ルカ10:38-42「黙想」(礼拝式シリーズ⑫|宣愛師)
2026年4月19日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ルカの福音書』10章38-42節
38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
神の国の驚き:男も女も主の足もとに
マルタという女性がいました。彼女にはマリアという姉妹がいました。どちらが姉か妹かははっきり分からないのですが、マルタはこの家の主人のような立ち振舞いをしているので、おそらくマルタがお姉さんだったのでしょう。父親や母親はすでに亡くなっていたのかもしれません。マルタはこの家の長女として、女主人として、イエス様とその弟子たちを迎え入れました。
一方で妹のマリアは、イエス様の足もとに座っていました。イエス様がお語りになる神の国の福音を、熱心に聞き続けていました。これは、当時の社会では異常なことでした。男女差別が当たり前だった当時の社会では、勉強というものは男性たちがするものであって、女性が勉強をする必要などない、と考えられていました。女たちは台所で料理を作っていればいいのだ。家の掃除をしていればいいのだ。政治や宗教に関する大事な話は男に任せておけばいいのだ。
しかしマリアはイエス様の足もとに座り、男性の弟子たちと一緒になって、イエス様の教えを聴いていたのです。そしてイエス様も、「おまえは女なんだから台所に行きなさい」なんてことは言わないのです。身分が低いとされ、見下されていた女性たちが、神の教えを喜んで学んでいる。この光景そのものが、神の国の新しさでした。社会をひっくり返すような、驚くべき光景でした。
マルタの苛立ち:「やっぱり女は台所へ!」
ところが、そんなマリアの姿にイライラし始めたのがマルタでした。もともとはマルタも、妹がイエス様の話を聞くことを喜んでいたのではないかと思います。イエス様の弟子となった妹の姿を見て、「すごい、これが神の国なんだ」とワクワクしていたのだと思います。「神の国では、女性が差別されることもない。身分の低い人が蔑まれるようなこともない。こんなにすばらしい神の国のために、私も何かお手伝いがしたい。」そう思って、マルタはイエス様たちを家に招き入れ、食事の準備をしていたのでしょう。もしかしたら、「イエス様がどんなお話をなさっていたのか、あとでマリアから教えてもらおう」なんてことも思っていたかもしれません。
しかし、最初は喜んでおもてなしの準備をしていたマルタも、忙しさの中で、慌ただしさの中で、次第に苛立ちが募ってくるのです。そしてついに、イエス様に文句を言ってしまう。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか」―――性別や身分を超越する神の国に感動し、この神の国のためならと喜んで奉仕していたはずのマルタが、まるで神の国を捨ててしまったかのように、マリアを台所に引き戻そうとするのです。女性は勉強なんてしないで台所にいるべきだという古い価値観に、マルタは妹を引き戻そうとしてしまう。
これはマルタの本心ではなかったと思います。でも、いろいろな気配りに疲れが溜まって、本当なら喜びであったはずの奉仕が、苦痛になってしまった。自分で喜んで選んだ奉仕だったはずなのに、いつの間にか「どうして私だけが」という嫉妬や孤独を感じるようになっていた。私たちにも、マルタの気持ちが分かると思います。
「しかし、必要なことは一つだけです」
そんなマルタに、イエス様はお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
イエス様、そんなことを言ったらマルタがかわいそうですよ、と思ってしまいます。しかしおそらく、イエス様のこの言葉を聞いて、マルタははっとさせられたのです。「そうだ、私はこの奉仕を喜んで選んだんじゃないか。妹が神の国の教えを学ぶことは、私にとっても喜びだったはずじゃないか。それなのに私はいつの間にか、昔の価値観に逆戻りしてしまっていた。」
「思い煩って」という言葉は、「心が分かれて」「心がバラバラになって」とも訳せる言葉です。私たちも日々、色々なことで忙しくなると、心がバラバラになってしまいます。会社や学校に行く。大量の仕事をこなす。家で掃除や洗濯をする。教会に行って礼拝をする。様々な奉仕をする。あれもしなければ、これもしなければ。効率よくこなさないと。締切や期限が迫ってくる。あのことも考えなければ、このことも考えなければ。人間関係のことも、将来のことも、あらゆる心配事がのしかかる。そんなバラバラの毎日を送り続ける中で、「ああ、なんでこんなに忙しいんだろう。あれもこれも、一体何のためにやっているんだろう」と、心が分かれてしまう。
しかしそんな時、「必要なことは一つだけです」と、イエス様が語ってくださるのです。そしてマルタは、私たちは、忙しさの中で忘れてしまっていたあの喜びを取り戻していく。何のために職場に行くのか。何のために勉強をするのか。何のために奉仕をするのか。そうだ、私は神の国のために、イエス様のために生きようと決めたんだ―――バラバラだった心が一つになっていく。
神のことばの黙想:すべての意味を定めるために
私も先週はなかなか忙しくて、目が回るような日々を過ごしていました。盛岡短大へ授業に行き、ラブ・ソナタのチラシを作り、バイブルスタディや小グループを開催し、説教の録画を録って青森の教会に送ったりしながら、予想通りこの春二度目の風邪を引き、早めのパブロンを飲み、休み休みで本日の説教を準備し、午後のキッズイースターパーティの準備をし、そのほか様々な連絡業務やタスクに追い込まれながら、「ああ、もうダメだ~」と打ちひしがれておりました。
でも、「必要なことは一つだけ」というイエス様のことばを思い起こす時に、不思議なことに心がふっと楽になるんです。「ああ、何のためにやってるんだろう」というモヤモヤが、ぱーっと晴れるような気がするんです。「そうだ、必要なことは一つだけだ。神の国のためだ。忙しい毎日の、あれもこれもすべて、イエス様が用いてくださるんだ。」そう思えた時に、不思議なことに、忙しさそのものは変わらないとしても、心は平安になり、体には力がみなぎってくる。
先週から、説教の後に「黙想」という時間を持ち始めました。忙しい現代人にとって、何もせずにただ静まるなんてことは、最も無駄な時間だと思われるでしょう。こんなにもやるべきことがたくさんあるのに、教会に来て礼拝をするなんて、効率が悪いにもほどがある!
しかし、忙しいからこそ、やるべきことに追われているからこそ、神のことばを聴いて、静まるのです。すると、心が一つになっていくのです。人生の意味が定まっていくのです。神のことばを聴き、目を閉じて静まる。これを無駄な時間だと言って通り過ぎてしまうなら、的はずれな生き方をしてしまいます。的はずれな生き方の中で、本当は重要ではないことに心を奪われて、ますます忙しくなってしまいます。静まるからこそ、本当に学ぶべきこと、本当に時間を使うべきことが見えてくるのです。それは決して、効率の悪い生き方ではないはずです。
今からしばらくの間、静まる時を持ちたいと思います。なぜこんなにも忙しいのだろうか。大量のタスクをこなし、効率の良い毎日を目指しても、なぜ心が空っぽなのだろうか。私が日々時間を費やしているあれこれは、本当に重要なことだろうか。私のバラバラの心を一つに結びつけてくれる、本当に必要なたった一つのこととはなんだろうか。静まって黙想をいたしましょう。
祈り
私たちの父なる神様。目が回るような慌ただしさの中で、本当に辛いのは慌ただしさそのものではなくて、自分がしていることの意味が感じられないことです。意義が見出だせないことです。「なぜ私だけが」と孤独を感じることです。しかし、どんなに慌ただしい毎日でも、その一つ一つが神の国のために少しでも意味があるなら、バラバラの虚しさはありません。神のことばを聴くために静まり、立ち止まる幸いを教えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

