第一ペテロ3:13-22「よみにくだり」(使徒信条⑬|宣愛師)

2025年6月22日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ペテロの手紙 第一』3章13-22節


3:13 もしあなたがたが良いことに対して熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
14 たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。
15 むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。
16 ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。
17 神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。
18 キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。
19 その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。
20 かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。
21 この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。
22 イエス・キリストは天に上り、神の右におられます。御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従しているのです。



「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」

 使徒信条の13回目の学びということで、イエス様が「よみ」にくだったという言葉について、ご一緒に学びたいと思います。最初にご紹介したいのは、ある牧師が語っていたこんな話です。


 ある日曜日、礼拝後の挨拶のために玄関に立っていると、小学生が満面の笑みで話しかけてきました。「わたし、礼拝で信仰を告白したい。」……しばらくの準備ののち、長老会を開き、幼児洗礼を受けていた彼女に「堅信礼試問」を行いました。……長老たちは少し戸惑いながら集まりました。堅信礼にはまだ早いのではないか、と考えたのです。彼女はまだ10歳。当然の心配でした。

 その日、彼女は12人の長老たちを前に、準備してきた作文を読みました。神への愛を、飾らない自分の言葉でしっかり伝える短い文章でした。その真剣さから、時間をかけて幾度も書き直し、朗読の練習もしてきたことが伝わってきました。

 最高齢の長老が尋ねました。

 「イエスさまの言葉で、あなたが好きな言葉は何ですか?」

 少女はきっぱりと答えました。

 「 『体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない』です。」

 思いがけない答えに心を打たれ、目に涙を浮かべる者もいました。聖霊降臨祭の日、信仰告白式が行われました。

平野克己『使徒信条  光の武具を身に着けて』日本キリスト教団出版局、2022年、64-65頁

 「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」ルカの福音書12章4節に記されたイエス様のみことばです。どうして彼女は、こんな物騒なみことばが一番好きだと言ったのでしょうか。これは私の勝手な想像ですけれども、まっすぐな心の持ち主である彼女は、学校のクラスでは少し浮いた存在だったかもしれません。いじめられているクラスメイトがいれば、周りの目も気にせず助けてしまうような、そして今度は自分が目をつけられていじめられてしまうような、そんな女の子だったかもしれません。だれも助けてはくれない。味方になってはくれない。そんな彼女にとって、このイエス様のみことばはどれだけ励ましとなったか。

 ペテロの手紙第一3章13節と14節をお読みします。


3:13 もしあなたがたが良いことに対して熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
14 たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。

 14節の後半で、「人々の脅かし」と翻訳されている部分は、元々のギリシャ語から直訳すれば、「人々の恐れ」です。「人々の恐れを恐れたり、おびえたりしてはいけない。」少し不思議な表現です。「人々の恐れ」とは何でしょうか。「人々の恐れを恐れてはいけない」とはどういうことでしょうか。実は、ペテロはここで旧約聖書の言葉を引用しています。イザヤ書8章12節。


12 あなたがたは、この民が謀反と呼ぶことを 

 何一つ謀反と呼ぶな。

 この民が恐れるものを恐れてはならない。

 おびえてはならない。

 「この民」というのは、預言者イザヤが属していたイスラエル民族のことです。預言者イザヤに対して神様は、「この民が謀反と呼ぶことを 何一つ謀反と呼ぶな」とお語りになります。「謀反」という言葉が、具体的に何を指しているのかは分かりません。ただ、国家や権力などの大きな流れに逆らう、という意味であることは確かです。学校のクラスであれば、皆で一緒になっていじめている人を誰かが擁護すれば、「謀反」だ、空気の読めない奴だ、ということになります。戦争中の日本であれば、戦争に反対する人は「謀反」だ、非国民だと言われたわけです。仲間外れにされることを恐れて、みんなと違うことを恐れて、悪いことを悪いことだと言えなくなるのです。

 しかし神様は語ります。「この民が恐れるものを恐れてはならない。」ペテロの手紙に戻って、17節と18節をお読みします。


17 神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。
18 キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。

 イエス様は、「謀反人」として、空気の読めない人として、十字架につけられて処刑されました。貧しい人々のために声を上げ、孤独な人々の友となり、権力者たちに悔い改めを求めたために、恨まれて殺されました。隣人を愛するため、小さき人々を愛するために、罪人として殺された。

 しかし、イエス様は再び生かされた、よみがえられたのだと、聖書は語ります。「霊においては生かされて」というのは、幽霊のようなふわふわした存在として復活した、という意味ではありません。霊において、霊の力によって、新しい肉体を持ってよみがえられた、ということです。

 そしてそれは、「あなたがたを神に導くためでした」とペテロは語ります。イエス様の生き様と死に様を見て、私たちもまたイエス様のように生きたい、イエス様のような死に方がしたいと思えるようになる。「悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよい」という確信を持って生きることができるようになる。これまで怖いと思っていたものが怖くなくなる。人目を気にせず、ただイエス様のお姿を見つめて、ひたすら誰かを助ける人になれるのです。

 いや、自分はそんな立派な人間にはなれない、と思うかもしれません。人のために自分を犠牲にすることなんてできない、と思うかもしれません。しかし、自分では無理だと思っていても、イエス様の霊が導いてくださるなら、本当にそういう人間になれるのです。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」このみことばを心から信じて、人を恐れずに善を行うことができるようになるのです。


「御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従している」

 19節と20節前半をお読みします。


19 その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。
20a かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。

 十字架につけられたイエス・キリストが、「捕らわれている霊たちのところに行っ」た、と書かれています。イエス様が死者の世界、よみの世界にくだられた、ということです。では、「捕らわれている霊たち」とは、一体誰のことなのでしょうか。「かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たち」とも書かれていますから、ノアの箱舟に入ることを拒否して洪水に飲み込まれた人間たちのことかもしれません。もしくは、ノアの時代に神様に逆らって堕落した堕天使たちのことかもしれません。

 いずれにせよ、この「捕らわれている霊たちのところに行って」イエス様は何かを「宣言された」と書かれています。イエス様は一体何を「宣言された」のでしょうか。救いの福音を宣言された、ということなのでしょうか。しかし、ペテロがこの手紙の中で、「福音を語る」「福音を宣べ伝える」と言いたい時は、「宣言する」という言葉とは別のギリシャ語を使っています(1:12; 1:25; 4:6)。ということは、イエス様がここで「宣言された」のは、救いの福音というよりはむしろ、神様に従わない霊たちに対する勝利の宣言だったのだろうと思われます。

 ジョット・ディ・ボンドーネ(1266-1337年)というイタリアの画家が描いた、「最後の審判」と呼ばれる壁画があります。 地獄を描いたこの壁画では、悪魔たちが様々な手段で人間たちを苦しめています。日本の地獄絵でも、鬼や悪魔が人間たちを苦しめる様子が描かれます。こういう地獄絵を見て、ヨーロッパ人も日本人も、なるべく悪いことはしないでおこう、天国に行けるようにがんばろう、と考えるわけです。教育効果という意味では、こういう絵画にも一定の意義があるのかもしれません。

 ただ私は昔から、こういう絵を観るたびに違和感を覚えていました。どうしてこの悪魔たちは、自分たちも地獄に落とされているのに、活き活きと動き回っているのだろうか。命の世界で私たちを苦しめる悪魔たちは、死後の世界でも私たちを苦しめ続けるのだろうか。結局のところ、死後の世界を支配しているのは、神様ではなく悪魔だということなのだろうか。

 いや、そうではないはずです。聖書が語るのは、「キリストは、捕らわれている霊たちのところに行って」勝利を宣言された、ということです。悪魔は死後の世界を支配してなどいない。よみであろうと、地獄であろうと、死後の世界で私たち人間のたましいに触れられるのは、神様だけ。だから、神様以外の何かを恐れる必要はないのです。3章20節後半から22節をお読みします。


20b その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。
21 この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。
22 イエス・キリストは天に上り、神の右におられます。御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従しているのです。

 大洪水が起こるということを、人々は信じませんでした。「洪水なんて起こるはずがない。雨だって降っていないのに」と、人々はノアたちをバカにし続けました。それでもノアとその家族は箱舟を造り続け、「洪水は必ず起こるから、一緒に箱舟に入りましょう」と伝え続けた。バプテスマを受け、キリスト者になるということは、どれだけ人からバカにされても、神様に対して誓約を行うということです。ただ神様だけを恐れ、他の何者をも恐れない、という誓いです。ただイエス・キリストだけに服従し、他の何者にも服従しない、という約束です。「御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従している」。鬼も悪魔も、イエス様に逆らうことはできません。

 キリスト教会の歴史では、死んだ後、私たちのたましいはよみにくだるのか、それとも天に昇るのか、ということで議論がありました。暗くてジメジメしたよみにくだるよりは、天に昇らせていただいたほうが嬉しいわけですが、聖書にはっきりとは書かれていないので、分からない。しかし、天でもよみでも、どちらでも良いと思うのです。詩篇139篇は次のように歌います。


7   私はどこへ行けるでしょう。

 あなたの御霊から離れて。

 どこへ逃れられるでしょう。

 あなたの御前を離れて。

8   たとえ 私が天に上っても

 そこにあなたはおられ

 私がよみに床を設けても

 そこにあなたはおられます。

 死後の世界がどのような世界なのか、私たちには分かりません。でも、一つだけ分かっていることがあります。それは、天であろうとよみであろうと、そこは悪魔が支配する場所ではなく、イエス様がご支配くださる場所だということです。私たちを愛してくださるイエス様が、私たちを待っていてくださる場所だということです。だから私たちは、安心して死ぬことができるし、安心して生きることもできます。誰かを助けるために、善を行うために、迫害されるようなことがあっても、傷つけられるようなことがあっても、幸いだと言えるのです。この幸いを頂いて、安心を頂いて、新しく始まる一週間も、主の御霊に導かれて歩んでまいりましょう。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。イエス様がよみにくだり、勝利を宣言してくださったことにより、私たちを死の恐れから解き放ってくださったことを感謝いたします。人間が恐れるものを恐れてしまう私たちです。助けるべき人を助けることさえも恐れてしまう私たちです。行うべき善を行わず、自分の身を守ることばかりを考えてしまいます。どうか私たちを、人を恐れず、あなただけを恐れる者としてください。イエス様とともに、貧しい人々のために正義を行い、イエス様とともに死者の世界に赴く者としてください。よみであろうと、天であろうと、いつもイエス様のおそばにあって、平安のうちに復活を待ち望む者としてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。