第一コリント15:35-44「からだのよみがえり」(使徒信条㉓|宣愛師)

2025年10月12日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『コリント人への手紙 第一』15章35-44節


35 しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。
36愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません。
37また、あなたが蒔くものは、後にできるからだではなく、麦であれ、そのほかの穀物であれ、ただの種粒です。
38 しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。
39 どんな肉も同じではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違います。
40 また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、
41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。
42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、
44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。


「どのようなからだで」

 週報のコラムに書きましたように、同盟教団の研修会に参加しまして、盛岡みなみ教会の今後の宣教についてもあれこれと考えています。その中で、自分自身の説教のスタイルも少しずつ変えていけたらと思い始めています。これまでは、週報にはアウトラインを載せ、スライドには引用する文章を映して、という形でした。こうしたほうが丁寧だとは思うのですが、説教の内容が始めから決まりきっているような感じがして、お勉強っぽくなってしまって、神様のみことばが今ここで語られる、聖霊様が今ここで働いてくださっている、という感覚が失われてしまう気もしました。そこで今日は、いつも通り原稿は書いていますけれども、アウトラインもスライドも無しにして、聖霊様の導きにおゆだねしながら、ご一緒にみことばに聴いていきたいと思います。

 さて、突然ですが、皆さんは「こんな身体、脱ぎ捨ててしまいたい」と思ったことはないでしょうか。身体というのは厄介なものです。若くて健康な頃には元気に動いていた身体が、病気や怪我を重ねながら、段々と動かなくなっていく。肌は衰え、筋肉は弱り、腰は曲がり、苦痛に悩まされるようになる。かといって、若い人は若い人で大変です。思春期になれば、身体のあちこちが変化していきます。頼んでもいないのに形が変わったり、勝手に毛が生えてきたりして、自分の身体が自分の身体ではないように思えてくる。見た目が気になってしまって、人と比べて、自分が嫌いになっていく。「こんな身体、脱ぎ捨ててしまいたい」と思うようなことさえある。

 こんなふうに自分の身体が嫌いになると、私たちは二種類の危険な道に進んでしまいがちです。一つは、性的な関係によって自分の身体の価値を高めようとする道です。自分の身体の価値を、性的な肉体関係によって認めてもらおうとするのです。二つ目の道は、バーチャルな世界に逃げ込むことです。インターネットの世界、もしくは仏教的な瞑想の世界に逃げ込んで、身体という現実そのものを忘れ去ろうとするのです。

 コリント教会の人々も、「こんな身体、脱ぎ捨ててしまいたい」と考えていました。コリント人を含めて、当時のギリシャ系の人々は、“霊肉二元論”という考え方を持っていました。「身体」はどうでもよくて、「霊」こそが重要だ。「身体」はいつか滅びるけれども、「霊」は永遠に続くのだ。「身体」は天国に行けないけれども、「霊」は天国に行けるのだ。

 なので、コリント教会の人々は、「からだのよみがえり」を信じませんでした。35節に書かれているように、彼らは言いました。「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」――もし身体が復活してしまうのだとすれば、再び病気や怪我に悩まされてしまうではないか。せっかく復活しても、再び衰えていくだけじゃないか。それなのにどうして、「からだのよみがえり」なんてものを信じるのか。こんな身体、一刻も早く脱ぎ捨ててしまいたいのだ。二度とこんな身体に悩まされたくはないのだ。


「愚かな人だ」

 そのように考えるコリント教会の人々に対して、パウロは、「愚かな人だ」と言います。「愚かな人」というのは、「頭が悪い人」という意味ではありません。「馬鹿だなあ」という悪口ではありません。聖書の中で「愚かな人」という言葉が使われる時、そこで意味されているのは、「神の力を過小評価している人」という意味です。たとえば、詩篇92篇では次のように書かれています。


5 よ あなたのみわざは
なんと大きいことでしょう。
あなたの御思いは
あまりにも深いのです。
6 無思慮な者は知らず
愚か者にはこれが分かりません。

 復活を信じないということは、神の力を過小評価することです。人間には計り知ることのできないほどに偉大なことをなさる神を過小評価するのです。もし、何も無いところからこの宇宙の全てをお造りになった神がおられるのなら、死んだ人間を復活させることだってできるはずです。それを信じないあなたは「神の力を過小評価する愚かな人だ」とパウロは言うのです。

 では、「もし身体ごとよみがえってしまったら、再び衰えてしまうじゃないか」という問いについては、パウロはどう答えるのでしょうか。36節から38節で、パウロは植物を例に挙げます。麦の種が撒かれると、やがて麦の穂が実る。種と穂はたしかに連続したものだけれども、しかし全く異なる性質をしている。それと同じように、今の身体と復活の身体は、連続したものだけれども、しかし全く異なる性質なのです。また39節から41節では、パウロは動物や星々などを例に挙げます。人間の肉、獣の肉、鶏の肉、魚の肉は、それぞれが同じ「肉」でも、異なる性質を持っている。太陽や月や星々も、同じように輝いて見えるとしても、実際にはそれぞれが異なる性質を持っている。それと同じように、私たちの今の身体と復活の身体は、どちらも同じ「からだ」ではあるけれども、しかし異なる性質を持つ「からだ」なのだ。

 「そんなことがあり得るだろうか」と疑いたくなります。今の私たちと同じ「からだ」なのに、しかし異なる性質を持つ「からだ」が与えられる。そんなことがあり得るのだろうか。そんなことを信じるくらいなら、「死んだあとに霊や魂が天国に行く」というほうがよほど信じやすい。問題は、神の力をどこまで信じるか、ということです。神のみわざが分かるか、ということです。


「御霊のからだ」

 42節と43節では、パウロは今の私たちの身体のことを、「朽ちるもの」「卑しいもの」「弱いもの」と呼びます。「卑しいもの」と訳されているギリシャ語は、「恥の多いもの」という意味です。先ほども申し上げたように、私たち人間は若い頃にも、歳を重ねても、自分の身体を恥じるということがあります。しかし、この「恥の多い」身体も、「朽ちないもの」「栄光あるもの」「力あるもの」によみがえる。神の力によって造り変えられる。

 また、44節でパウロは、今の私たちの身体のことを「血肉のからだ」と呼びます。そして、復活の身体のことを「御霊のからだ」と呼びます。「血肉のからだ」「御霊のからだ」と聞くと、「物質的で肉体的なからだ」と「非物質的で幽霊みたいなからだ」をイメージするかもしれません。しかし、「血肉の」とか「御霊の」と訳されているギリシャ語は、「血肉によって動かされる」「御霊によって動かされる」というニュアンスのことばです。つまり、「血肉のからだ」は、「人間の血肉の欲望によって動かされるからだ」のことであり、「御霊のからだ」というのは、「御霊によって動かされるからだ」です。どちらも物質的な身体なのですが、動かしている原動力が違うのです。

 先週の月曜日、姜旲憬(かん できょん)先生の告別式に参列してきました。棺に入った旲憬さんの身体を見て、涙が出てきました。そこにはまさに、「朽ちるからだ」がありました。39歳だった旲憬さん。あんなにふくよかだった旲憬さんの身体が、がん細胞に侵されて、みるみるうちに痩せてしまって、ついに動かなくなった。

 告別式の最後、旲憬さんのお姉さんによる挨拶がありました。普段は韓国に住んでいるお姉さんは、ご自分のお子さんに食べさせる食べ物について、必ず放射能の数値を確認するほどだったそうです。だから、自分の弟があの福島の、しかも沿岸部の教会に行くと聞いた時には、正直行かないでほしいと思った。そして、弟ががんになったと聞いた時には、「そこから出てこれないの? どうしてそこに留まり続けるの?」と問い続けた。しかし、弟からの返信はなかった。

 そんな中で、弟の命がもう長くないと聞いて、お姉さんは日本にやって来た。そして、福島の教会の人々と関わる中で、弟がなぜ福島を離れようとしなかったのかがようやく理解できた。そして、「そこから出てこれないの?」という言葉が弟をどれだけ深く傷つけていたのかが分かった。旲憬さんが亡くなる数日前、お姉さんは謝罪の連絡をしたそうです。「今まで、旲憬の気持ちが分からなくて本当にごめん。」すると返事が帰ってきた。「主よ、感謝します。ハレルヤ!」

 旲憬さんががんになったことと、福島の放射能との関係があったのかどうかは、私には分かりません。しかし、再発を繰り返しながらも福島を離れようとしなかった旲憬さんが、文字通り自分の身体を犠牲にして、最後まで福島の人々を愛し続け、最後まで説教壇でみことばを語り続けたことは確かです。「そこから出てこれないの? どうしてそこに留まり続けるの?」―――人間の理屈では説明し切れない何かが、旲憬さんを動かしていたのだと思います。旲憬さんの身体はもうすでに、この世で生きていた時にもすでに、御霊によって動かされ始めていたのだと思います。

 「血肉」によって動かされてしまう私たちの身体は、自己中心で、罪の誘惑に負けやすい身体です。疲れやすく、弱く、やがて朽ちていく身体です。しかし、イエス様を信じるならば、この朽ちていく身体でさえも、御霊によって動かされるのです。復活を待ち望む私たちは、「こんな身体、脱ぎ捨ててしまえればいいのに」と諦めてしまうのではなく、「こんな身体でいいなら、イエス様のために用いていただきたい」と思えるようになっていくのです。

 「われはからだのよみがえりを信ず」という使徒信条の告白は、「からだ」というものの重みを信じる告白です。「最後にはどうせ脱ぎ捨ててしまうようなものだから」と、自分の身体や隣人の身体を軽んじてしまうような生き方ではなく、「神様が与えてくださった大切なもの」と信じて、自分自身を、隣人を、その身体ごと大切にする生き方です。「あなたは大切な人だ」ということを、その人の不完全な身体さえも見つめながら、心から伝えることができます。性的な逸脱によって自分の価値を確かめたり、バーチャルな世界で自分探しをする道ではなく、互いの身体の弱さ醜ささえも受け入れ合いながら、互いの存在を丸ごと喜び合いながら、ともに生きていく道を選ぶのです。それこそが、「からだのよみがえりを信ず」と告白する、私たちの信仰の歩みです。私たち盛岡みなみ教会は、このよみがえりの信仰をともに生きていくのです。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。自分自身の身体も、隣人の身体も、かけがえのないものとして、大切に愛することができますように。衰えや、醜さや、弱さのゆえに、自分では到底受け入れることのできないこの身体も、神に愛され、死んでもなお生かされる身体であることを信じ、それゆえに隣人の弱い身体をも愛していくことができますように。自らの身体を受け入れることに悩み、危険な道を歩んでいる人々が、安心して身を置くことのできるような愛の交わりを、私たちの教会のうちにもお造りくださいますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。