ルカ1:26-38「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ」(使徒信条⑧|宣愛師)

2025年5月4日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ルカの福音書』1章26-38節


26さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
27この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。
28御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
30すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
31見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
32その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
33彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
34マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
35御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。
36見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
37神にとって不可能なことは何もありません。」
38マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。



第一の主張:「処女が妊娠するなんて科学的に信じられない」?

 使徒信条の説教の8回目となる本日は、「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ」という信仰告白について、ご一緒に学びたいと思います。「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ」。“キリストの処女降誕”とか“処女懐胎”と呼ばれる事柄です。男性との性的な結びつきなしに、一人の処女が妊娠した。そんなことがあり得るのでしょうか。「嘘だ、そんなことは信じられない」と、多くの人によって疑われ続けてきました。皆さんはどうお考えでしょうか。

 “キリストの処女懐胎”が疑われている理由は、大きく分けて三つあります。まず第一に、「処女が妊娠するなんて科学的にあり得ない」と主張する人たちがいます。現代人の多くはこの立場に立つでしょう。その一方で、科学的な観点とは全く別の理由から、イエス様の“処女懐胎”を否定する人たちもいました。彼らは、「イエスのような貧しい人間に奇跡的な誕生は相応しくない」と主張します。そしてさらに別の観点から、イエス様の“処女懐胎”を疑う人々もいました。彼らは、「聖なる神の御子が物質的肉体を持つはずがない」と主張しました。本日は、これら三つの主張に順番に答えながら、この信仰告白に込められた意味をご一緒に味わいたいと思っています。

 まずは一つ目から見ていきましょう。「処女が妊娠するなんて科学的にあり得ない。」人間の精子と卵子の仕組みに鑑みても、もしくはDNAの観点から考えても、処女が妊娠するなんてことがあるはずはない。そんなのはおとぎ話であるか、神学的な創作物語に違いない、と。

 ところで、このような観点から処女懐胎を疑った最初の人物は誰でしょうか?「処女が妊娠するなんてあり得ない」と最初に疑った人物。それは、マリアです。マリアは現代の科学を知っていたわけではありませんが、34節には、私たち現代人と同じくらい率直な疑問が記されています。


34 マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」

 マリアも私たちと同じように、それが常識的に考えてあり得ないということはよく分かっていました。科学を知らない昔の時代の人だから、マリアはそんな迷信を信じてしまった、というわけではありません。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。」マリアの疑いは、私たちの疑いと全く同じものでした。すると、御使いは次のように答えます。35節と37節。


35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。……37 神にとって不可能なことは何もありません。」

 “処女が身ごもる”なんてことをいきなり言われたら、そんなことは合理的に考えておかしい、ということになるわけです。しかし、使徒信条が最初に告白しているのは、「天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という宣言です。聖書が最初に語っているのも、「はじめに神が天と地を創造された」という宣言です。もし本当に、この天と地をお造りになった全能の神がおられるなら、どうでしょうか。何もないところからこの宇宙をお造りになった神がおられるなら、何もないところから一人の人間の命を造り、処女のお腹の中にやどすことだって不可能ではないはずです。

 イエス様が処女から生まれたということは、イエス様が男性の力を借りずして生まれた、ということです。これは注目すべきことです。今の世界と同じように、当時の世界も“男性”という存在の影響力は凄まじいものでした。もちろん例外はありましたが、政治を司るのは基本的に男性、戦争で力を振るうのも男性、家族を支配するのも男性でした。先祖代々の系図を書く時にも、女性たちの名前はほとんど記されず、父親の名前と息子の名前だけが延々と書き連ねられました。

 しかし神の御子は、そのような“男性たちの力”とは全く関係なくお生まれになった。これは、神様がこの古い世界を新しく造り変えようとしている、ということを意味しています。男性を見捨てて、代わりに女性を選んだ、というような単純な話ではありません。男性の力によってでもなく、女性の力によってでもなく、ただ神ご自身の力によって、神はこの世界をお救いになる。古い世界の常識とは全く異なる力によって、神の国をこの世界にもたらそうとしておられるのです。旧約聖書のゼカリヤ書には、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」というみことばが記されています。私たち人間の権力や能力にはよらず、ただ神の霊がこの世界を新しくする。「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ」という信仰告白は、神様が聖霊の力によって、古い世界を新しく造り変え始めてくださったことを信じる信仰告白でもあるのです。


第二の主張:「ナザレの貧民に奇跡的誕生はふさわしくない」?

 続いて、“処女懐胎”を疑う二つ目の主張について考えてみましょう。キリスト教の批判者として有名なケルソスというギリシャ人がいました。彼は次のように主張しました。「イエスのような貧しい人間が、こんな奇跡的な生まれ方をしたはずがない。このような奇跡は、もっと高貴な身分の人間にこそふさわしい。あのイエスという男が、もっと立派な国の出身で、もっと立派な血筋を持っていて、もっと立派な親のもとに生まれ育ったならば、“処女懐胎”も信じられる。しかし、あんな貧しい村で、あんな貧しい親のもとに生まれた人間が、そんな奇跡的な誕生をしたなんてあり得ない!あんなみすぼらしい人間が神の子だなんて、そんなことを誰が信じられるか?」

 たしかにケルソスの言う通り、イエス様はナザレという貧しい村の貧しい両親のもとで育ちました。立派な宮殿で生まれたわけではなく、むしろ薄汚い家畜小屋でお生まれになりました。ユダヤ教のエリート教育を受けたわけではなく、むしろ貧しい大工の息子として生きられました。そういう意味では、ケルソスの主張は正しかったと言えます。しかし、ケルソスのこの主張に対して、オリゲネスという神学者は次のように答えています。


人が有名になり、世に知られるようになるためには、その出生が一助となる。たとえば、本人の両親が高い地位と影響力を持ち、財産に恵まれており、その財を息子の教育に費やすことができ、さらに生まれた国が偉大で輝かしいものである場合がそうである。しかし、そうしたものすべてを持たない者が、それにもかかわらず自らを世に知らしめ、人々に強い印象を与え、ついには世界中にその名が知られ、語り継がれるようになるとすれば……質素と貧困の中で育ち、十分な教育も受けず、人々を導き得るような学問体系や思想を学んだわけでもない者がなぜ、新しい思想の教育に献身し、預言者たちを敬いつつもユダヤ人の慣習を覆し、同時にギリシア人の神観にかかわる既成の慣習までも打ち破る教えを人々に広めることができたのだろうか?

オリゲネス『ケルソス反駁』第一巻29章の英訳文(https://www.newadvent.org/fathers/04161.htm)から意訳。

 こんな貧しい村の小娘のお腹に、神の御子がやどられるはずがない。そんなことは、マリア自身が一番良く分かっていたでしょう。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」というマリアの疑いの言葉には、「どうして自分のような貧しい人間にそんなことが起こるのでしょう」という疑問も含まれていたでしょう。こんな自分のような貧しい人間には、神の御子をお預かりする資格も、育てる資格もない。それは当然のことです。しかし神の御子は、身分とか血筋とか財産とかそういうものとは一切関係なく、ただ神の力によってお生まれになるというのです。

 「貧民に奇跡的誕生はふさわしくない」というケルソスの主張は、古い世界の価値観においては当然のことでした。金持ちこそが偉い、貴族の血筋こそが尊い、権力を持つ者こそが神に近づく高貴な存在である。このような古い世界の常識です。しかしイエス様は、古い世界の常識をまるごとひっくり返してしまったのです。「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ」という信仰告白には、人間を身分や財産によって当然のように差別するような古い世界の常識を根本から覆す、新しい世界の常識が示されています。この信仰を告白する私たちはもはや、ケルソスが生きていたような古い世界の価値観には生きていません。私たちはもはや、新しい世界、すなわち神の国を生きる人生を生き始めています。財産よりも、血筋よりも、権力よりも、本当にこの世界を動かしているのは神の御力であり、聖霊なのだという事実を、私たちは告白しているのです。そしてこの聖霊は、イエス様を信じる貧しい私たち一人一人にも与えられているのです。


第三の主張:「聖なる神の御子が物質的肉体を持つはずがない」?

 第三の主張に進みましょう。処女懐胎に関する第三の主張、それは、「聖なる神の御子が物質的肉体を持つはずがない」という主張です。ヨハネの手紙第二には次のように書かれています。


7 こう命じるのは、人を惑わす者たち、イエス・キリストが人となって[肉において]来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。

 「人となって」と翻訳されている部分をギリシャ語から直訳すると、「肉において」となります。イエス様が肉体を持ってこの世に来られたということを否定する人が大勢いた、というわけです。なぜ彼らは、キリストが肉体を持つはずはない、と考えたのでしょうか。それは彼らが、「霊的なものは善いもので、物質的なものは汚れたものだ」という“霊肉二元論”を信じていたからです。

 この手紙を書いた長老ヨハネは、「こういう者は……反キリストです」と、かなり厳しい口調で語っています。どうして、イエス様が肉体を持って来られたことを否定することが、そんなにも重大な問題なのでしょうか。それは、“イエス様が肉体を持って来られたことを否定する”ということは、“この物質世界を救おうとしておられる神様のご計画を否定する”ということだからです。

 先週のチャーチスクールの時間に、高校生のAちゃんと一緒にキリスト教の勉強をしました。疑問があったらなんでも言ってみてねとお願いしたら、Aちゃんがこんな質問をしてくれました。「神様がこの世界を新しくしても、今のような生活が続いていくと、どうして言えるんですか?」お気づきになった方もいると思いますが、Aちゃんのこの質問は、先々週の礼拝説教の内容に関するものです。救いというのは、この世界とは別世界の天国に行くことではなく、この世界そのものが新しくされること。だから私たちの今の生活は、何らかの形で新しい世界に続いていく。勉強や仕事や科学的発見も、美しい自然を楽しむことも、スポーツや創作活動を楽しむことも、すべてが永遠の世界につながっていく。だから私たちの平凡な毎日には永遠の意味がある。私たちの人生は決して無駄になることがない。先々週の礼拝ではそんなお話をしました。

 「神様がこの世界を新しくしても、今のような生活が続いていくと、どうして言えるのですか?」この質問は、こういう風に言い換えることもできるかもしれません。「イエス様がこの世界を諦めて、捨て去ってしまうことはないと、どうして言えるのですか?」もしイエス様がこの物質世界を捨て去るおつもりならば、肉体を持つ必要はなかったはずです。ただ霊的な存在としてこの世界に来て、この世界の霊的な部分だけをお救いになり、また霊的な存在としてふわふわと天国に戻って、「君たちのことを天国で待ってるよ」と言ってくだされば、それで十分だったはずです。

 しかしイエス様は、物質的な肉体をもってこの世界に来られ、物質的な肉体をもって復活されました。だから私たちは、イエス様はこの世界を決してお見捨てにならないのだ、イエス様は再びこの世界に戻って来られるおつもりなのだと確信できるのです。そしてそれゆえに私たちは、今の私たちの生活も、仕事も、学びも、永遠の世界につながっていくものだと確信できるのです。

 またさらに、イエス様がこの世界をお見捨てにならないと確信できる理由がもう一つあります。それは、私たちが今から行おうとしている“聖餐式”という儀式です。聖餐式というのは、なかなか地味な儀式です。もっとスピリチュアルなものが好きな人からすれば、“目を閉じて呪文を唱えることによって霊的世界と繋がる”みたいな儀式のほうが嬉しいかもしれません。しかしイエス様が私たちのために定めてくださったこの儀式は、パンを食べて杯を飲むという、非常に物質的で肉体的な儀式です。呪文詠唱とか霊的交信とかではなく、とても平凡な儀式です。しかし、この平凡な儀式によって私たちは、イエス様がこの世界に再び戻ってきてくださることを確信するのです。

 キリスト教を批判したケルソスは、次のようにも言いました。「もしイエスが神であるなら、喉が渇いて井戸水を飲むはずがない。」「もしイエスが神であるなら、人間と同じようにパンや魚を食べるはずがない。」(『ケルソス反駁』第一巻70章を参照)たしかにケルソスの言うとおりです。私たちが食べるような食べ物を、聖なる神の御子が食べるというのはおかしな話です。しかし、イエス様は魚を食べました。疲れて、喉が渇いて、井戸水を飲まれました。弟子たちと一緒に食卓を囲んでパンを食べ、ぶどう酒を飲まれました。そして、再び弟子たちと一緒に食卓を囲むために戻って来ると宣言されました(ルカ22:30)。だから私たちは、あのパンと杯を味わいながら、そして毎日の平凡な生活を営みながら、この物質的な世界において、イエス様が帰って来られるその日を楽しみに待ち続けるのです。

 最後に一つ、キリスト教神学の歴史における有名な問いをご紹介して終わりたいと思います。それは、「もし人類が罪を犯さなかったなら、神の子は人間になったか?」という問いです。皆さんはどう考えるでしょうか。「もし人類が罪を犯さなかったなら、神の子が人間になる必要はなかったはずだ。だから答えはNoだ」と考えるでしょうか。私はそう思いません。なぜなら、人となられた神の子は、すなわちあのイエスというお方は、私たちと一緒に食事をし、私たちと一緒に大声で笑い、私たちと一緒に汗を流し、疲れを覚え、涙を流してくださったからです。人類が罪を犯しても犯さなくても、このお方は人となって、私たちと一緒に生きることをお選びになったと思うのです。それくらいに私たちを深く愛してくださる神様だと思うのです。ですから私は、この神様の愛を胸一杯に感じながら、「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ」と告白したいと思うのです。神の御子が人となってくださった。私たちの平凡な毎日の中に入ってきてくださった。貧しく罪深い私たちとともに歩んでくださり、“神とともに生きる”ということが比喩や象徴ではなく現実であることを教えてくださった。この幸いをしっかりと心に刻みながら、人となって来られたイエス・キリストを、心から喜んで告白し続けたいと思うのです。お祈りをいたします。


祈り

 父なる神様。一人の処女がみごもったということは、信じがたいことです。そしてそれ以上に、聖なる神様が私たちと同じ人間になってくださり、一緒に食事をしてくださるとは、まことに信じがたいことです。あなたに見捨てられても何の文句も言えないような、罪深く醜い私たちです。神の御子と同じ食卓に座れるような身分も才能も善良さも持ち合わせていない私たちです。それにもかかわらず、あの聖なる食事の場に、私たちの席が用意されている。どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私たちには何の力もありませんのに。ただただ、神様の恵みによるものだと言わざるを得ません。感謝します。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。