ヨハネ19:1-16a「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」(使徒信条⑨|宣愛師)
2025年5月11日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ヨハネの福音書』19章1-16節前半
1 それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。
2 兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭にかぶらせ、紫色の衣を着せた。
3 彼らはイエスに近寄り、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、顔を平手でたたいた。
4 ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」
5 イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」
6 祭司長たちと下役たちはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは彼らに言った。「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。私にはこの人に罪を見出せない。」
7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。」8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れを覚えた。
9 そして、再び総督官邸に入り、イエスに「あなたはどこから来たのか」と言った。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。
10 そこで、ピラトはイエスに言った。「私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか。」
11 イエスは答えられた。「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」
12 ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」13 ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
14 その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時であった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」
15 彼らは叫んだ。「除け、除け、十字架につけろ。」ピラトは言った。「おまえたちの王を私が十字架につけるのか。」祭司長たちは答えた。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」
16 ピラトは、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した。

「なんだかピラトがかわいそう」
数ヶ月前のことですが、「今度から日曜礼拝で使徒信条の説教シリーズを始めるんだよ」という話をしたら、Hくんから、「使徒信条の中になぜピラトの名前が入っているのかについても、ぜひ取り扱ってほしいです」と言われました。「なんだかピラトがかわいそうで」という話にもなりました。たしかに、キリストを十字架につけて殺した人物として、世界中の教会でその名前が呼ばれ続けるなんて、やっぱりかわいそうだという気がします。しかし、そんな風に考える私たちは、どこかでこのピラトという人を、自分とは無関係の、他人事だと思っているのかもしれません。
「ポンテオ」というピラトの苗字は、イタリア半島の「サムニウム」という地方の一族の苗字だったようです。彼はおそらくこのポンテオ家に生まれ育ち、軍人や政治家としてローマ帝国で活躍し、ついにローマ皇帝からその力を認められて、ユダヤ地方の総督に成り上がることができた。
そんなピラトのもとに、ユダヤ人の指導者たちがやって来て、ある訴えを起こしました。「ナザレのイエスという男を死刑にしてほしい。」ユダヤ人の指導者たち、つまり「祭司長」と呼ばれる人たちは、イエスという邪魔者を排除したいと考えていました。「あの男は、神の国が来たなどと言って、この世界をひっくり返そうとしている。危険人物だ。」しかし、ローマに支配されていたユダヤ人たちには、自分たちで勝手に死刑を行うことが許されていない。だから彼らは、ピラトに訴えを起こしたのです。「あのイエスという男は、自分自身のことを神の子だ、神の国の王だなどと自称しています。これは明らかにローマへの反逆です。十字架にかけて殺しましょう。」
そこでピラトは、このイエスという人物の取り調べを行います。本当に反逆者なのかどうかを確認するのです。ピラトはこれまで、反逆罪で訴えられたユダヤ人をたくさん見て来たでしょう。ある反逆者は、「私は反逆なんてしません。お赦しください」と言って、命乞いをしたでしょう。その逆に、「おまえたちローマ人など滅んでしまえ」と、呪いの言葉を吐き捨てるような者もいたでしょう。しかし、このイエスという男は違いました。命乞いも呪いも口にしないのです。この人は只者ではない。ピラトはこの人を釈放することにしました。1節から5節をお読みします。
1 それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。
2 兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭にかぶらせ、紫色の衣を着せた。
3 彼らはイエスに近寄り、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、顔を平手でたたいた。
4 ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」
5 イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」
ピラトがイエス様をむちで打ったのは、イエス様を釈放するためだったと考えられます。むち打ちで十分に懲らしめれば、さすがの祭司長たちも満足して、やっぱり殺すことまでしなくていいと考え直すはずだ。もしくは、むちで痛めつけられた弱々しい姿を人々に見せれば、「こんな弱々しい男にローマ帝国への反逆なんてことができるはずがない」ということが分かるはずだ。「見よ、この人だ」というピラトの言葉にはおそらく、「見よ、こんなにも弱々しい人間が、反乱などという大層な罪を犯せるはずがないだろう」という意味が込められていたのでしょう。
しかし、イエス様を釈放しようとするピラトの作戦はうまくいきません。6節。
6 祭司長たちと下役たちはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは彼らに言った。「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。私にはこの人に罪を見出せない。」
むち打ちで痛めつけられた弱々しいイエス様の姿を見ても、祭司長たちは引き下がりませんでした。「ああ本当だ、こんな弱々しい人間が反乱を起こせるはずがない」とは思いませんでした。祭司長たちは、「十字架につけろ」と叫ぶのです。彼らは、イエスという人の本当の恐ろしさに気付いていたのかもしれません。「たしかにあの男は弱々しく見えるかもしれない。しかし、あの男を生かしておいたら、私たちの世界はひっくり返されてしまう。」7節から9節をお読みします。
7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。」8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れを覚えた。
9 そして、再び総督官邸に入り、イエスに「あなたはどこから来たのか」と言った。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。
なぜピラトは、「ますます恐れを覚えた」のでしょうか。いろいろな解釈がありますけれども、おそらくピラトは、もしイエス様が本当に「神の子」なのだとしたら、自分はとんでもないことをしてしまったのではないかと、恐ろしくなったのだと思います。「もし本当にこの人が神の子なら、私は神の子をむちで打ってしまった!」神の子を痛めつけた人間が、無事でいられるでしょうか。ピラトは慌てて、「あなたはどこから来たのか」と尋ねます。「あなたはただの人間なのか? それとも、天から降りてきた神の子なのか?」しかし、イエス様はお答えになりません。
ピラトに与えられた 「権威」
ピラトはますます焦りを感じていきます。10節から12節までをお読みします。
10 そこで、ピラトはイエスに言った。「私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか。」
11 イエスは答えられた。「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」
12 ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」
「私は神の子でもありませんし、この世界をひっくり返そうなんてことは考えていませんから、十字架にかけないでください。」嘘でもいいから、そういう言葉をひとこと言ってくれれば、私はあなたを釈放することができるのだ。だから、「私に話さないのか」とピラトは問い詰めます。
しかし、ピラトの思い通りにはなりません。イエス様は答えます。「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。」「上から」というのは、“天におられる神様から”ということです。ピラトは自分自身に権威があると思い込んでいました。生かすも殺すも自分次第なのだと思い込んでいました。しかし実際には、ピラト自身にはイエス様を生かす権威も殺す権威もなかったのです。すべては神様の権威の中で行われていることでした。
「ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」「わたしをあなたに引き渡した者」というのは、祭司長たちのことでしょう。どちらかと言えばピラトは、自分自身の意志というよりも、神様の権威のもとでこの状況に巻き込まれていました。しかし祭司長たちは、神様の権威のもとでというよりは、むしろ自分たちの意志でイエス様を殺そうと動いていました。だから、ピラトよりも祭司長たちのほうが、より重い罪を犯していることになる。
ピラトはイエス様を釈放しようと努力します。しかし、祭司長たちの叫び声はエスカレートしていきます。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」ここで「カエサル」と呼ばれているのは、ローマ皇帝ティベリウスのことです。ティベリウス・カエサルは、裏切り者を容赦なく殺すことで有名でした。カエサルの名前を出されること、これはピラトにとって最も恐ろしいことでした。13節から16節。
13 ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
14 その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時であった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」
15 彼らは叫んだ。「除け、除け、十字架につけろ。」ピラトは言った。「おまえたちの王を私が十字架につけるのか。」祭司長たちは答えた。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」
16 ピラトは、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した。
おそらくピラトは、この時点でイエス様を釈放することを諦め始めていました。そこでピラトは、せめて祭司長たちに一矢報いたいと考えます。「見よ、おまえたちの王だ。」このピラトの言葉は、「おまえたちユダヤ人の王は、こんなにも弱々しい王なのだな」という皮肉かもしれません。もしくは、「おまえたちの問題なのだから、私には関係がない」という意味かもしれません。
祭司長たちは答えます。「カエサルのほかに、私たちに王はありません。」これは、ユダヤ人が決して口にしてはならない言葉でした。旧約聖書が繰り返し語っていることは、「神こそが王である」ということです。神様以外にまことの王はいない、ということです。それなのに祭司長たちは、自分たちの邪魔者を排除するためになら、最も大切な信仰でさえも蔑ろにしてしまうのです。
構造的暴力と、私たちに与えられた権威
「ポンテオ・ピラト」とは、一体誰だったのでしょうか。第一にピラトは、イエス様を憎んでいたわけでも、殺したかったわけでもありませんでした。第二にピラトは、イエス様には死に値するような罪がないということに気付いていました。第三に、それでもピラトは、自分の身を守るためにイエス様を十字架に引き渡しました。憎んでもいない人を殺すというシステムの中に、ピラトはいつの間にか組み込まれていたのです。こう考えると私は、このピラトという人間が、遠く離れた時代の人間であるにもかかわらず、私たち一人一人に似ているような気がしてなりません。
「構造的暴力」という言葉があります。ヨハン・ガルトゥングという社会学者が作った言葉です。「構造的暴力」とは、誰かを直接的に攻撃するわけではないけれども、結果的に誰かを傷つけるような暴力のことです。たとえば、私の家のたんすには暖かい毛布が使われずにしまい込まれているのに、誰かがどこかで寒さのあまりに凍え死んでしまったとすれば、それは回り回って「構造的な暴力」だと言えます。私はもちろん、凍え死んでしまったその人を憎んでいたわけではないのですが、貧困という構造的暴力の中で、結果的に一人の人が死んでしまったのです。「構造的暴力」は、「直接的暴力」とは違って、目に見えにくいのが特徴です。
使徒信条はなぜ、「ポンテオ・ピラトのもとに」と語るのでしょうか。誰かの名前を書くなら、もっとイエス様を直接的に憎んでいた人物、たとえば「大祭司カヤパのもとに」と書いたほうが適切だったのではないでしょうか。ピラトがかわいそうだ、イエス様を殺したかったわけじゃないのに、と思ってしまいます。しかし、イエス様を殺したかったわけではないのに、大きなシステムの中で殺しに加担してしまった。そういう意味で、「ポンテオ・ピラト」という名前は、私たち一人一人の名前にも限りなく近いような気がするのです。ピラトはかわいそうだ、などと言っている場合ではない。ピラトの罪は私自身の罪、そして、あなた自身の罪なのではないでしょうか。
イエス様は、ローマ帝国という大きなシステムの中で、祭司長たちの政治的保守主義というシステムの中で、ねじふせられるようにして殺されました。今も、目には見えにくい「構造的暴力」のもとで、多くの人が耐え難い苦しみを生きています。貧困や差別という、目に見えにくい暴力があります。私たちは彼ら彼女らを憎んではいません。彼ら彼女らが悪い人間だとも思っていません。しかしそれでも私たちは、彼ら彼女らの命をめぐる裁判に、気づかぬうちに参加しているのです。そして、本当ならばそのシステムそのものに抗わなければならないのに、自分の身を守ることを優先して、群衆の声を恐れて、誰かを死の力に引き渡してしまっているかもしれないのです。
しかし逆に言えば、私たちが構造的暴力の一部になっているということは、私たちには誰かを死の力から引き戻すチャンスが与えられているということでもあります。私たちの沈黙によって、誰かが見殺しにされていたのだとすれば、私たちがその沈黙を破ることよって、誰かの命が救われるかもしれない。傲慢な言い方かもしれませんが、神様の権威のもとで、私たちには人を生かしたり殺したりするような権威が与えられているのかもしれない。その権威とは、たんすの奥にしまい込まれている毛布を、凍えそうな誰かに差し出すことのできる権威かもしれません。財布の中にある小銭を、誰かの空腹を満たすために用いることのできる権威かもしれません。孤独の中にある人、差別の中にある人の声に耳を傾け、彼ら彼女らの手足となるための権威かもしれません。
今日は「母の日」です。日頃の感謝を伝える大切な日です。ところが、もしかするとこの「母の日」でさえも、“構造的暴力”の一部になってしまうかもしれません。“子どもには必ず母親がいる”という前提に孤独を感じる子どもたちもいるでしょう。“女はいつか母親になる”という前提に苦しむ女性たちもいるでしょう。“良き母親とはこうであるべき”というプレッシャーをかけられ、しかし見えないところでの働きは誰にも評価されず、“女性は黙っていなければならない”という固定観念の中で、孤独感や疲労感を覚えている方々もいるでしょう。このような構造的暴力と戦うためには、愛と想像力が必要です。見えない働きや見えない痛みを想像する愛が必要です。感謝の言葉が必要です。感謝の言葉が人の命を救うこともあるのです。感謝を伝えるということもまた、私たちに与えられた権威の一つだと思います。この権威を正しく用いることができるようなりたいと思います。そして、死の力に打ち勝つ愛の交わりを大切に育んでいきたいと思います。神の国をこの世界にもたらすための戦いを、それぞれの力に応じて戦い抜きたいと思います。イエス様が先頭に立って戦ってくださった愛の戦いです。使徒信条を通して、「ポンテオ・ピラト」の名前を繰り返し口にする私たちは、私たちそれぞれに上から与えられたこの権威をどのように用いていくのか、このことを絶えず問い続ける生き方に招かれているのです。お祈りをいたします。
祈り
私たちの父なる神様。イエス様の命を扱う裁きに巻き込まれたピラトは、確かにかわいそうです。しかし、誰かの命に関わる立場に置かれていることに気付いていない私たちこそ、ピラト以上に残酷な生き方をしているのかもしれません。群衆の声を恐れるのではなく、むしろ、誰かを見殺しにした者として私たちの名前が記憶されてしまうことを恐れることができますように。あなたが私たちに与えてくださったあらゆる良きものを、隣人を死の力から引き戻すために用いることができますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。