ローマ6:1-11「死にて葬られ」(使徒信条⑫|宣愛師)
2025年6月15日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ローマ人への手紙』6章1-11節
6:1 それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。
2 決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。
3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
5 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。
6 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。
7 死んだ者は、罪から解放されているのです。
8 私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。
9 私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです。
10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
11 同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。

罪を犯すけれども、罪に支配されない
キリスト教について多くの人が抱くイメージは、ステンドグラスで彩られた美しいチャペルや、白い衣に身を包む天使たちの絵かもしれません。清く正しく美しく、というイメージを持つ人もいるでしょう。そしてもう少しキリスト教に詳しい人であれば、その清さを象徴するものとして、バプテスマ、洗礼という儀式があることを知っているかもしれません。
ところが私たちキリスト者自身は、バプテスマを受けたにもかかわらず、自分自身のうちに罪が残り続けていることを知っています。バプテスマを受けて、クリスチャンになったはずなのに、相変わらず怒りっぽい自分。怠け者の自分。自己中心な自分。もちろん、神様が赦してくださることは知っています。しかしだからこそ、いつの間にか神様の赦しに甘えてしまい、罪を犯し続けてしまう。神様の赦しに甘えて罪を犯し続けるけれども、「いつか神様に見捨てられてしまうのではないか」という不安もないわけではない。そんな私たちキリスト者の現実について記されているのが、本日開かれているローマ人への手紙の第6章だと言えます。まずは1節から4節をお読みします。
6:1 それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。
2 決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。
3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
少し前の5章20節を見てみると、パウロはこんなことを言っています。「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。」私たち人間の罪が多ければ多いほど、それを赦してくださる神様の恵みも満ちあふれていく。これがパウロの教えだったわけです。すると、パウロに対してこんなふうに反論する人々が現れます。「罪が多ければ多いほど、神の恵みが増えていくなら、私たちはもっと罪を犯したほうがいいということになるじゃないか。そんなのはおかしいじゃないか。」
このような反論に対してパウロは、「決してそんなことはありません」と答えます。バプテスマを通して、洗礼を通して、罪人だった私たちはキリストとともに死んだのだ。イエス様とともに、「罪に対して死んだ」のだ。だから、もっと罪を犯せばいい、なんてことになるはずはない。6章6節を見てみると、バプテスマを受けた私たちは、「もはや罪の奴隷でなくなる」と語られています。さらに7節では、私たちはもうすでに「罪から解放されている」とさえ語られています。
しかし、私たちはパウロの言葉に納得できるでしょうか。バプテスマを受けた私たちは、本当に「罪に対して死んだ」と言えるでしょうか。むしろ、「バプテスマを受けたはずなのに、クリスチャンになったはずなのに、それでも罪を犯し続ける私は、本当はクリスチャンではないのだろうか」と、不安になることもあるかもしれません。
もしくは、「どうせ神様が赦してくださるのだから、罪を犯し続けたって別にいいじゃないか」と諦める方向に進んでしまうかもしれません。「恵みが増し加わるために罪にとどまるべき」なんて、そんなのは明らかにおかしいと分かっているけれども、どうせ罪を犯すことをやめられないのだから、どうせ赦されるのだから、という甘えに逃げてしまいたくなるかもしれません。
しかし、バプテスマを受ければ“罪を犯さなくなる”とは、パウロは一度も言っていないのです。たしかにパウロは、バプテスマを受けた私たちは「罪に対して死んだ」のだ、「もはや罪の奴隷でなくなる」のだ、「罪から解放されている」のだ、と語ります。しかし、パウロの言葉を元々のギリシャ語で見てみますと、「罪」という言葉が単数形になっています。普通は複数形で書くことが多いのですが、パウロはここであえて単数形で「罪」と書いています。私たちが日々犯し続けてしまう色々な「罪」というよりも、私たちを支配する一つの大きな力としての「罪」のことなのです。
私たちキリスト者は、バプテスマを受けてもなお、色々な罪、複数形の“罪”を犯し続けます。しかし、単数形の“罪”、一つの大きな力としての“罪”に支配されることはないのです。キリスト者になるということは、洗礼を受けるということは、罪を犯さない人になるということではなく、罪を犯すけれども罪に支配されることのない人になるということです。罪を犯してしまうけれども、そのたびに神様に赦しを求め続ける人になる、ということです。神様を悲しませるような生き方を何度も何度もしてしまうけれども、自分は神様を悲しませているのだということを忘れず、心を痛めて、神様ごめんなさい、と祈れる人になるということです。
いつか死ぬけれども、死に支配されない
イエス様とともに生きる人の人生は、罪を犯すけれども、罪に支配されることのない人生です。そしてそれと同時に、イエス様とともに生きる人の人生は、死んでしまうけれども、死に支配されることのない人生だとも言えます。8節と9節をお読みします。
8 私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。
9 私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです。
使徒信条の「死にて葬られ」について、ハイデルベルク信仰問答というキリスト教のテキストは次のように問いかけています。「キリストがわたしたちのために死んでくださったのなら、どうしてわたしたちも死ななければならないのですか」(問42:吉田隆訳)。イエス様が私たちのために死んでくださった。それでも私たちキリスト者が、他の人たちと同じように死んでいくのはなぜなのか。もしイエス様が私たちのために死んでくださったのなら、なぜ私たちもいつか死ぬのか。
私たち夫婦に毎月ニュースレターを送ってくれている友人がいます。彼は心の病を抱えていて、クリニックに通っています。先日も彼は、月に一度の通院日だったそうです。しかし、その日はどうやら、担当医が疲れてイライラしていた様子だったらしく、友人は診察の中で担当医からこんなことを言われてしまったそうです。「あなたはキリスト教信者なのだとしたら、死にたいと言ってはいけないはずです。」そして淡々とした診察のあと、結局別の病院を紹介され、診察は終わりそうになったそうです。しかし友人は、高まる感情をなんとか抑えながら、担当医に対して次のように語ったそうです。
『かんのもといの書き物。』「キリスト教が私の希望である理由」(2025年6月11日、https://note.com/soranosora_motoi/n/nbfa55fc0fc16)
「先生は最初にキリスト教信者は死にたいと言ってはいけないとおっしゃいましたね。その点にだけ、どうしてもお伝えしたいことがあります。クリスチャンは死にたいと言っていいのです。死にたいと思うほどの絶望の淵で神と出会うのが、キリスト教です。死にたいと言ってはいけないとしたら、それはキリスト教ではありません。キリスト教は、痛みの只中で、悲しみのどん底で神と出会うのです。その希望があるから、私はキリスト教信者なのです。」
キリスト者が「死にたい」と言うことは、たしかに良くないことかもしれません。それは神様に対する不信仰の罪だとも言えるかもしれません。しかし、たとえキリスト者が「死にたい」と思ってしまうとしても、死にたくなってしまうという不信仰の罪を犯すとしても、その罪が、死の力が、その人を支配することはない。キリスト者であったとしても、自分で命を絶ってしまうこともあります。それは良くないことです。でも、それでもその人は、バプテスマを受けたその人は、もはや死に支配されることはないのです。イエス様がともにおられるのです。
使徒信条は、イエス・キリストが「死にて葬られ」た、と記します。墓の中に葬られたのです。イエス様は本当に死んでしまったのです。盛岡みなみ教会のお墓の蓋を開けて、中を覗いてみたことがあります。地面の中の暗い空間に骨壺が置かれています。暗く、狭く、冷たいその空間には、命の希望を感じられる余地はありませんでした。しかし私たちは、その暗く冷たい空間でさえ、イエス様がともにいてくださることを知っています。私たちとともに死に、私たちとともに葬られてくださったイエス様が、墓の中にさえ、死のただ中にさえ、親しく伴っていてくださるのです。
「神に対して生きている者だと、認めなさい」
10節と11節をお読みします。
10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
11 同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。
私たちキリスト者も、罪を犯し続けます。死の力に蝕まれることもあります。「死んだらどうなるんだろう」と想像し、全てが虚しく思えることもあります。しかしそれでも、あなたはキリス者なのだ、「神に対して生きている者だと、認めなさい。」この「認めなさい」という言葉は、以前の翻訳では「思いなさい」と訳されていました。子どもの頃から私は、この箇所を読むたびに、「“思いなさい”って変な命令だなあ。“思い込みなさい”ってこと?」と不思議に思っていました。しかし元々のギリシャ語では、「計算しなさい」という言葉です。「計算しなさい」ということは、感情とか感覚とか思い込みとは一切関係なく、事実に基づいて考えなさい、ということです。
私たちの感情や感覚は、「こんなにも罪を犯し続ける自分が、神とともに生きるキリスト者であるはずがない」と決めつけてしまうかもしれません。「クリスチャンなのに、死にたいと思ってしまう自分なんて、イエス様とともに生きているとは言えない」と思い込んでしまうかもしれません。暗くて寒くて狭い墓の中を覗いてみれば、自分の死について想像してみれば、「こんな場所に希望なんてない、死んだらぜんぶ終わってしまうに違いない」と思ってしまうかもしれません。
しかし、そんなふうに思ってしまうとしても、バプテスマを受けた私たちは事実として、揺るぐことのない客観的な事実として、キリスト者なのです。事実に基づいて考えなければなりません。その事実とは、キリストが十字架につけられて死に、墓の中に葬られ、三日目によみがえられ、今もとこしえまでも私たちとともにいてくださる、ということです。もしあなたが罪を犯し、神様に見捨てられたように感じたとしても、事実は違います。神様があなたをお見捨になることはありません。もしあなたが孤独を感じ、どうせ自分はひとりぼっちで死ぬんだと思い込んだとしても、事実は違います。イエス様はあなたをひとりぼっちで死なせるつもりはないのです。
使徒信条は、イエス・キリストが「十字架につけられ」たと告白します。そこからさらに使徒信条は、イエス様が「死んだ」ということ、そしてさらには、「葬られた」ということを告白します。イエス様が死んだということは、「十字架につけられ」だけでも十分にわかるはずなのに、使徒信条は念押しするかのように、「死にて葬られ」とイエス様の死を強調します。それは、「イエス様は死んだように見えただけで、本当には死んでいなかったのだ」という考え方が教会の中に広がっていたからです。神の御子が本当に死ぬはずがない、私たち人間と同じように本当に死ぬはずがない、と考えた人々がいたからです。しかし、イエス様は本当に死んだのです。私たちと全く同じように死んでくださった。私たちと全く同じように墓に葬られてくださった。だから私たちは、私たちに対するイエス様の愛が、フィクションではないと確信することができるのです。「わたしはいつもあなたがたとともにいる」というイエス様の言葉が、単なる慰めや社交辞令ではなく、一緒にいるふりをしてくださるということでもなく、真実の言葉なのだと確信できるのです。
事実を事実として認めることは難しいことです。神の子が私たちと同じように死ぬはずがない、と考えた昔の人々もそうでした。自分の感情や感覚や常識のほうが正しいと思ってしまう私たちです。自分の内側から出てくることばを信じてしまう私たちです。だから私たちは、聖書を読み続けなければならないと思います。恐れや罪悪感や思い込みに基づくことばではなく、自分の常識の範囲内にイエス様の愛を押し込めるようなことばでもなく、本当に墓の中にまで来てくださった神のことばに耳を傾けたいと思います。そして、日々罪を犯しつつも悔い改めながら、死に向かいつつも復活を見据えながら、「神に対して生きている者」として、バプテスマを受けた者として、自分にできる限りの清さをもって、この人生をお献げしたいと思います。お祈りをします。
祈り
私たちの父なる神様。罪を犯し続けてしまうときにも、罪に支配されることなく、あなたの御前に悔い改め続けることができますように。死の力に飲み込まれそうになるときにも、死の虚しさに絶望してしまうときにも、それでもイエス様がともにいてくださることを、墓穴にさえも伴っていてくださることを、あらゆる感情や恐れを越えて、認めることができますように。死んだふりではなく、本当に死んでくださったイエス様が、ともにいるふりではなく、本当にともにいてくださることの幸いを日々味わい、私たちもまた、隣人とともにいるふりではなく、本当にともにいることのできる愛の人となることができますように。イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン。