ハバクク2:18-20「前奏」(礼拝式シリーズ①|宣愛師)
2025年10月26日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
旧約聖書『ハバクク書』2章18-20節
18 彫像はいったい何の役に立つのか。
彫刻師がそれを刻んだところで。
鋳像や、偽りを教える物は何の役に立つのか。
これを造った者がそれに頼ったところで。
その者は、もの言わぬ偽りの神々を造ったのだ。
19 わざわいだ。
木に向かって目を覚ませと言い、
黙っている石に起きろと言う者。
これが教えることができるというのか。
見よ、それは金や銀をかぶせたもの。
その中には何の息もない。
20 しかし主は、その聖なる宮におられる。
全地よ、主の御前に静まれ。
礼拝式次第シリーズ
先週で「使徒信条」の説教シリーズが終わり、今日から「礼拝式次第」のシリーズが始まります。第一回の本日は「前奏」です。盛岡みなみ教会の日曜礼拝では、礼拝開始時刻の10時半になると司式者が次のように言います。「おはようございます。ただ今より日曜礼拝を行います。ピアノの前奏が鳴りますので、心を静め、心を天に向け、主をお迎えする備えをいたしましょう。」
ところが、ピアノの奏楽が流れている間、私たちは一体何をすれば良いのでしょうか。とりあえず静かにしてみます。目を閉じてみて、心の中で祈ってみたりします。しかし、「主をお迎えする備えをいたしましょう」と言われても、一体どんな備えをすれば良いのだろうかとも思うのです。
このような戸惑いは「前奏」に限ったことではありません。ピアノの前奏が終わると、今度は「招詞(招きのことば)」が語られます。でも、これには一体どのような意味があるのだろうか。「招きのことば」が終わると、「賛美」が始まります。「よし、ようやく歌の時間だ」と嬉しくなったりもしますが、「ところで、賛美とは何ですか?」と問われたら、戸惑ってしまったりもします。
今日から始まるシリーズを学ぶ中で、これまではなんとなく過ごしてしまっていたかもしれない礼拝プログラムの時間が、これまで以上にかけがえのない時間となることを期待しています。
「偶像を心の中に秘め」
預言者ハバククは叫びました。「彫像」「鋳像」「もの言わぬ偽りの神々」―――これらの言葉を聞いて、私たちクリスチャンが真っ先に思い浮かべるのは、エジプトやバビロンやギリシャの神々、もしくは、仏教のお寺に置かれている仏像や、色々な建物に置かれている神棚のようなものかもしれません。「ああ、世の中はこんなにも多くの偶像で溢れててしまっている。しかし私たちクリスチャンは偶像を拝まず、ただまことの神様だけを礼拝している」と思うかもしれません。
ところが実は、聖書が語る“偶像”というのは、目に見える「彫像」や「鋳像」のことだけではないのです。たとえば預言者エゼキエルは語ります。人々は「偶像を心の中に秘め」ている(エゼキエル14:3)。使徒パウロも語ります。「貪欲は偶像礼拝です」(コロサイ3:5)。ハバクク書の1章11節にもこう書かれています。「自分の力を神とする者は、責めを負う」―――目に見える像を拝むことだけが「偶像礼拝」なのではありません。「偶像礼拝」とは、まことの神様以外の何かを信じ、自分の人生をささげることです。「これさえあれば自分は幸せだ。これがなければ自分は不幸だ」という信仰を、まことの神様以外の何かに向けてしまうこと、それが偶像礼拝です。
たとえば、「お金」という偶像がいます。もし私たちが、「お金さえあれば自分は幸せだ。お金がなければ自分は不幸だ」と考えるなら、「お金」という偶像を信頼し、「お金」という偶像を愛し、「お金」という偶像に支配されていると言えます。「人生設計」という偶像もあります。「私が望む通りの人生になれば私は幸せだ。思い通りにいかなければ私は不幸だ」と考えるなら、その人は自分が作った「人生設計」という偶像を拝んでいるのです。自分の子どもを「偶像」にする人もいます。「この子の人生が成功すれば、親である私の人生も報われる。この子がどこかで挫折したりすれば、親である私の人生も失敗に終わってしまう。」そのほかにも、「美しさ」という偶像もいれば、「権力」という偶像もあり、「人から褒められること」という偶像もいます。
それらの偶像が上手く機能してくれれば、私たちの人生も上手くいくように見えます。しかし、偶像が上手く機能してくれないこともあるのです。そんな時は、古来より人類は、偶像の形を整えてみたり、偶像に献げるささげものを増やしてみたりする。それでも上手くいかない。「なぜだ。祈ったのに、捧げ物もささげたのに、なぜ雨を降らせてくれないのか。なぜ私たちの思い通りにしてくれないのか。なぜ言うことを聞いてくれないのか。」偶像を拝みつつ、焦りを募らせる。
そんな人間の姿について、預言者ハバククは語ります。「わざわいだ。木に向かって目を覚ませと言い、黙っている石に起きろと言う者。」―――現代の偶像礼拝も同じではないでしょうか。「お金」という偶像を拝む人は、お金がなかなか貯まらなければ、さらに努力をしようと心がけます。「人生設計」を拝む人は、自分の計画通りに物事が進まない時には、時間や体力や人間関係をさらに犠牲にしようとします。「子ども」の成功に人生のすべてを賭ける人は、「どうして私の言う通りにしないの?」と子どもに当たったり、「自分は親として失格なのではないか」という焦りに苛まれます。上手くいかなければ、偶像へのささげ物を増やし、時間や労力をさらに注ぎ込み、「目を覚ませ」「起きろ」「頼むから私を幸せにしてくれ」と騒ぎ立てるのです。
「全地よ、主の御前に静まれ」
私たちクリスチャンも、表向きにはまことの神様を礼拝しているように見せながら、心の中では偶像を礼拝しているのではないでしょうか。「どうすれば私の人生はうまくいくのだろうか」という焦りや不安を抱えながら、私たちは毎週日曜日の朝、教会に集まって来るのではないでしょうか。だからこそ私たちは、「主をお迎えする備えをいたしましょう」という呼びかけを聞かなければならないのです。「主は、その聖なる宮におられる。全地よ、主の御前に静まれ。」
「静まれ」と訳されているヘブル語「ハス」は、日本語の「しーっ」という感嘆符に相当します。「ハス、しーっ、静かに。」なぜ私たちは静まるのか。それは、私たちの頭の中から偶像を消し去るためです。あらゆる心配や思い煩いでざわざわしている私たちの心を、「静まれ」という掛け声とともに、まことの神様に向け直すのです。
「前奏」の持ち方は、教会によって異なります。10時半から礼拝が始まる場合、10時20分くらいから前奏が始まり、しばらく静まってから礼拝が始まる、という教会もあります。一方で、礼拝開始前には必ずティータイムを設けて、明るい雰囲気で礼拝を始めることを大切にする教会もあります。どちらも大切だと思うので、盛岡みなみ教会は、ちょっとずるいかもしれませんが、いいとこどりができたらと思っています。10時半の礼拝開始までは、なるべく明るい雰囲気で互いに挨拶を交わし、神の家族との再会を喜び、初めての方も含めて、互いの存在を喜び合う時を持ちたい。しかし、10時半に司式者が礼拝開始の宣言をし、前奏が始まるならば、「しーっ、静かに。」
ハバクク書の注解書を書いたデイヴィッド・ベーカーという聖書学者は次のように語りました。「どれだけ大騒ぎして近づいても、いのちのない偶像は沈黙する。しかし生ける神は、人間が沈黙と崇敬を持って近づくとき、語り始められる。」まことの神様には、「目を覚ませ」「起きろ」と騒ぎ立てる必要も、ささげものを増やす必要もなく、ただ恵みとあわれみによって、私たちと出会ってくださるお方です。私たちが静まるとき、偶像たちは沈黙し、まことの神は語り始めます。
ピアノの「前奏」が流れ始めた時、私たちは一体何をすべきか。もう答えは出ているはずです。礼拝における「前奏」とは、単に心を落ち着かせるだけの瞑想の時間ではありません。礼拝における「前奏」とは、偽りの神々の支配から解き放たれ、まことの自由と平安を取り戻す時間です。
お祈りをささげる前に、今からしばらくの間、沈黙の時を持ちたいと思います。私の心のうちにある偶像は何だろうか。「これさえあれば幸せだ」「これがなければ不幸だ」と思い込み、時間や体力やお金を注ぎ込んでしまっている偶像は何だろうか。私はこれからもその偶像に頼って生きていくのだろうか。私が本当に信ずべきお方はどなただろうか。しばらく沈黙をしましょう。
祈り
私たちの父なる神様。偽りの神々に溢れる世の中で一週間を過ごせば、私たちの心のうちには様々な偶像が入り込んできます。しかし、毎週の日曜日の朝、あなたのもとに帰って来る時、あなたの御前に出る時、「静まれ」というあなたの声によって、私たちのうちにある偶像を取り除いてください。どうか私たちが、偶像の機嫌を伺いながら生きる一週間ではなく、まことの神の愛と恵みの中で生かされる一週間を始めることができますように。まことの自由と平安を生きることができますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

