第一コリント15:50-58「無駄でないと言える人生」(宣愛師)

2025年4月20日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『コリント人への手紙 第一』15章50-58節


15:50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。 

  「死は勝利に吞み込まれた。」
55  「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。
   死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」

56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。57 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。



「朽ちるべきものが、朽ちないものを」

 「イースターおめでとうございます」と私たちは互いに挨拶を交わします。しかし、よく考えてみると、一体何が「おめでとう」なのでしょうか。「イエス様、復活できてよかったですね!」ということなのでしょうか。もちろんそれはめでたいことです。しかし、ただ単にイエス様が復活して、「よかったですね」ということではないはずです。なぜ、イエス様に向かってだけでなく、お互いに、「イースターおめでとうございます」と言い合うのでしょうか。それは、イエス・キリストが復活された、この事実によって、私たちのこの平凡な毎日に、永遠の価値が与えられたからです。私たちのこの平凡な毎日が、永遠の意味を持っているということが明らかになったからです。

 今日私たちが開いている第一コリント15章は、復活という希望について、すなわち、私たちの永遠の希望について、聖書の中で最も詳しく書かれている箇所の一つです。今日はこの15章の最後の部分をご一緒に味わいたいと思っています。まずは50節から53節をお読みします。


15:50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。

 コリント教会の中には、「死者の復活はない」(15:13)と主張する人たちがいました。どうして彼らは、クリスチャンであるはずなのに、「死者の復活はない」と主張したのでしょうか。それは彼らが、「魂が天国に行くことこそが救いだ」と考えていたからです。「復活なんて必要ない。ただ魂が天国に行ければそれでいい」と考えていたからです。皆さんももしかすると、「復活なんてしなくても、天国に行ければ、それだけでいいんだけどなあ」とお考えになるかもしれません。

 また、コリント教会の中には、「自分たちはすでに完全なものとなっている」と主張する人々もいました。「私たちは身体も健康だし、社会的成功も手にしているし、何にも不自由していない。だから、復活なんて必要はない。私たちは今の私たちのままで、神の国を相続する資格がある」と考えていました。そんな彼らは、教会の中にいる病気の人たちや貧しい人たちを「不完全な存在」として見下すこともありました。

 そんな彼らに対してパウロが書き送ったのが、この手紙です。なぜ「魂が天国に行くこと」ではなくて、「復活」が必要なのか。「完全さ」とは何なのか。パウロはコリント教会の人々に語りかけます。「あなたがたはまだ、血肉のからだ、不完全なからだ、弱いからだしか持っていない。血肉のからだは神の国を相続できない。朽ちるものは、朽ちないものを相続できない。あなたがたは、神の復活の力によって新しくしていただかなければ、神の国を相続することはできない。」

 「神の国」というのは、私たちの魂がふわふわと浮かんで旅立った先にあるような、この世界と全く別世界のような場所ではありません。「神の国」というのは、神様がお造りになったこの宇宙、この地球を、神様がもう一度素晴らしい世界に造り変えてくださる、ということです。当たり前のことですが、神様がお造りになったこの美しい地球に住むことができるのは、身体を持った存在だけです。もし身体がなければ、美味しい食べ物を食べたり、美しい作品を作ったり、動物たちと戯れたり、ボールを蹴ったりすることはできません。再びイエス様がこの世界に来られる時、イエス様はこの世界を新しい世界に造り変えてくださいます。その時、もし私たちが魂だけで、身体を持たなかったら、新しい世界に住むことはできないのです。しかも、ただの身体ではダメです。「血肉のからだ」ではダメです。新しい身体を与えていただく必要があるのです。

 パウロは51節で、「私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます」と語ります。「みな眠るわけではありませんが」というのは、イエス様が再びこの世界に来られるその時、まだ生きている人もいる、ということです。その時まだ生きている人も、すでに死んでいた人たちも、みなが新しい身体に変えられる、新しい身体によみがえる、新しい身体を着せていただく。それは逆に言えば、今の私たちの身体がどんなにボロボロでも大丈夫だ、ということです。

 皆さんもコリント教会の人々のように、「自分はもうすでに完全だ」と思っているでしょうか。それとも、「自分は不完全で、神の国にふさわしくない」と思うでしょうか。不完全な身体というのは、病気があるとか、年老いているとか、そういうことだけではありません。人に優しくしようと思っても、八つ当たりしてしまう私たちの弱い身体。困っている人に寄り添おうと思っても、苦しみに共感することができない冷たい頭。何か良いことのために人生を使いたいと思うのに、それほど重要ではないことのために時間を浪費してしまう意思の弱さ。しかし、そんな私たちの弱い身体も、この血肉の身体も、新しい身体に変えていただけるのです。イエス様の復活の力によって、朽ちない身体、新しい身体を頂けるのです。神の国にふさわしい人間になれるのです。


「どうせ、明日は死ぬのだから」

 54節から57節をお読みします。


54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。 

  「死は勝利に吞み込まれた。」
55  「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。
   死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」

56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
57 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

 パウロがここで語っているのは、「死という現実とうまく付き合っていきましょう」ということではありません。「死のおかげで人生の尊さが分かるよね」とか、「死は天国への入口だから感謝して受け入れよう」ということではありません。そのように考える宗教や哲学はあります。たとえば仏教では、「死」というのは何も特別なものではなく、移りゆくこの世界の自然現象に過ぎないので、そもそも死ぬとか生きるとかいうことを気にすることのほうが問題だ、と考えます。仏教のこのような考え方は、ギリシャ哲学にも近い考え方で、コリントの町にも広まっていたものです。

 しかしパウロは、「死とうまく付き合っていきましょう」ではなく、「死は勝利に吞み込まれた」と語るのです。「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか」と語るのです。イエス・キリストを信じる私たちにとって、「死」という現実は、すべてを諦めて受け入れるしかないようなものではありません。イエス様が本当によみがえられたなら、「死」は敗北し始めている。この美しい地球から、「死」が消え去るその日が近づいている。パウロは言います。「神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」

 56節にある、「罪の力は律法です」というのは、律法によって私たちの罪が明らかになってしまう、ということです。律法というのは本来、それを守って生きられればいのちの祝福を受けることができるが、それを守らなければ死んでしまう、というものです。つまり、律法そのものは悪いものではなく、むしろ私たちに良い生き方を示し、どうすれば私たちが幸せに生きることができるかを教えてくれるものです。しかし、私たちはこの律法を守ることができず、互いに互いを傷つけるような生き方しかできず、むしろ律法によってますます私たち自身の罪が明らかにされてしまう。律法によって、私たちが死ぬべき罪深い存在だということが明らかになってしまうのです。

 では、「死のとげは罪であり」とはどういうことでしょうか。「とげ」という言葉は、サソリの尻尾についている毒針のようなものです。死というサソリが、罪という毒針で人間を刺すと、人間は罪という病気にかかり、そのまま死んでしまう。パウロのほかの手紙を読んでみると、「すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった」(ローマ5:12)と書かれています。まず「罪」があって、その結果として「死」が広がった、というわけです。しかし、パウロがこのコリント教会への手紙の中で語ったのは、「罪のとげは死」ではなくて、「死のとげは罪」です。ですから、少なくともこの手紙の中でパウロが言いたかったことは、「罪を犯したことによって人間は死ぬ」ということだけではなくて、むしろ、「死という現実によって人間は罪を犯す」ということだったのではないでしょうか。15章32節には次のように書かれています。


15:32b もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。

 「どうせ、明日は死ぬのだから」と考えてしまうと、真面目に生きる気力を無くしてしまう。良いことのために働く気力も、将来のために勉強する気力もなくなってしまう。今さら何かを頑張ってみても、どうせ最後には死んでしまうじゃないか。誰かに優しくしたいと思っても、どうせその人も最後には死んでしまうじゃないか。何かこの世界のために良いことをしようと思っても、最後にはこの世界も消え去ってしまうじゃないか。だとしたら、食べたり飲んだりして今を楽しむか、もしくは、すべてを諦めて死を選ぶか、そのくらいしかやることがないじゃないか。


「永遠に生きるかのように」

 しかしそれは逆に言えば、もし私たちが、「永遠に生きる」という希望を手に入れたなら、「死んで終わりではない」という希望を手に入れたなら、今日を生きる気力も湧いてくる、ということなのではないでしょうか。イエス様の復活によって、「死のとげ」がへし折られたのならば、私たちはもはや「罪」に支配される必要はないはずです。58節をお読みします。


58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。

 なぜパウロは、「主にあって無駄でない」と言えたのでしょうか。なぜパウロは、食べたり飲んだりして楽しむだけの人生ではなく、「主にあって無駄でない」人生があると断言できたのでしょうか。それは、主イエスが復活されたことによって、今の世界における私たちの働きが、私たちの学びが、私たちの愛が、新しい世界にも確実につながっているということが明らかになったからです。今の世界で私たちが作ったもの、学んだこと、経験したことが、神の御心にかなったものであるなら、それは新しい世界にも何らかの形でつながっていくということが分かったのです。だから、「主にあって無駄でないことを知っている」とパウロは断言することができたのです。

 KGKで関わっているある学生が、こんな不満をぶつけてくれました。「天国に行ったら、天使たちと一緒に賛美歌を歌い続けるだけなんて、そんな生活、自分には耐えられない!それが天国なのだとしたら、今の世界のほうがよっぽど充実していて楽しい!」たしかに、「天国」と聞くと、なにかふわふわした雲の上みたいな場所で、ハープなんかを演奏している天使たちと一緒に「ハレルヤ」と歌い続けている、そんなイメージを持つかもしれません。しかし、聖書が語る「神の国」というのは、そんな単調で退屈な世界ではないのです。新しい世界は、讃美歌を歌い続けるだけの絵本みたいな世界ではなくて、むしろ今の世界にある美しい自然や、やりがいのある仕事や、楽しくて仕方がない趣味が、今の世界よりももっと素晴らしい形で残っているような世界です。

 新しい世界では、科学的進歩も、哲学的探究も、環境保護のための努力も、すべてが残ります。私たちがそれぞれ、学校や仕事や趣味を通して得た経験も、それが神の国のために良いものだとイエス様が受け入れてくださるならば、すべてが残ります。今の世界で絵の練習をしておけば、新しい世界では今以上に楽しく絵が描けるでしょう。スポーツを覚えておけば、新しい世界では世界中の人たちとスポーツを楽しむこともできるでしょう。科学的探求の方法を学んでおけば、新しい世界ではもっと興味深くて新しい発見の数々が待っていることでしょう。

 神の国を待ち望む私たちにとって、「今さら何をやっても無駄だ」ということはあり得ません。今さら何か勉強を始めてみたって、今さら何かを頑張ってみたって、どうせもう間に合わない、もう遅すぎると諦める必要はないのです。「天国には何も持っていけない」というのは嘘です。新しい世界が本当に来るのだとしたら、今日私たちがたった一つでも学んだことは、永遠の世界に持っていくことができます。今日私たちが誰かに一つでも感謝を伝えるならば、新しい世界でその人と再び出会った時、「その節はどうも」と楽しい会話をすることだってできるのです。

 ガンジーが残したとされる、有名な言葉があります。「明日死ぬかのように生きなさい。永遠に生きるかのように学びなさい。」非常に味わい深い言葉で、このまま受け取る価値のある言葉ですが、この言葉をパウロ風に言い換えるとすれば、次のようになるのではないかと思います。「明日主イエスが来られても良いように生きなさい。永遠の世界に備えて学びなさい。」

 私たちは、無駄になるものと無駄にならないものを見分けられるようになりたいと思います。そのために聖書を学び続けたいと思います。今まで価値があると思い込んでいたものに、実は大した価値がなかったと気づくかもしれません。今まではそんなに価値がないと思い込んでいたものに、実は永遠の価値があると気づくかもしれません。イエス・キリストの復活は、私たちの日々の労苦にも、学校での学びにも、家庭での働きにも、永遠の価値を与えてくださいました。私たちが日々行う環境へのささやかな配慮にも、道端でのさりげない挨拶にも、人と比較すれば大したことがないように思える毎日にも、永遠の意味を与えてくださいました。だから、イースターおめでとうございます!私たちの平凡な毎日、おめでとうございます!今日こうして皆さんと出会えていることも、午後の食事の交わりも、音楽やクイズの楽しい出し物の時間も、主の復活の希望によって、永遠の価値があります。この幸いな一日を、皆さんとご一緒に心から喜び祝いたいと思います。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。復活の力によって、私たちの人生は明るくなりました。イエス様が復活してくださったことで、今まではそれほど意味がないと思っていた一つ一つのことに、実は意味がありすぎて、何から手を付けていいのか分からないほどです。永遠に生きるかのように、いや、本当に永遠に生きることができる者として、どんなに小さな経験だとしても、どんなに小さな出会いだとしても、どんなに小さな愛だとしても、大切にすることができますように。イースターの恵みを心から感謝します。イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン。