2026年3月

週報コラム
No.203【受難週の謎】

◆主イエスの十字架の歩みを覚える“受難週”が始まりました。子ろばに乗ってエルサレムに入城された“棕櫚の日曜日”から始まり、神殿で商売人たちを追い出した“宮きよめ”の月曜日、世の終わりについて予告した“オリーブ山講話”の火 […]

続きを読む
聖書の説教
Ⅱコリント13:11-13「祝福・後奏」(礼拝式シリーズ⑪|宣愛師)

・・・・・・祝福の反対は「呪い」です。呪いとは、存在を否定することです。「邪魔だからあっち行って」「あの人さえいなければいいのに」「マジで消えてほしい」―――学校の教室で、職場で、SNSの世界で、そして時には家庭の中でさえ、存在を否定する呪いの言葉が飛び交うのです。……だからこそ私たちには、「あなたがいてくれて嬉しい」という祝福が必要なのです。祝福とは、単なるきれい事ではありません。いのちに関わる一大事です。生きるべきか死ぬべきか。生まれてきて本当に良かったのか・・・・・

続きを読む
週報コラム
No.202【「筋トレし始めたらなんとかなったよ!」】

◆教団総会のために東京へ。長時間の会議は大変でしたが、前日にマッチさんと会ったり、総会の休憩時間にフーミンとお喋りしたりと、楽しい二泊三日でした。神学校の友人たちと両国のマクドナルドで語り合った際は、それぞれの教会のこと […]

続きを読む
聖書の説教
ローマ11:33-36「頌栄」(礼拝式シリーズ⑩|宣愛師)

・・・・・・〈神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。〉―――パウロはかなり危険なことを言っていると思います。まるで、「神様がすべての人に罪を犯させたのだ」と言っているようなものです。もちろんパウロはそう言いたいわけではありません。私たち人間が罪を犯すのは神様のせいではありません。しかしパウロは、そうやって私たちが犯す罪さえも、神様は神様のご計画のために用いてくださるのだと言いたいのです。ユダヤ人もギリシャ人も、アメリカ人もイラン人も、日本人も韓国人も中国人も、神はすべての人を罪に閉じ込めた・・・・・

続きを読む
週報コラム
No.201【「あなたを愛している」「だったらどうして…?」】

◆KGK東北地区の春期学校に“協力者”として参加しました。恋愛について、進路について、信仰について、真剣に悩む学生たちとともに、文字通り夜中まで(一日目は午前3時まで、二日目は午前4時まで!)語り合い、体力を使い果たして […]

続きを読む
聖書の説教
ヨハネ12:12-19「ろばの子に乗って」(まなか師)

・・・・・・今日、この場所には、朝早くから家族のために食事を整えた方がおられます。あるいは、明日からの仕事場で、誰に評価されるわけでもないけれど、黙々と責任を果たそうとしている方がおられます。時に私たちは「自分の人生、こんなことの繰り返しでいいのだろうか。もっと自分を高く評価してくれる場所があるのではないか」と焦りを感じることがあります。けれども、イエス様がろばに乗って私たちのところに来られたのは、そのような「目立たないけれども人に仕える歩み」の中にこそ、本当に価値ある生き方があることを示すためでした・・・・・・

続きを読む
週報コラム
No.200【「二百人」の恵み】

◆200回目のコラムということで、聖書ソフトで「二百」と検索したら、『サムエル記 第一』の30章が目に留まりました。ある日、アマレク人によって家族や財産が略奪されてしまった。ダビデは六百人の仲間たちを引き連れて、急いで略 […]

続きを読む
聖書の説教
ヤコブ1:19-25「応答」(礼拝式シリーズ⑨|宣愛師)

・・・・・・ところが、「自分はみことばをちゃんと聞いているのに」という怒りが湧いている時、私たちは実は、聞いているようで聞いていないのです。みことばを「聞く」ということは、なによりもまず自分へのことばとして「聞く」ということです。それなのに、聖書を読んでいる時に、自分ではない誰かのことばかり考えている。「聖書にはこう書いてあるのに、どうしてあの人はあんな生き方しかできないんだろう」と、人をさばきながら聖書を読む。説教を聞いている時にも、「おお、この説教はまさにあの人のことだ。これを聞けばあの人も悔い改めるに違いない」と思って、礼拝堂の中でちらっとその人のほうを見てみたりする・・・・・

続きを読む
週報コラム
No.199【教会総会】

◆今日は年に一度の教会総会。過ぎた一年を振り返りつつ、新しい一年について話し合う大切な時間です。2025年のテーマは「希望を語るために」(第一ペテロ3章15節)でした。「あなたは何を信じているの?」「なぜそれを信じられる […]

続きを読む
聖書の説教
Ⅰコリント1:18-25「神の弱さは人よりも強い」(「弱さ」シリーズ③|宣愛師)

・・・・・・ニーチェはこう考えました。キリスト教では“敵を赦すこと”を教えている。しかし、彼らは本当は敵を赦そうとしているのではない。彼らは、自分よりも強い人間に反撃する力がないから、仕方なく赦したことにしているだけだ。心の奥底では、『いつか神様があいつらを地獄に落としてくださる』と復讐心に燃えているのだ。キリスト教は、「弱さ」を善とみなし、「強さ」を悪とみなす“奴隷道徳”の上に成り立っている。本当は人間はもっと強くならなければならないのに、キリスト教は人々を堕落させ、弱いままで満足させ、社会を腐らせる諸悪の根源なのだ、と・・・・・

続きを読む