ヨハネ6:1-15「彼らが望むだけ」(まなか師)

2025年5月18日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』6章1-15節


1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。
2 大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。
3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。
4 ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。
5 イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」
6 イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。
7 ピリポはイエスに答えた。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。
11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」
13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。
14 人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。
15 イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。



「どこからパンを」

 この朝も、愛する兄弟姉妹の皆さんと共に、みことばに聴くことのできる幸いを覚えます。お一人お一人の上に、神様の祝福がありますように。

 今日の箇所は「五千人の給食」と言われる有名な場面です。説教を準備しながら、五千人もの人たちが集まってくる様子をどんなふうにイメージしたらいいのか考えてみました。私は学生時代、嵐というアイドルグループが好きでした。先日、活動終了を発表したことがニュースになっていましたけれども、私の青春時代が終わるようで、少々ノスタルジックな気持ちにもなりました。それはさておき、あるとき、嵐のライブのチケットが手に入りまして、楽しみに会場に向かいました。開演までまだ時間がありましたが、会場の周りはものすごい数の人たちで混雑していました。みんな、嵐に会うために、嵐の姿を見るために、嵐の歌を聞くために、わくわくしながらやって来るわけです。嵐ファンで埋め尽くされている会場一帯の高揚感は、何とも例えがたいものでした。その日のライブの最中に、ある映像が流れました。それは、開演前に会場の周りを歩いている人たちの足元だけが映された映像でした。ざっざっざっ…という足音が、ライブ会場に向かうファンの興奮を表しているようで、鳥肌が立ち、印象に残る演出でした。そのときの会場はたしか国立競技場で、何万人も入るところでしたけれども、盛岡ではすぐそこのタカヤアリーナが、ちょうど五千人の入る施設だそうです。タカヤアリーナを埋め尽くすほどの数の人々が、イエス様のところにやって来る。わいわいがやがやと話をしつつ、草や木を踏みしめながら、イエス様を求めて、山に登って来る。

 この「五千人の給食」は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、四つの福音書全てに記されている唯一の奇跡です。四人全員が書き記した奇跡は、十字架と復活の他には、この「五千人の給食」だけです。それほど、彼らに強烈なインパクトを与えた、印象深い出来事だったのだと思います。

 改めて、1節から6節までをお読みします。


1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。
2 大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。
3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。
4 ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。
5 イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」
6 イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。

 ヨハネの福音書5章の舞台はエルサレムで、ユダヤ教の指導者たちに厳しい言葉を告げたイエス様でしたが、6章に入ると舞台はガリラヤ地方の田舎に移っています。イエス様がガリラヤ湖の向こう岸に行かれた理由は何だったのでしょうか。

 マルコの福音書を読むと、まず第一に、イエス様が向こう岸に行かれたのは、弟子たちを休ませるためだったことが分かります。弟子たちがあまりに忙しく疲れ切っていたので、しばらくゆっくりするために、人里離れた場所に連れて行ってくださった。あるいは、マタイの福音書には、バプテスマのヨハネがヘロデによって殺されたという知らせを聞いて、イエス様はひとり静かに過ごそうとされた、とあります。心が騒ぎ、静かに祈る時間を必要とされたのでしょう。いずれにせよ、イエス様も弟子たちも、心が疲れていた。休息を必要としていた。静まる時間を求めていた。人里離れた小高い山からはガリラヤ湖が一望できたでしょう。過越の祭りの季節は春でしたから、まさしく今の盛岡のように、新緑がきれいだったかもしれません。休息にはもってこいの静かで美しい環境でした。

 しかし、この休み場にも否応なしに人々が押し寄せてくる。イエス様の癒やしのみわざを求めて、大勢の群衆がやって来る。マタイやマルコは、イエス様が群衆を見て深くあわれんだ、かわいそうに思った、と記しています。もちろんイエス様も、人々がご自分のことを「奇跡を行うすごい人」くらいにしか思っていないことをご存知でした。彼らがとにかく病気を癒やしてもらいに集まってきたことも分かっていました。それが彼らの一時的な熱狂であることも承知の上で、それでも、彼らの必要に応えない選択肢は、イエス様のうちにはなかった。彼らをかわいそうに思い、ご自分の休息を後回しにしても、彼らの必要に応えてくださった。

 イエス様は、十二弟子の一人であるピリポにお尋ねになります。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」お腹を空かせた人たちに食事を振る舞うために、どこからパンを買って来ようか。10節を見ると、男性だけでも五千人もの人々がいたと記されています。女性や子どもたちも含めれば、七千人、八千人、もしかすると一万人がいたとしても不思議ではありません。そんな大勢の人々のために、どこからパンを調達しようか。イエス様はピリポを試しました。試すというと意地悪く聞こえるかもしれませんが、「どこからパンを得られるか、あなたはもう分かるだろう?知っているだろう?」という、イエス様からピリポへのチャレンジでした。「あなたはここまでわたしと一緒に過ごしてきた。カナの婚礼で水がぶどう酒に変わるのも見た。ベテスダの池で足の不自由な人が癒やされるのも見た。わたしに不可能なことはない。わたしがあなたがたの必要に応える。そのことをあなたはもう信じられるだろう?」

 「どこから」という言葉は、ヨハネの福音書のキーワードです。どこから助けはやって来るのか。どこから必要は満たされるのか。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」とイエス様は問われる。旧約聖書の詩篇の作者も次のように問いました。「私の助けは どこから来るのか」(詩篇121:1)。この問いは、今を生きる私たち一人一人にとっても根源的な問いであると思います。「私の助けは どこから来るのか。」


「でも……それが何になるでしょう」

 ピリポは何と答えたでしょうか。7節から9節までをお読みします。


7 ピリポはイエスに答えた。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」

 ピリポの答えはこうでした。「二百デナリのパンでは足りません。」二百デナリは、今で言う百万円から二百万円くらいです。なぜピリポはここで二百デナリという数字を出したのでしょうか。おそらく彼は頭のいい人でした。瞬時に計算をして、一人がほんの一口ずつ食べても、最低二百デナリはかかる。それでも皆が満腹にはならないし、そもそも二百デナリなどという大金は自分たちの手元にない。ピリポは、自分たちの実力を正しく計ることのできる人でした。だからこそ、自分たちにはどうしようもできないということが分かった。自分たちの力では圧倒的に足りない。どう頑張ってもできない。人々の必要を満たすのはとうてい無理です。私たちの力では不可能です。

 また、もう一人の弟子、アンデレも言いました。「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」彼は食べ物を差し出してくれる少年を見つけ出してきた。イエス様のもとに連れてきた。でもそれが何になると言うのか。目の前でお腹を空かせている五千人以上の人たちに対して、これっぽっちの食べ物じゃ、意味がない。焼け石に水だ。もちろん少年が差し出してくれた食べ物はありがたい。たしかに健気で献身的なささげ物だ。でも、五つのパンと二匹の魚じゃ、それが何になるのか。あってもなくても変わらないじゃないか。

 私たちも「でも、それが何になるのでしょう」と思うときがあります。教会の会計はどうでしょうか。厳しい状況が続いています。支出に対して収入がかなり足りない月もあります。祈りつつ、自分にできる限りの献金をするけれども、でもそれが何になるのか。これっぽっちじゃどうしようもない。大きな必要を前にするとき、自分たちの力はあまりにも足りない。あるいは、貧困に苦しむ世界中の人たちに、災害で被害を受けた人たちに、何とか必要な支援を届けたいと思うけれども、自分にできることの小ささに、何の意味があるのだろうとも思ってしまう。自分がわずかな募金をしたからと言って、それが何になるのかとあきらめたくなる。戦争のニュースを目にして、「平和をもたらしてください」と祈るけれども、争いはどんどん悲惨さを増していく。圧倒的な罪の現実を前にして、自分の小さな祈りが何になるのか、何の意味があるのか、と思ってしまう。もっと身近なところにも、たとえば職場にも学校にも、もしかすると家庭にも、救いが必要な人たちがいる。罪の奴隷となったまま、その支配によって苦しんでいる人たちがいる。何とか助けてあげたいと思うけれども、彼らの必要を知れば知るほど、自分はどうしたらいいのか、自分に何ができるのかと途方に暮れてしまう。

 「こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」アンデレの、あきらめの気持ちを含んだ言葉は、私たちの言葉です。「自分たちにできることはほんのわずかしかない。こんなにたくさんの必要があるのに、それがいったい何になるのだろう。」

 しかしイエス様は、弟子たちだけの力では、人々の必要に応えることなんてできないと、初めからご存知でした。だからこそ「どこから」と問われたのです。弟子たちが「あなたから」と答えることができるか、試されたのです。そして彼らがそのように答えることができず、大きな必要を前にして自分たちの無力さに打ちひしがれているとしても、イエス様はご自分のみわざを始められます。「私の助けは どこから来るのか」と問いかけた詩篇の作者は、この問いに対して、次のように答えました。「私の助けはから来る。天地を造られたお方から。」(詩篇121:2)


「彼らが望むだけ」

 10節から13節までをお読みします。


10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。
11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」
13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。

 イエス様は、彼らが「足りない」と言ったわずかなパンを手に取り、神様に感謝の祈りをささげます。イエス様は、私たちが「これじゃあ何の意味もない」と思ったパンを用いて、すべての人の必要を満たされるのです。不信仰な私たちは不平不満を口にします。あれが足りない。これが足りない。しかしイエス様は、感謝の祈りをささげたというのです。

 KGKの大学生たちと一緒にいたとき、ある学生が「神様にもあまり期待しないようにしている」と話してくれました。期待してもし叶わなかったら、裏切られた気持ちになる。神様なんて本当はいないんじゃないかと疑ってしまう。だから最初から期待しない。期待しなければがっかりすることもない。なんとも現代的な考え方だなと思いますが、私にも、その学生の気持ちがよく分かりました。願っても叶えられないなら、最初から願わないほうがいい。望んでも与えられないなら、最初から望まないほうがいい。誰でも少なからずこれと似たような思いを、心のうちに持っていると思います。

 けれどもここでヨハネは、イエス様が「彼らが望むだけ」与えてくださったと記しています。お腹を空かせていた人々に、「彼らが望むだけ」、彼らが満たされるまで、存分に、十分に、食べ物を与えてくださった。「パンをもう一つ下さい」「私にもあと一つお願いします」「うちの子どもにも下さいますか」「こっちにはどうか魚をもう一匹」。そんな彼らの求めに、余りある恵みで応えてくださった。

 私たちは望んでいるでしょうか。願っているでしょうか。求めているでしょうか。イエス様から助けが来ることを、イエス様が必要を満たしてくださることを、どれだけ真剣に、どれだけ大胆に望んでいるでしょうか。私たちは、期待が叶えられないからイエス様を疑ってしまうのだと思っています。でも実際のところはどうでしょうか。むしろ、イエス様をどこか疑っているから、期待が叶えられないことのほうが多いのかもしれません。イエス様は、私たちがイエス様を十分信頼するようになるまで、イエス様だけに望みを持つようになるまで、待っておられるのかもしれません。私たちの助けはどこから来るのか。私たちの助けはイエス・キリストから来る。そう信じ切ることができる人は幸いです。

 しかし私たちがたとえ信じ切れなくても、疑ってしまったとしても、イエス様は恵みを出し惜しみするお方ではありません。余ったパン切れを集めると、十二のかごがいっぱいになりました。十二弟子たちに対して、十二のかご。偶然ではないと思います。ピリポも、アンデレも、かごを一つずつ抱えたでしょう。あんなに足りないと思っていたのに。あんなに無理だと思っていたのに。意味がないと思っていたわずかなものから、こんなにたくさんの恵みがあふれてくるとは想像もしていなかった。私たちが望むだけ、恵みが与えられる。いや、私たちが望む以上に、恵みが満ちあふれる。この恵みを体験する歩みを、私たち盛岡みなみ教会も続けていきたいと思います。

 一方で、私たちの望みが、自分本位な望みでないかということも、最後に確認したいと思います。14節と15節をお読みします。


14 人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。
15 イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。

 人々は、イエス様の奇跡を目の当たりにして、さらに熱狂します。「この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」。そしてイエス様を王様として担ぎ出そうとします。彼らが求めていたのは、ローマ帝国に反旗を翻し、虐げられているユダヤ民族を救い出してくれる王様でした。この人こそ、俺たちの王になって、俺たちをローマ人の手から救い出してくれるのではないか。彼らの思惑を知ったイエス様は、再び一人で山に退かれます。イエス様はそのような王様になるつもりなどなかったからです。

 彼らは、自分たちの望み、自分たちの願いを叶えるために、イエス様を利用しようとしました。これもまた、イエス様が私たちの望みを叶えてくださらないと思えるときに、私たちが省みるべき態度でしょう。私たちの都合を押し通すための自分本位な望みではなく、イエス様の御心を十分に求めるようになるまで、イエス様は待っておられるのかもしれません。イエス様を自分の思い通りに利用するのではなくて、ただイエス様の恵みを必要とする者として、謙遜に、しかし大胆な望みを抱いて「必要を満たしてください」と祈っていきたいと思います。

 私たちには、自分の無力さを、あるいは、信仰の足りなさを、そして自分勝手な望みを、イエス様の手の中に委ねることが必要です。今のありのままをイエス様に差し出すことです。自分の持っているものが、たとえどんなにわずかだとしても、たとえそれが価値のないように見えたとしても、たとえ自分勝手な形に歪んでいたとしても、それでも、自分の手の中から、イエス様の手の中にお渡しする。本当にお恥ずかしいのですが私にはこれしかないのです。これしかないのですけれども、イエス様、あなたはここから何を見させてくださいますか。どんなみわざを見させてくださいますか。私たちの想像を超えて、どんなふうに私たちの必要を満たしてくださいますか。どんな恵みでいっぱいのかごが、私たちの手に返ってきますか。そのようにイエス様に期待し、望みを大胆に抱く教会へと、ますます成長させていただきたいと思います。お祈りをいたします。


 父なる神様。あんなに足りないと思っていた、もう無理だと思っていたところから、たくさんの恵みがあふれてくるとは想像もしていませんでした。私たち教会の歩みは、そのような恵みの連続です。あなたはどんな恵みでいっぱいのかごを、私たちの手に返してくださるのでしょうか。私たちの助けはイエス・キリストから来る。私たちの必要はイエス様が満たしてくださる。そのことをさらに深く信じ、あなたへの望みをますます大胆に抱いていけますように。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。