マタイ16:14-20「罪の赦し」(使徒信条㉒|宣愛師)

2025年10月5日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マタイの福音書』16章14-20節


6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。



信じるだけで赦される? 赦さなければ赦されない?

 私たちは使徒信条の中で、「われは罪の赦しを信ず」と告白します。そして私たちは、この「罪の赦し」は、私たちのために十字架につけられたイエス・キリストを信じることによって与えられる恵みであると信じています。ただ信じることによって、罪が赦されるのだ、と。

 ですから私たちは、今日の聖書箇所でイエス様がお語りになったことを聞いて、もしかしたら何かの間違いなのではないか、と疑ってしまうのです。改めまして、マタイ6章の14節と15節。


6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 人を赦さないなら、赦されない。どういうことでしょうか。信じるだけで救われるということではなかったのでしょうか。信じるだけで赦されるということと、人を赦さなければ赦されないということは、矛盾しないのでしょうか。

 今日は使徒信条の22回目の説教となりますけれども、私たちは7回目の説教において、「キリスト」ということばについてご一緒に学びました。覚えておられる方もいらっしゃるかもしれませんが、その説教の最後に、私はこのようにお話させていただきました。


「キリスト者」になるための条件は、たった一つです。イエス・キリストを受け入れること、これだけです。もっと正確に言うならば、「キリスト者」になるために唯一必要な条件は、“あなたが受け入れたくない人も受け入れてしまうキリスト”を受け入れること、これだけです。

 信じるだけで赦されるということと、人を赦さなければ赦されないということは、実のところ矛盾しません。なぜなら、私たちが信じるイエス・キリストというお方は、私たちが赦したくない人を赦してしまうお方だからです。イエス・キリストを信じるということは、私たちが赦したくない人を赦してしまうお方を信じるということだからです。

 皆さんには今、赦せない人がいるでしょうか。なぜその人のことが赦せないのでしょうか。その人はどんな人でしょうか。あなたはその人に何をされたのでしょうか。よほど嫌なことをされたのでしょう。あなたがその人を赦さないなら、神様もあなたをお赦しにならないと言われたら、あなたはその人を赦せるでしょうか。

 C.S.ルイスという神学者が、赦しとは何かということについて、次のように語っています。


 「おのれのごとく、なんじの隣りびとを愛すべし」。ところで、キリスト教道徳では、「なんじの隣りびと」は「なんじの敵」をも含むから、そこでわれわれは、自分の敵を赦すという恐るべき義務に当面することになるわけである。……自分を愛するように人を愛さなければならないというが、では、わたしは自分をどんなふうに愛しているだろうか。

 よく考えてみると、わたしは自分に対して好感とか愛着とかいったものをかならずしも抱いてはいないし、年中自分自身とつきあっているわけだが、それだっていつも楽しいとは言えない。とすると、「なんじの隣り人を愛せよ」というのは、どうやら、「彼を好きになれ」とか「彼に魅力を感ぜよ」ということではないらしい。

C.S.ルイス『キリスト教の精髄』柳生直行訳, 新教出版社, 1977年, 182-184頁。

 人を赦すということは、その人を好きになるということではない。好きになれなくても、好きになれないままで、赦すということができるのです。赦すということの第一歩は、復讐をしないということです。私たちは、自分で自分のことを嫌な奴だと思っても、自分で自分に復讐をしません。(もちろん、時には自分で自分を傷つけてしまうこともありますが。)自分のことを好きになれなくても、お腹が空いていればご飯を食べるし、怪我をすれば絆創膏を貼ります。それと同じように、どうしても好きになれないあの人を、好きになれないままで赦すということは、もしその人がお腹を空かせていたらご飯を分けるということです。もしその人が怪我をしていたら、好きになれないままでいいから、絆創膏を差し出すということです。

 それでも、「あんな人を赦すくらいなら、神様の赦しなんて要らない!」と思うかもしれません。「あんな人を赦すくらいなら、赦しなんて最初から要らない。赦しなんて存在しない世界のほうがずっと納得がいく」と思ってしまうかもしれません。赦しのない世界。人と人が、仲直りすることを止めて、離れ続けていく世界。C.S.ルイスはまた別の本の中で、そのような世界こそが「地獄」なのだと語りました。赦すことと赦されることを受け入れる人々は、天国と呼ばれる場所で、神が赦した人々とともに暮らすことを選ぶ。しかし、赦すことも赦されることも拒んだ人々は、天国に入ることを自ら拒み、ただひたすらに人がいない場所を求めて、赦す必要もなければ赦される必要もない、孤独で寂しい世界を自ら選んでいく。それが地獄なのだ、と。


「教会を信ず。」そして、「罪の赦しを信ず。」

 ところで、最近の若者たちは、何か悩みがあるとChatGPTというAIに人生相談をするというのがニュースになっています。人と関わるよりも、AIのほうが関わりやすいのかもしれません。人間は怒らせたら色々と面倒ですが、AIは怒ったりしないので、赦しを求める必要もありません。それはもしかすると地獄の入口に近づいているのではないか……という気がしなくもありません。私たち人類は今、生身の人間と生身の人間が関わり合うことのない世界を、赦し合いながら生きることのない世界を、神の世界ではない世界を、自ら選び始めているのかもしれません。

 と言いつつ、私もよくChatGPTを使っていまして、色々な相談や質問をすることもあります。先日はこんな質問をしてみました。「人を赦せない人の特徴を教えて。」すると、さすがと言いますか、なかなか的確だなと思う答えを教えてくれました。


強い正義感がある:「悪いことは悪い」「罰せられるべき」という感覚が強いと、赦すことは「不正を見逃すこと」と感じやすい。

自己防衛意識が強い:過去に裏切られたり傷つけられた経験があると、再び傷つかないために「赦さない」という態度をとって自己防衛を行いやすい。

自尊心が低い:自分の価値を否定されたような場合(裏切り、侮辱など)、それを赦すことは自分で自分を否定することのように感じられる。

 正義感があることは大切なことです。自己防衛意識を持つことも、自尊心を守ることも大切なことだと思います。だからこそ、人を赦すということは難しいのです。私たちは一体どうすれば良いのでしょうか。どうすれば、人を赦せる人になれるのでしょうか。

 使徒信条は、「われは罪の赦しを信ず」と告白するよりも先に、「われは教会を信ず」と告白します。どうしてこの順番なのでしょうか。まず罪を赦されて、それから教会のメンバーに加わる、という順番ではないのでしょうか。なぜその逆の順番になっているのでしょうか。おそらくそれは、私たちは教会を通して赦しを受け取り、赦しを学んでいくからなのだと思います。

 正義感の強い私たちかもしれません。自己防衛意識が強く、自尊心も低い私たちかもしれません。弱く傷つきやすい私たちは、人を赦さないことによって、自分の身を守ろうとするのです。正義感を持つことも、自尊心を守るということと繋がっていることが多いのではないでしょうか。

 しかし、もしも私たちに、自分を守ってくれる仲間がいたら、どうでしょうか。どんなに傷ついても、その傷に寄り添って癒やしてくれる仲間がいたなら、どうでしょうか。私たちの価値を認めて、大切に愛してくれる仲間がいたなら、どうでしょうか。また、正義感を振りかざして人をさばきたくなってしまう時に、「本当は私たちだって、人をさばけるほど正しくない」ということに気づかせてくれる、そんな仲間がいたら、どうでしょうか。

 ChatGPTがもう一つ、赦すことが苦手な人の特徴として挙げていたことがありました。それは、「赦しを見本として学んだ経験が少ない」ということでした。「家庭や周囲の人間関係で「赦し」より「報復」が普通だった場合、赦しのモデルを知らずに育つ」というのです。もしも身近な人が離婚を経験していれば、「夫婦でさえも赦し合えないものなのか」と諦めてしまうかもしれません。ドラマや漫画を見ていても、復讐劇が人気を得やすいように思います。その反対に、人と人とが赦し合う物語は、どこか非現実的であるかのように思えるのかもしれません。

 そうだとすれば、赦しの見本を示すということも、教会の役割であるはずです。教会は、イエス様の十字架を指し示します。十字架こそが赦しのモデルです。教会とは、赦しの学校です。生身の人間と生身の人間が、時には互いのことを嫌いになったりしながらも、しかしともに十字架を見上げながら、赦し合うことについて学んでいく学校です。

 少し昔のことですが、私は長い間、ある親しい友人を赦せずにいたことがありました。その人がしたことが、どうしても赦せなかった。気にしないようにしようと思っても、どうしてもそのことを考えてしまう。その人との関係を切ろうと思ったこともありました。それまでの人生で、人を憎むという経験をほとんどしてこなかった私にとって、赦せない思いを抱き続けるということは、精神衛生に支障を来たすことでもありました。確実に心は病んでいました。

 そんな時に、ふと楽になる瞬間がありました。自分自身もまた、人に言えないような罪を犯してきたじゃないか、ということを思い出せた時です。不思議なものです。自分が罪人であることを思い出すと、楽になったのです。でも、しばらくすると、また怒りが湧いてくるのですが。

 今思えば、その怒りについて、赦せない思いについて、誰かに相談すればよかったと思っています。その人を赦せるようにと神様に祈り続けていましたけれども、相談することも必要だったと思います。なぜ私は、人に相談しなかったのでしょうか。友人の罪を誰かに告げ口することになるような気がして、気が引けてしまったということもありましたし、「そんな些細なことで苦しんでいるのか」と思われてしまうのではないか、という恐れもありました。

 でも今、自分自身が牧師になって思うことは、なぜ自分は牧師に相談しなかったのだろうか、ということです。今自分が牧師になって、誰かの相談を受けた時に、「そんな些細なことで苦しんでいるのか」なんて思わないからです。よく相談してくれた、と思うからです。相談相手は牧師でなくても良いでしょう。でも、必ず誰かに、教会の仲間に相談をしてほしいと思います。赦しという厄介な問題は、一人で解決できるような問題ではないからです。まず教会の交わりがあって、それから罪の赦しがあるのです。

 この後、私たちは聖餐式を行います。一つの食卓に着き、一つのパンと杯を頂きます。一つの食卓を囲むということは、顔と顔を合わせて向かい合うということです。時には、その食卓には、本当なら顔も見たくないような人がいるかもしれません。しかしだからこそ、イエス様は一つの食卓に集まるようにと命じられたのです。一つの杯を分かち合うようにと命じられたのです。その杯のことをイエス様は、「罪の赦しのために流される、わたしの契約の血」と呼びました。罪の赦しとは、神様と人間の一対一の関係の中で完結するものではなく、神の民全体との「契約」の中で実現していくものです。私たちは、この聖餐の交わりの中で、教会の交わりの中で、「契約」の中で、赦しを受け取り、赦しを学んでいきます。人と人とが永遠に離れ続ける地獄の生き方ではなく、神の国の生き方を、教会の交わりを通して、ともに学んでいくのです。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。自分の心を守ろうするあまりに、赦すべきだと分かっていても赦せなくなってしまう時、自分の心をともに守ってくれる教会の仲間がいることを思い起こさせてください。正義感のゆえに人を赦せなくなってしまう時、私たち自身の罪深さを知ってもなお受け入れてくれている教会の仲間がいることを思い起こさせてください。教会を信じる信仰の中で、私たちが罪の赦しをも信じることができるように、聖霊様の豊かな助けをお与えくださいますようお願いをいたします。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。