます。実際、このあとイエス様がお語りになった言葉は、そんな人々の期待感について語るものでした。23節。
23 そこでイエスは彼らに言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ』と言うでしょう。」
イエス様のこの言葉は、こういう風に言い換えることもできると思います。「あなたがたは、自分たちの村からキリストが現れたなら、自分たちが特別に祝福してもらえるはずだとでも思っているのでしょう。しかし、それは大きな勘違いです。」そしてイエス様は、ナザレの人々が予想もしていなかった、驚くべきことをお語りになるのです。24節から27節まで。
24 そしてこう言われた。「まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。
25 まことに、あなたがたに言います。エリヤの時代に、イスラエルに多くのやもめがいました。三年六か月の間、天が閉じられ、大飢饉が全地に起こったとき、
26 そのやもめたちのだれのところにもエリヤは遣わされず、シドンのツァレファテにいた、一人のやもめの女にだけ遣わされました。
27 また、預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました。」
ナザレの人々に限らず、イスラエル人たちは皆、「キリストが現れたなら、おれたちイスラエル人が最高の祝福を受けられる」と信じていました。ところが、イエス様は言うのです。「エリヤの時代にも、エリシャの時代にも、イスラエルの神は、イスラエル人を助けるのではなく、むしろ外国人たちをお助けになったじゃないか。あなたたちは何か勘違いしていないか? イスラエルの神とはどういうお方なのか、主の恵みとはどういうものなのか、勘違いしていないか?」
イエス様のこの衝撃的な発言を聞いて、ナザレの人々は怒り狂います。28節から30節。
28 これを聞くと、会堂にいた人たちはみな憤りに満たされ、
29 立ち上がってイエスを町の外に追い出した。そして町が建っていた丘の崖の縁まで連れて行き、そこから突き落とそうとした。
30 しかし、イエスは彼らのただ中を通り抜けて、去って行かれた。
イスラエルが待ち望んでいたのは、“イスラエルを救ってくれるキリスト”でした。しかし、彼らの目の前に現れたキリストは、イスラエルのためにではなく、むしろ、イスラエルが排除していた人々のために遣わされたと言うのです。「ふざけるな!こんなことを言う奴はキリストではない!救われるべきは私たちであって、あの汚れた外国人たちではない!救われるべきは私たちであって、あんな罪人たちではない!」
あなたが受け入れたくない人も受け入れてしまうキリスト
私たちクリスチャンはどうでしょうか。イエス様を信じている自分たちは救われ、イエス様を信じなかったあの人たちは救われない、と思っているかもしれません。たしかに聖書は、「この方〔イエス・キリスト〕以外には、だれによっても救いはありません」(使徒4:12)とはっきり語ります。しかし、「この方以外には、だれによっても救いはありません」と言われる「この方」、すなわち「イエス・キリスト」というお方は、「自分たちこそが救いにふさわしい」と思い込んでいるような人々のためにではなく、むしろ、「こんな奴らは救われない」と決めつけられ、排除されているような人々のために来られたのだということを、決して忘れてはいけないと思うのです。
私たちは、イエス様がいつの日か再びこの世界に来られて、すべての人をよみがえらせ、すべての人の罪をさばくと信じています。その時、もしかするとイエス様は、「さすがにあんな人たちは救われないだろう」と私たちが思っているような人を、お救いになるかもしれません。それを見て、私たちは怒り出すかもしれません。「いやいやイエス様、話が違うじゃないですか。イエス様を信じる人は救われるって聞いたから、私はクリスチャンとして頑張ってきたんですよ。それなのにあんな人をお救いになるなんて!洗礼を受けたわけでもない、教会に毎週通っていたわけでもない、真面目に生きていたわけでもない、あんな人をお救いになるなんて、話が違うじゃないですか!おかしいじゃないですか!」でも、もし私たちがそんなふうに考えてしまうのだとしたら、私たちもどこかで、「主の恵み」というものについて、深刻な誤解をしているのだと思います。
今日から始まる一週間は、「受難週」です。イエス様の十字架の苦しみに思いを馳せ、その苦しみが私たちの罪のためであったことを深く受け止める一週間です。もちろん、今日の聖書箇所はルカの福音書の4章で、どちらかと言えば序盤ですから、十字架の場面とは程遠い箇所です。しかし、この4章の出来事からすでに、イエス様の十字架の苦しみは始まっていたとも言えます。ここにはすでに、イエス様を殺してしまうほどに根深い人間の罪が現れています。この罪を一言で表すとすれば、それは、“自分たちが排除したい人々を受け入れてしまうキリストを排除する罪”です。自分たちが受け入れたくない人たちを勝手に受け入れ、勝手に赦し、勝手に救ってしまうキリストが気に食わないのです。そんな奴はキリストではないと怒って追放し、殺そうとするのです。
“自分たちが排除したい人々を受け入れてしまうキリストを排除する罪”を捨てることができなければ、やがて私たちは、自分自身のことをも排除することになってしまいます。「こんな自分は神様の救いを頂くに相応しくない」「こんな自分のことを神様が愛してくださるはずはない」と決めつけてしまう。ちゃんと教会に行けない自分、ちゃんと祈ることができない自分、そういう自分はクリスチャンとして相応しくない、クリスチャン失格だと、自分で自分をキリストの救いから“排除”してしまう。しかし、そのようして自分自身を断罪する私たちはきっと、自分がちゃんと教会に行けていた時には、ちゃんと祈れていた時には、ちゃんとした生き方ができていた時には、それができない誰かを心のどこかで見下し、排除していた私たちであるに違いないのです。自分なりの基準を作って、規範意識にこだわって、「ああいう人は神の恵みにふさわしくない」と決めつけ、神の家族として愛し合うことを拒み、心のどこかで見下していたはずなのです。
30節には、イエス様が「去って行かれた」と書かれています。少なくとも福音書には、イエス様が再びナザレに戻って来られた、という記録はありません。彼らはキリストを失ったのです。当然です。自業自得でしょう。ところが、それでもイエス様は、彼らを見捨てたわけではなかった。ナザレを去ったイエス様は、十字架への道を歩んでいきます。そして、ついに十字架につけられたその時、イエス様は次のように祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34)。この方は、自らを殺そうとした人々のためにさえ、赦しを祈ったというのです。この祈りは、ナザレの人々のためにも祈られた祈りだったに違いないと思います。どうしてこんな祈りができるのでしょうか。どうしてこんなにもあわれみ深い祈りがささげられるのでしょうか。それはこの方が、この世界のすべての罪を赦すために、神によって油を注がれた、唯一まことの大祭司だからです。
皆さんにもぜひ、このキリストを受け入れていただきたいと思います。このキリストに従う生き方、すなわち「キリスト者」と呼ばれる生き方をしていただきたいと思います。「キリスト者」になるための条件は、たった一つです。イエス・キリストを受け入れること、これだけです。もっと正確に言うならば、「キリスト者」になるために唯一必要な条件は、“あなたが受け入れたくない人も受け入れてしまうキリスト”を受け入れること、これだけです。どうしてキリスト教が、「イエス・キリストを信じるだけで救われる」という、あまりにも単純すぎることを教えているのか、お分かりいただけると思います。「われはイエス・キリストを信ず」と告白するだけ。このあまりにも単純なことが、自己中心で排他的な私たちにはあまりにも難しいのです。しかし、このたった一つの信仰だけで、私たちの全ての罪は赦され、神の民の一員として迎え入れていただけるのです。このキリストを受け入れるのか、それとも別のキリストを待ち望むのか。これが全てです。このことを今一度、私たちの人生に与えられた最重要課題として見つめ直し、祈りつつ考える、そのような受難週の七日間を過ごしてまいりたいと思います。お祈りをいたします。
祈り
私たちの父なる神様。どうしても受け入れられない人たちがいます。どうしても赦せない人たちがいます。その人たちのことも、イエス・キリストは赦してしまうでしょうか。そうだとすれば、キリストを信じることはあまりにも難しいことのように思えます。しかし、私自身が向き合わなければならない問題は、そこにしかないようにも思います。どうか、イエス・キリストを信じ、この方を受け入れることができるように、聖なる霊の助けをお与えください。キリストを受け入れられない頑ななこの心を、柔らかな心に造り変えてください。どうかこの私をキリスト者として、キリストの教会の一員として、新しく造り変えてください。御名によって祈ります。アーメン。