No.157【「殉教の覚悟がないのに、洗礼を受けてもいいの?」】

◆教会の青年たちとカレーを作って食べていたら、こんな話になりました。「いざという時、イエス様のために死ぬ覚悟がないのに、洗礼を受けてもいいのだろうか?」ある青年は、「自分が洗礼を受けた時はそこまで考えてなかった」と話してくれました。僕も同感でした。

◆「イエス様を裏切るくらいなら、最初から洗礼なんて受けるべきではない」という考え方も大切でしょう。しかし、「裏切らないほど強い信仰を持つ人だけが洗礼を受けるべきだ」というのも違うはずです。なぜなら、“洗礼を受ける”ことは、教会の一員として“聖餐に与る”ことであり、“聖餐”とは、〈これから主を裏切ることになる弟子たちのために、主があらかじめ定めてくださった和解の食卓〉だからです。“裏切り者”の帰りを待つための食卓なのです。

◆洗礼を受けるとしても受けないとしても、日々罪を犯して主を悲しませることには変わりありません。それなら、悲しませっぱなしの人生よりも、何度でもあの食卓に帰り続ける人生のほうが、主は喜んでくださるのではないでしょうか。「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」(マタイ26:27)