ルカ18:28-30「とこしえのいのち」(使徒信条㉔|宣愛師)

2025年10月19日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ルカの福音書』18章28-30節


28 すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分のものを捨てて、あなたに従って来ました。」
29 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は、
30 必ずこの世で、その何倍も受け、来たるべき世で、永遠のいのちを受けます。」


「不死」 を求めた王:ギルガメシュの物語

 『ギルガメシュ叙事詩』という物語をご存知でしょうか。世界で最も古い物語の一つと言われています。主人公のギルガメシュは偉大な王様であり、英雄でした。ところが、彼の親友が死んでしまったことをきっかけとして、彼は死の恐怖に取り憑かれてしまいます。そして、「永遠のいのち」を求めて旅を始めたのです。しかし、その旅を通して彼が知ったことは、残酷な真実でした。「永遠のいのちは神々のもの。人間が手に入れることはできない。」

 この物語の最後の部分には、自分が王として治める町を眺めるギルガメシュの姿が描かれます。自分が建てた町の城壁や神殿、畑や果樹園を眺めるのです。彼はきっとこう思ったのでしょう。「この町こそ、私の永遠だ。たとえ私が死んでも、この町が私の名を残してくれる。」

 人間は、永遠には生きられないと悟ったとき、この世界に何かを残すことによって、「永遠のいのち」を作り出そうとします。ある人は建物を建て、ある人は書物を書くことによって、自分の存在が消えないようにと願う。そして特に、子孫を残すということによって、人類は自分という存在を永遠に残そうとしてきました。「家族を持たなければ幸せにはなれない」「子どもを産めない女性は神に祝福されていない」―――そのような考え方の裏には、「永遠のいのち」を求める人間の切実な思いがあるのかもしれません。

 ところが、イエス様は言われました。「だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は、必ずこの世で、その何倍も受け、来たるべき世で、永遠のいのちを受けます。」―――当時の人々にとって、家族を持つということは何よりも大切なことでした。家族というコミュニティに属することによって、経済的な安全を確保することができるだけでなく、宗教的にも神の祝福を頂けると信じられていたからです。いつか自分が死んでしまったとしても、家族が自分の名前を残してくれて、神の祝福を受けられるようにしてくださる。

 それは逆に言えば、家族を持たない人は社会から孤立してしまっても仕方がない、神の祝福を受けられなくても仕方がない、ということでもありました。それが当時の常識だったのです。ところがイエス様は、そんな古い時代の価値観は捨ててしまいなさい、と仰るのです。誰かを孤立させてしまうシステムになんて、そんなものは神の国のために捨ててしまいなさい。

 イエス様が示されたのは、新しい生き方でした。家族を持つこととは全く関係なしに、「永遠のいのち」を受け取る道がある。しかも、いつの日か「永遠のいのち」が頂けるというだけではなくて、今すでに、「この世」においても、家族の祝福を「何倍も受け」ると言うのです。


「わたしの母、わたしの兄弟たちとは」

 家族を捨てたはずの人に、何倍もの家族が与えられる。それは一体どういうことなのでしょうか。ルカの福音書8章21節で、イエス様は次のように仰りました。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」イエス様にとっての「母」とは、イエス様にとっての「兄弟」とは、血がつながった家族のことではなく、「神のことばを聞いて行う人たちのこと」でした。

 私たち盛岡みなみ教会にも、色々な家族が集っています。夫婦で教会に来る人もいれば、子育て世代の家族もいます。そのような教会は幸いであると思う一方で、「家族連れの多い教会では、独身の人が寂しく感じることがある」という声を聞くこともあります。Kくんが時々、「美人の奥さんがいるプロテスタントの牧師よりも、独身のままで働くカトリックの神父のほうが、宗教的な説得力を感じる」と冗談っぽく言うのですが、それはあながち間違っていないのかもしれません。家族を大切にすることによって、誰かに寂しい思いをさせているのだとすれば、私たちは今一度、イエス様が教えてくださった神の家族とは何であるのかを問い直すべきなのだと思います。

 それと同時に、独身者の方々にもぜひ、同じ問いについて考えていただきたいと思うのです。「神の国のために家を捨てた者は、必ずこの世でその何倍も受ける」というイエス様のみことばが、家庭を持たなければ幸せになれないというこの世の常識とはどれだけ異なっているかを考えていただきたいのです。教会の中に家族を持つ人と家族を持たない人がいるのではなく、教会こそがまことの家族なのだと語られたイエス様のみことばを、今一度思い起こしていただきたいのです。「あの人たちには家族のいない自分の気持ちなんてわからない」と切り捨ててしまうのではなくて、「どうすれば自分はあの人たちと本当の家族になれるだろうか」と問い、愛し合う道を選んでいただきたいのです。


「永遠のいのち」:神の国のライフスタイル

 「永遠のいのち」と聞くと、私たちは死後の世界を思い浮かべるかもしれません。「死んだ後にいただける、いつまでも続くいのち」みたいなイメージを持つかもしれません。けれども、聖書が教える「永遠のいのち」とは、ただ単に「いつまでも続くいのち」ではありません。「永遠のいのち」の本質的な意味は、「永遠の神の国のライフスタイル」ということです。いつかは滅びてしまうような古い時代の生き方ではなく、永遠に続く神の国のライフスタイルに生きる、それが「永遠のいのち」ということの大切な意味です。

 古い時代の生き方とは、偉大な業績を残すために生きるとか、自分の名前を残してくれる子孫を残すために生きる、という生き方です。もちろん、業績を残すことも、子孫を残すことも、それ自体は素晴らしいことです。しかし、永遠に続く神の国の生き方は、業績とか子孫とかいう枠組みを越えて、私たちが互いの存在を喜び合い、互いに愛し合う生き方です。

 ヨハネの手紙第一の3章14節には次のように書かれています。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。」主にある兄弟姉妹を愛すること。家族や血筋という古い世界の枠組みを超えて、互いに愛し合うこと。これこそが「永遠のいのち」の証しです。「あの人たちには独り身の気持ちはわからない」と言われて、「独り身の人たちには家族で生きる大変さはわからない」と言い返すのは簡単です。しかし、主イエスの恵みによって、「死からいのちに移った」私たちは、もう古い生き方はしないのです。私たちはもうすでに、永遠のいのちを生きているからです。

 2月から続けてきた使徒信条の学びも、今日で最後となりました。「われは信ず」から始まり、「父なる神」「ひとり子イエス」「聖霊」について学んできました。全部で24回の学びを終えて、私がいま率直に感じていることは、この使徒信条の一つ一つの告白はすべて、「とこしえのいのち」につながっているということです。「全能の父なる神」がいるから、私たちは家族や血筋という壁を超えて、大きな家族をつくることができる。主イエスの「よみがえり」があるから、この世の絶望を超える希望に生きることができる。「聖霊」がともにいてくださるから、私たちは古い時代の生き方に縛られることなく、互いに赦し合い、愛し合うことができる。

 ですから私たちは、この信仰をこれからも告白し続けたいと思います。皆で声を合わせて、「われはとこしえのいのちを信ず」と告白するたびに、そして「アーメン」と告白するたびに、私たちが永遠に続く神の家族であるということを喜びたいと思います。永遠の神の国の喜びが、今日ここに、この教会の交わりのうちに、すでに始まっている。新しい時代の生き方、永遠の神の国のいのちが、すでにここに始まっている。そのことを喜びつつ、このいのちを与えてくださった神を、私たちの父なる神を、これからもご一緒に礼拝し続けたいと思います。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。歴史に名を残すような偉業を成し遂げる必要もなく、血筋や家系によってこの世に記憶を刻む必要もなく、ただ主イエスによって与えられる永遠のいのちを、喜んで受け取ることができますように。いまだ私たちのうちに根強く残る古い生き方を取り除いてください。そして、永遠に至る神の家族の交わりの中で赦し合い、愛し合う道へとお導きください。どうか私たちに、死からいのちに移されていることの幸いを味わわせ、このいのちに日々生きることの喜びをお与えくださいますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。