ガラテヤ3:13-14「十字架につけられ(2)」(使徒信条⑪|宣愛師)

2025年6月1日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ガラテヤ人への手紙』3章13-14節


3:13 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。
14 それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。



「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」

 本日は使徒信条の11回目の学びです。先週に引き続いて、イエス様の「十字架」について学びたいと思います。使徒信条について書かれた本の中に、次のような文章が記されていました。


使徒信条は、聖書全体の要約です。聖書の第1ページは天地創造から始まります。最終ページは、主イエス・キリストが再び来てくださることで世界が完成されることを約束し、この世界への祝福の言葉で終わります。天地創造から世界の完成まで、私たちの短い人生を超えた、実に壮大な神の物語の中に、私たちは「我は信ず」と語りつつ足を踏み入れます。

『説教黙想アレテイア叢書  三要文 深読  使徒信条』日本キリスト教団出版局, 2023年, 5-6頁。(一部中略)

 使徒信条とは、「私たちの短い人生を超えた、実に壮大な神の物語」である。私たち一人一人の人生はちっぽけなものかもしれない。でも、神様の大きな計画の中を生きていくことができる。この世界を救う神様のお働きのために、小さな私たち一人一人も用いていただくことができる。

 とても素晴しい文章だと思った一方で、ちょっと違和感を覚えた部分もありました。「使徒信条は、聖書全体の要約」と書かれています。でも、本当にそうでしょうか。聖書通読に挑戦したことのある方はお分かりかと思いますが、聖書の大部分は「イスラエル」の歴史です。しかし使徒信条の中には、「イスラエル」という言葉は一度も登場しません。もし私たちが「壮大な神の物語」として、「聖書全体の要約」として、この使徒信条を告白したいと願うならば、イスラエルと呼ばれる人々を知る必要があるのではないかと思うのです。

 イスラエルとは何者なのでしょうか。なぜ聖書にはイスラエルの歴史がこんなにもたくさん記されているのでしょうか。そもそもなぜ、神様はイスラエルを選んだのでしょうか。まずは、イスラエルの祖先である「アブラム(アブラハム)」という人について見てみましょう。創世記12章の1節から3節をお読みします。


12:1 はアブラムに言われた。
「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、
あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。
あなたは祝福となりなさい。
3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、
あなたを呪う者をのろう。
地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

 「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」イスラエルの祖先であるアブラハムは、全世界の祝福のために選ばれました。しかし、どうやって世界を祝福するというのでしょうか。その具体的な方法について、創世記18章19節には次のように記されています。


18:19 わたし〔〕がアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らがの道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ。

 暴力や差別や争いだらけのこの世界に、「正義と公正」を広げていく。それがアブラハムの使命であり、アブラハムの子孫であるイスラエルの使命でした。世界の命運を決する、極めて重要で、難しい使命です。ですから神様は、イスラエルと契約を結ぶことによって、彼らがこの使命を果たせるようにと励ましてくださいました。申命記の11章26節から28節までをお読みします。


11:26 見よ、私〔モーセ〕は今日、あなたがた〔イスラエル〕の前に祝福とのろいを置く。
27 祝福とは、私が今日あなたがたに命じる、あなたがたの神、の命令に聞き従った場合であり、
28 のろいとは、あなたがたの神、の命令に聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道から外れて、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行った場合である。

 神様は、イスラエルが歩むべき祝福の道を示すと同時に、厳しい呪いの警告も与えることによって、イスラエルが正しい道を選べるようにと励まされました。イスラエルの周りには色々な民族がいて、色々な神々がいて、その中には、生まれたばかりの赤ちゃんを生贄として求めるような神々もいました。イスラエルは、そのような神々に従うことなく、影響されることなく、まことの神様に従うことによって、傷ついた世界に「正義と公正」を広げなければなりません。周りの民族との境界線を造る目的も兼ねて、神様はイスラエルに“律法”をお与えになりました。


「アブラハムへの祝福が……異邦人に及び」

 ところが、旧約聖書を読んでいて分かることは、イスラエルは律法を破り続ける、ということです。「正義と公正」を行なって祝福を広げるどころか、イスラエル自身が周りの民族以上に悪を行い、人の命を軽んじ、貧しい人々を虐げるような罪深い民族になってしまうのです。「悔い改めなさい」と言われても、頑なに拒み続けるのです。神様の計画は頓挫したかのように見えました。しかし、それでも神様は諦めませんでした。エレミヤ書の31章31節から33節をお読みします。


31:31 見よ、その時代が来る──のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──のことば──。
33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 神様は、頑なで罪深いイスラエルを見捨てることなく、もう一度彼らと「新しい契約」を結ぶと約束されました。しかもその「新しい契約」は、以前の契約とは違う。石板や巻物に記された律法ではなく、一人一人の心に直接書き記された律法によって守られていくのだというのです。

 しかし、神様は一体どうやって、律法を彼らの心に直接書き記すというのでしょうか。「悔い改めなさい」と言われても、頑なに悔い改めようとしなかったイスラエルを、どうやって悔い改めさせることができるのでしょうか。神様がお考えになった方法は、実に驚くべきものでした。預言者イザヤは次のように預言しています。イザヤ書の53章4節から6節をお読みします。


53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、 
私たちの痛みを担った。
それなのに、私たちは思った。
神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、 
私たちの咎のために砕かれたのだ。 
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 
その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

 ひとりの人が神に罰せられる。ところが、その人が負ったその痛みは、本当は「私たち」が負うべきものだった。実に不可解な預言です。これは一体どういう意味なのだろうか。この人は一体誰なのだろうか。この不可解な預言が語られてから、数百年の時が過ぎていきます。しかしついに、預言の成就の時が訪れたのです。ガラテヤ人への手紙3章13節と14節をお読みします。


3:13 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。
14 それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

 イエス・キリストが、木にかけられて殺された。イスラエルが背負うべきだったはずの「律法ののろい」を、たったひとりで背負われた。祝福の民として歩むことができず、呪われるべき歩みを続けていたイスラエルのために、神の御子が十字架にかかり、いや、イスラエルの神ご自身が十字架にかかり、ご自分の民の呪いをすべて引き受けてくださった。

 そしてそれは、「アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及」ぶためだったと書かれています。イエス様は、イスラエルが破り続けた契約を結び直してくださっただけでなく、その契約を新しく造り変え、イスラエル人・ユダヤ人だけではなく、異邦人にまで広げてくださったのです。先程もお話ししたように、古い契約の時には、周りの民族の神々の影響からイスラエルを守るために、律法によって民族的な境界線が作られました。しかし新しい契約では、民族的な境界線によってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって、祝福の民が形作られていくのです。イエス様を信じてお従いする人は誰でも、アブラハムの子孫となることができるのです。


「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです」

 私たち盛岡みなみ教会も、この祝福を受け継ぐために選ばれました。みことばに聞き従って、「正義と公正」を行い、貧しい人々を愛し、暴力や差別や争いに満ちた世界に平和をもたらすために、私たちも選ばれたのです。ペテロの手紙第一の3章8節と9節、そして18節をお読みします。


3:8 最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。
9 悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。
……18 キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。

 最近聖書の学びを始めたAちゃんに、「とりあえず何でもいいから、キリスト教のことで分からないこととかある?」と尋ねました。するとAちゃんが最初に話してくれたのは、「敵を愛するって、やっぱりできない!」ということでした。正直な感想だと思いました。「あなたの敵を愛せよ」と言われても、みことばに従いなさいと言われても、なかなかそれができない。かえって頑なになってしまう。当然のことです。イスラエルと同じ罪を、私たちも持っているからです。

 私たちの現実はどうでしょうか。祝福の民として生きたいと思っても、呪いの中を這いつくばるような毎日かもしれません。周りの人に愛を示すことも、心の優しい人となることも、謙虚な生き方も、到底足りない私たちです。果たすべき使命があるはずなのに、助けるべき人々がいるはずなのに、自分の殻に閉じこもってみたり、忙しさを理由に自己中心な生活を正当化してみたり、不健全だと自分でも分かっているようなものに依存して時間やお金を浪費してしまう。祝福の民を名乗るには程遠く、自分で自分を呪うようなことさえある毎日かもしれません。

 教会の二千年の歩みにも、「正義と公正」とは程遠い部分が多々ありました。“黒歴史”が山ほどあります。ユダヤ人への迫害や、“異端者”への迫害、十字軍、魔女狩り、植民地主義への協力など、“信仰”に基づく差別や暴力が今も続いています。「どうしてそうなる!」と神様はどれほど嘆き悲しまれたでしょうか。

 私たち一人一人も同じだと思います。“黒歴史”があります。誰にも言えないような失敗や罪があります。なかったことにすることはできません。でも、なかったことにする必要もありません。聖書の中には今でも、イスラエルの黒歴史がたくさん残っています。アブラハムやモーセやダビデやペテロやパウロの黒歴史もしっかり書かれています。でも、それもぜんぶ含めて聖書です。それも含めて私たちの人生です。その恥ずかしさも、その情けなさも、全部ひっくるめて、イエス様が背負ってくださったのです。

 私たちは今から聖餐式を行おうとしています。その中で、悔い改めのための“黙祷”を行います。「聖餐にあずかる人は、神の御前に自分自身を深く吟味し、悔い改めと信仰をもってこれに臨んでください」と語られて、罪深く頑なな自分と真剣に向き合う沈黙の時を持ちます。しかし、その沈黙の後には必ず、“招きの言葉”が語られるのです。「たとえ罪のとがめや良心の呵責を覚えたとしても、それを覆って余りある神の恵みに信頼し、信仰をもって聖餐にあずかってください。」罪を覆って余りある神の恵み!これこそが十字架の恵みです。これこそが神の物語です。呪われた民が祝福の民に変えられていく。呪われた世界が祝福に満ち溢れていく。この恵みを何度でも何度でも頂きながら、私たちも祝福の民として歩ませていただきたい。どんなに小さなことだとしても、自分にできることを通して、少しずつでも祝福を広げていきたい。十字架がすべてを変えてくださったからです。「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」お祈りをいたします。


祈り

 父なる神様。自己中心で、自堕落で、呪われるべき存在であった私たちを、人を愛して、人を赦して、平和を広げる祝福の民としてくださったことを感謝いたします。「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」このみことばの約束を、私たち一人一人の心に刻みつけてくださいますように。いつの日も十字架のもとに立ち返り、悔い改め、罪咎をきよめられ、呪いから解き放たれ、自由の身となり、祝福の民としての自覚を取り戻して、やり直していくことができますように。何度でも何度でも十字架の赦しを受けて、十字架のもとに肩の荷を下ろして、再び歩み出すことができますように。イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン。