ヨハネ5:41-47「神からの栄誉」(まなか師)

2025年4月27日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』5章41-47節


41 わたしは人からの栄誉は受けません。
42 しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。
43 わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。
44 互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。
45 わたしが、父の前にあなたがたを訴えると思ってはなりません。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。
46 もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。
47 しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか。」



「人からの栄誉」と「神への愛」

 この朝も、愛する兄弟姉妹の皆さんと共に、みことばに聴くことのできる幸いを覚えます。お一人お一人の上に、神様の祝福がありますように。

 昔の私の話を少しお分かちしたいと思います。学生時代に、KGKのキャンプの準備をしたことがありました。当時の私はいま以上にもっと未熟で、若さゆえの極端なところもありました。キャンプの最終日に、準備委員を労うサプライズが用意されていて、キャンプ参加者みんなからの寄せ書きをプレゼントしてもらい、「ありがとう」とたくさん声をかけてもらいました。実はそのときの私は「人からの称賛は受けない!」と固く決意していまして、本当は「ありがとう」と言われれば内心うれしいし、頑張ってよかったなと思うけれども、決して喜んではいけないと自分に言い聞かせていました。キャンプの後で、先輩にそのことを話したら、「人からの称賛も感謝も、素直に受け取っていいんじゃないかなあ」と言われました。そのときは、神様以外からほめられていいだなんて、そんな妥協した信仰でいいんだろうか、と反発する思いもありましたが、いま思えば、「人からの称賛は受けない!」という頑なさは、むしろ、人からの称賛を意識していたからこそのものだったなと思います。

 実際のところ、「人から認められたい」「価値のある存在として認められたい」という願いは、人間の基本的な欲求です。それ自体が悪いものだということではありません。ただし、この欲求は厄介です。自分でも気付かないところで、「人からどう思われるか」「人から認めてもらえるか」が、自分の言動の基準となってしまうからです。それが私たちの現実だと思います。

 一方で、イエス様は41節で、このようにはっきりと仰りました。


41 わたしは人からの栄誉は受けません。

 人からの栄誉を受けないとは、どういうことなのでしょうか。私たちはどうすれば、イエス様のように、人からの栄誉を受けない生き方ができるのでしょうか。

 続く42節で、イエス様は次のようにおっしゃいます。


42 しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。

 イエス様がここで「あなたがた」と呼んでおられるのは、ユダヤ教の指導者たちです。5章の前半で、イエス様が安息日に足の不自由な人を癒やしたので、彼らはイエス様を迫害し始めました。彼らのルールでは、安息日には人を助けることもしてはいけなかったからです。旧約聖書のモーセの律法に違反した、非常にけしからん人物として、イエス様は彼らから目をつけられたわけです。

 こう聞くと私たちは、彼らが冷酷で、頭でっかちで、人の心というものを持たないような権力者だと思ってしまいます。けれども、彼らは非常に熱心に聖書を読み、神様の教えを守ろうとした人たちでもありました。私が今回説教を準備する中で、最初に引っかかったことは、彼らこそ「神への愛」を持ち、「神からの栄誉」を何よりも求めた人たちではなかったのか、ということです。39節にはこうありました。


39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。

 彼らは、彼らなりに一生懸命に、永遠のいのちを得ようと思って、聖書を調べていました。その熱心さでは、右に並ぶ者はいなかったのです。そんな彼らの姿は「神への愛」にあふれた姿であり、「神からの栄誉」を求めていると言ってよいと思うのです。けれどもイエス様は、「あなたがたのうちに神への愛がない」と痛烈に批判なさった。

 イエス様のこの言葉に対して、彼らは次のように反論したくなったはずです。「私たちに神への愛がないだと? 安息日のルールを堂々と破るお前なんかよりも、私たちのほうが神への愛があるに決まっているだろう!」

 彼らの問題点は、「神への愛」によって生きているつもりで、実は別のものを求めて生きてしまっているということでした。彼らの問題は私たちの問題と重なります。自分では「神への愛」を持っているつもりでも、本当のところ、私たちの心の中にはもっと別のものがある。そんな私たちの現実を、イエス様は鋭く指摘されるわけです。


「神からの栄誉」

 43節と44節はいったん飛ばして、45節から47節までをお読みします。


45 わたしが、父の前にあなたがたを訴えると思ってはなりません。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。
46 もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。
47 しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか。」

 安息日に病人を癒やしたイエス様と、安息日に病人を癒やすことを禁じた指導者たちと、どちらが正しかったのでしょうか。指導者たちは、自分たちこそが正しい、自分たちこそがモーセの律法を守っていると信じていました。しかしイエス様は、「そのモーセの律法こそが、わたしの正しさを証明し、あなたがたの間違いを指摘するだろう」と言われました。とはいえ、彼らは、一生懸命にモーセの律法を読んでいたはずです。それなのに、彼らは何を間違えていたというのでしょうか。なぜ彼らは、モーセの律法を熱心に読んでいたはずなのに、イエス様を受け入れることができなかったのでしょうか。

 43節と44節をお読みします。


43 わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。
44 互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。

 43節の「名によって」という表現は、「代理人として」という意味です。イエス様は、父なる神様の名前によって、つまり、父なる神様の代理人として来られたわけです。一方で、「ほかの人」つまり偽物の救い主たちは、「その人自身の名で」つまり「自分自身の代理人として」やって来る。自分自身が言いたいこと、やりたいことをやる。たとえば、ユダヤ人たちの中には、実際に自分の主義主張を持った偽キリストがたくさん現れました。そして、そういう偽キリストのほうが人気があり、たくさんの人々から受け入れられていました。

 イエス様は、自分の主義主張のためにではなく、父なる神様のために働いておられました。もしイエス様が、安息日の律法を守るためという理由で、病気の人を癒やすことをやめていたならば、「律法を守る忠実なユダヤ人」として人々から称賛されていたはずです。「なんて立派な人だろう」と尊敬され、みんなから受け入れられていたはずです。しかしイエス様は、ただ神様の御心を成し遂げるために、人から何と思われようとも、苦しむ人を助けることを選ばれました。

 人からの栄誉を受けること、それ自体が悪いことだというわけではありません。しかし、人からの栄誉を気にするあまりに、神様の御心を後回しにしたり、なすべきことから逃げてしまうなら、私たちは罪を犯すことになります。

 今日の午後には、「礼拝奉仕者ミーティング」が行われる予定です。その中では「奉仕」とは何かということも改めて学ぶことができたらと願っています。

 教会で私たちは、神様のために熱心に奉仕します。周りの人たちにも親切にします。教会では、神様を愛している者として過ごすことができるでしょう。クリスチャンらしい言葉を使い、クリスチャンらしい振る舞いをすることもできます。それでも私たちは、はたと我に返り、気付く瞬間があります。自分の中には本当のところ「神への愛」なんてものはない。神様を愛してなどいない。むしろ自分自身を愛しているだけではないか。そのことにうっすら気付きながらも、でも、神への愛がないなんて周りに知られたくない。だから、あたかも信仰深くあるかのように取り繕って生きる。ますますクリスチャンらしい言葉を使い、クリスチャンらしい振る舞いをし、神への愛がないなんてバレないように気をつける。そんなふうにして、いつの間にか、「神からの栄誉」よりも「人からの栄誉」を求めるという事態に陥ってしまう。

 結局のところ私たちは、神様からの栄誉を求めているように見えながら、実は人からの栄誉を気にしているのです。そして、人からの栄誉を気にしている私たちのうちには、実は「神への愛」がない。神様が喜んでくださる奉仕をすることよりも、人からよく思われるにはどう振る舞えばいいかを気にしている。そんなことが起こり得るわけです。そこには、「人から認められたい」という私たちの欲求が隠れています。ただ、もし人から認められたとしても、私たちは決して満足することがありません。「存在を認められたい」という私たちの欲求は底なし沼です。その欲求によって、どんなに聖書を熱心に読んでも、読み違えてしまう。自分たちを肯定し、認めてくれるような聖書の読み方しかできなくなってしまう。

 でも、「誰かから認められたい」という、底なし沼の欲求は、私たちを第三の道に連れて行ってくれることがあります。それは、神の前で悔い改めるという道です。私は誰かに認めてほしくて、良く思われたくて必死だったのだ、「神への愛」なんて自分のうちにはないのだと、正直に告白する道です。

 私たちは普段、誰かを傷つけてしまったり、神様以外のものに頼ったりすると、「ああ、また失敗してしまった」と落ち込みます。でもそこには、「いつもはそれなりにいい感じに生きている自分が、ちょっと間違いを犯してしまった」というような思いがないでしょうか。聖書はそうは言っていません。むしろ聖書はこう断言します。「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか」(エレ17:9a)。私たちの心はもともとねじ曲がっていて、神には向かっていかない。だから、ちょっと気が緩んでこんな罪を犯してしまった、というわけではないのです。少し油断してしまって誘惑に負けた、ということではないのです。そもそも、心が神様に向いていないのですから、どうしたって「神への愛」は私たちのうちに一ミリもないわけです。私は神様を愛してなどいない。むしろ自分自身を愛している。人からの栄誉を求め続けている。この、自分の本当の姿に気付くということ、そしてそのありのままの姿から目をそらさないことこそ、神様が私たちに願っておられることです。

 私たちが悔い改めて、イエス様のように、「わたしは人からの栄誉は受けません」と心から言えるようになるなら、そして自分自身の名によってではなく、神様の名によって生きることができるようになるなら、「人から認められたい」という私たちの欲求は、神様から認めていただけるということによって、本当の満足を得ます。

 人のまなざしから解放され、神のまなざしの中に置かれると、私たちはとても自由になります。一般的に、自由な人は自分本位だと思われがちです。人からの評価にこだわらなくなると、勝手気ままにふるまい、自分のことばかりで、他者を遠ざけるような、自分中心な人間になってしまうのではないか、と思われています。でも、人からの栄誉を気にしないということは、傍若無人にふるまうということではありません。人と関わることをやめるということでもありません。人からの栄誉を気にしなかったイエス様は、人からの栄誉を気にしないからこそ、安息日にも堂々と病気の人を癒やしました。人にどう思われるかではなく、父の御心のままに働いていました。父の御心を行うイエス様のお姿は、ユダヤ人から見れば自由すぎました。安息日だろうがなんだろうが関係なく、苦しんでいる人を助ける。誰に誉められようが咎められようが関係なく、苦しんでいる人を救う。同じように私たちも、人から誉められても誉められなくても、神が喜ばれることを行う自由を与えられているのです。神からの栄誉を求めていくことができるのです。

 聖書は自分を肯定してくれるだけのものではありません。むしろ、たびたび私たちに悔い改めを促すものです。心を根本から変えていただきなさいと迫ってくるものです。ねじ曲がった心は、イエス様に大規模な工事をしていただかなければ、神に向かわないからです。神を愛することができないからです。神の心と一つになれないからです。

 ユダヤ人たちのように、自分を認めてくれるものとして、聖書を用いないようにしたいと思います。むしろ、聖書によって、私たちの罪はあらわになる。しかし、罪があらわになればなるほど、イエス様の恵みによってますます生き方を変えていただく。神の御心と私たちの心が一つにされていく。神の代理人としての自由を生きていく。人からの栄誉ではなく、神からの栄誉を求めて生きていく。その歩みをともにしていく、盛岡みなみ教会でありたいと願います。お祈りをいたします。


祈り

イエス・キリストの父なる神様。人からの栄誉ばかり求めている私たちです。神様を愛していると言いながら、人から認められ、人から愛されることばかりを求めてしまいます。どうか、私たちのねじ曲がった心を、癒やしてください。あなたの御心のままにつくり変えてください。盛岡みなみ教会が、あなたの代理人として、あなたの御心を行う自由をますます頂くことができますように。神からの栄誉を求めて歩んでいけますように。どうぞお導きください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。