ピリピ2:1-11「十字架につけられ(1)」(使徒信条⑩|宣愛師)

2025年5月25日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ピリピ人への手紙』2章1-11節


1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。

5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

6 キリストは、神の御姿であられるのに、
神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、
それも十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、
すべての名にまさる名を与えられました。
10 それは、イエスの名によって、
天にあるもの、地にあるもの、
地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
11 すべての舌が
「イエス・キリストは主です」と告白して、
父なる神に栄光を帰するためです。



「御霊の交わり」:日曜日から平日へ

 盛岡みなみ教会の22年目の歩みが始まります。ご一緒に聖書のみことばに耳を傾け、私たちが目指すべき教会の姿を確認したいと思います。それと同時に今日は、使徒信条シリーズの10回目の学びとして、キリストが「十字架につけられ」たということについて、ご一緒に学びを進めたいと思います。まずは1節と2節を改めてお読みします。


1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。

 この手紙を書いていた時、パウロは信仰のゆえに迫害を受け、鎖に繋がれていました。実際に牢屋の中にいたのか、普通の家に暮らしながらもローマ兵の監視のもとで軟禁状態にあったのか、詳細は分かりません。しかしいずれにせよパウロは、キリストを宣べ伝えたという理由で、ローマ帝国への反乱者という容疑をかけられ、身体の自由を奪われ、苦しみの中にありました。

 このパウロから手紙を受け取ったピリピ教会の人々も、様々な苦しみに直面していました。信仰のゆえに迫害を受けたり、社会的な差別を受けたり、貧しさを耐え忍んでいました。そんなピリピ教会に対してパウロが手紙を書き送ったのは、苦しみを乗り越えるために必要なものとは何か、ということを伝えるためでした。どうすれば私たちは、苦しみを乗り越えていくことができるのか。パウロは、そのために何よりも必要なものは、イエス・キリストにある励まし、そして、「御霊の交わり」なのだと語るのです。

 「御霊の交わり」とは何でしょうか。“御霊と私たち人間一人ひとりとの、一対一の交わり”という意味にも理解できますが、それと同時に、“御霊が造り出す教会の中の人間同士の交わり”とも理解できます。パウロは別の手紙の中で次のように語ります。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」(第二コリント13:13)。盛岡みなみ教会でも毎週の日曜礼拝の終わりに、この祝福のことばを受け取って、それぞれの生活の場へと送り出されていきます。学校や職場や家庭へと送り出されていきます。しかし、一人ぼっちで出ていくわけではありません。「聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」月曜日から土曜日までの間も、「聖霊の交わり」として、教会はともに歩み続けるのです。

 ところが私たちは、この「聖霊の交わり」を日曜日だけのものに狭めてしまう、ということがないでしょうか。私たちが教会に集まる時、“日曜日の姿”で、“日曜日の話”だけをする。すると、私たちは本当は、いついかなる時にも神の家族であるはずなのに、実はお互いに“平日の姿”が見えていない、ということになる。本当はそれぞれに苦しみがあり、一人では乗り越えられない闘いがあり、「御霊の交わり」の助けを必要としているかもしれないのに、そんなことにはお互いに気づきもせずに一週間を過ごして、また日曜日は“日曜日の姿”で集まる。

 なぜ、“平日の姿”を隠してしまうのでしょうか。なぜ、“日曜日の姿”を演じてしまうのでしょうか。それは、私たちのうちに「虚栄」があるからかもしれません。3節と4節をお読みします。


3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。

 教会の中にも、「利己的な思いや虚栄」が入り込むことがあります。「利己的な思い」のために礼拝をしたり、奉仕をするということがあり得ます。「虚栄」というのは、“見栄っ張り”ということです。誰か一人が見栄を張り始めると、周りも緊張して見栄を張るようになります。信仰深そうな祈りをしなければならない。実は聖書なんて全然読めていないということは隠さなければならない。「自分のこと」ばかりを気にしていて、「ほかの人のこと」を考える余裕なんてありません。

 なぜ見栄を張ってしまうのでしょうか。そこには、「すぐれた者だと思われなければならない」という思いがあるからでしょう。学校に行けば、あの人は頭が良いとか、面白いとか、とにかくバカにされないために、仲間はずれにされないために、自分を「すぐれた者」としてアピールしなければならない。職場でも、家庭でも、役立たずの怠け者だと思われないために、本来の自分以上の自分を演じてしまう。しかし、教会も同じなのでしょうか。「へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」せめて教会だけは、本当の自分をさらけ出せる場所でありたい。そして、本当の自分をさらけ出しても、お互いを心から尊敬し合えるような場所でありたい。肩の荷を下ろして、弱さを見せられる場所、涙を流せる場所でありたいと思うのです。

 見栄を張ることをやめるというのは、難しいことです。教会で一番見栄を張っているのは牧師かもしれません。あたかも聖書のことを何でも知っているかのように、あたかも何の問題もなく生活しているかのように、あたかも罪を犯して悩み苦しんでなどいないかのように、“日曜日の姿”という鎧を誰よりも厳重に身に着けて教会に来るのは牧師かもしれません。そうでなければ、教会から見放されてしまうのではないかと怯えている、そんな牧師も少なくないと思います。そして、牧師が見栄を張るから、教会に集まる一人一人も緊張して、見栄っ張りの集まりになってしまう。


「十字架の死」:最初に武器を捨てた人

 イエス様は、そんな牧師とは似ても似つかないお方でした。5節から8節までをお読みします。


5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

6 キリストは、神の御姿であられるのに、
神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、
それも十字架の死にまで従われました。

 私たちがこれまで学んできた使徒信条は、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白した後で、「われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず」と告白します。そしてその続きでは、このキリストが「十字架につけられ」て死んだ、と告白するのです。

 冷静に考えればおかしな話です。十字架というのは、ローマ帝国の死刑の道具でした。ローマ帝国に逆らう者たちを力でねじ伏せるための武器でした。全能の神の子であるはずのお方が、人間たちの力に敗北したというのです。なぜでしょうか。イエス様は本当は神の子でもなんでもない、ただの弱い人間に過ぎなかった、ということなのでしょうか。そうではないはずです。

 『ロード・オブ・ザ・リング』という有名な映画があります。原作を書いたのはJ.R.R.トールキンというカトリックのクリスチャンです。物語のあらすじはこうです。ある時、一つの特別な指輪が作られた。その指輪には全世界を支配できるほどに強力な魔力が込められていたので、その指輪を巡って争いが起こった。あまりにも危険な指輪なので、人々はその指輪を滅ぼすことに決め、心優しき一人の少年に託した。少年は、指輪の誘惑に抗いながら、指輪を完全に滅ぼすために、「滅びの山」と呼ばれる山に向かって危険な旅を始めた。旅の途中でも人々は指輪を奪おうとして争い続ける。そしていつしかその少年自身も、指輪の誘惑に抗えなくなっていっていく。

 この物語のテーマは、本当の強さとは何か、ということだと思います。本当の強さとは、自分の思うがままに力を用いることなのか。それとも、誰かのために力を手放せることなのか。この世界は、いかに学力を高めるか、いかに能力を高めるか、いかに財力を集めるか、というメッセージで溢れています。力を手に入れなければ、あなたは不幸になる。力を手に入れなさい。しかし、力の手に入れ方をあれこれ教えてくれる割には、力の手放し方については教えてくれない場合がほとんどです。そして、手放し方を知らない、混乱した人間が大量生産されていくのです。

 力を持つことそのものは悪いことではないでしょう。私たちそれぞれには、正しいことに用いるために、それぞれに与えられた力があります。牧師や役員というのも一種の力だと言えますし、家族の中では親という存在も力を持ちます。より大きなところに目を向ければ、国家が軍事力を持つことも、それ自体は悪いことではないかもしれません。ただ問題なのは、その力を手放すことができなくなった時です。指輪を外せなくなるのです。

 夫婦喧嘩や親子喧嘩の場合も、どちらかが100%悪いということはほとんどありません。どちらにも一定の言い分があり、相手を攻撃するための武器を握っています。「誰のおかげで生活できてると思っているんだ」「前にも同じことで私を怒らせた」「自分は外で働いてきてこんなにも疲れているのに」「そっちこそ私のがんばりを理解してくれない」。互いに銃口を向けて、一歩も譲りません。しかし、神様が見ておられるのは、どちらのほうが正しいかということよりも、どちらが先に武器を降ろすか、ということです。

 誰もが力を手放せず、臆病で不安定な心を抱えて、様々な場所で争いを引き起こしていきます。心は傷つき、疲れ果て、死人が出ることさえあります。力の手放し方を知らない私たち一人一人によって、この世界は壊れ続けていきます。誰かが最初に武器を捨てなければなりません。しかし、最初に手放したその人は、愚かな負け犬として殺されていくかもしれません。それでも私たちは、心の奥底では、それこそが本当の強さだということを知っているはずなのです。

 全能の神のひとり子は、「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」(マルコ15:30)と言われても、ご自分の敵さえも愛するその愛のゆえに、十字架にとどまり続けました。パウロは語ります。「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」この方を全世界の王とされました。全能の父なる神は、最初に力を手放した者を永遠に祝福してくださる神なのです。「よく手放した!」と喜んでくださるお方なのです。この神の御前にあって、私たちが一人ひとりが今、手放すべき力は何でしょうか。

 22年目の歩みを始めるこの日に、私たちは問い直したいと思います。私たちが目指す教会とは何でしょうか。もっと大きな教会、もっと活発な教会、それも大切なことかもしれません。しかし、もし私たちが十字架を見上げて歩むならば、私たちが求める教会とは、見栄を張り合う教会ではなく、互いのために力を手放し合い、互いのために仕え合える教会です。一人ひとりが十字架のもとにひざまずき、相手よりも先に武器や鎧を手放し、日曜日だけのうわべだけの集まりではなく、毎日毎日をともに歩んでいく教会です。この交わりがある限り、私たちが孤独になることはありません。十字架につけられた主を見上げて、22年目もご一緒に歩んでまいりましょう。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。私たち一人ひとりの虚栄が、教会の交わりを表面的なものにしてしまうことの恐ろしさを思います。互いに仕え合い励まし合うことよりも、自分がどう思われるかが気になって、相手のことを考える余裕もない私たちです。どうか、十字架の主のお姿を仰ぎ見させてください。そして私たち一人ひとりを、相手よりも先に鎧を脱ぎ捨てられる人、相手よりも先に武器を捨てられる人、そして相手よりも先に相手を愛することのできる人へと造り変えてください。盛岡みなみ教会の新しい一年が、互いに仕え合うことの喜びをさらに深めていく一年となりますように。イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン。