ヨハネ12:20-26「一粒の麦」(まなか師)
2026年4月26日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』12章20-26節

※録画設定ミスのため、説教の動画はありません
20 さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。
21 この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。
23 すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。
24 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。
26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」
ついにその「時」が来た
私たちの人生には「ついにこの時が来た!」と胸が高鳴る瞬間があります。たとえば、つらい受験勉強の末に合格通知を手にしたとき。あるいは長年追いかけてきた夢の舞台に立ったとき。そこには、光り輝くような喜びと達成感があります。一方で、それとは少し種類の違う「時」もあります。結婚の誓約を交わすときや、我が子の産声を初めて聞いたとき。あるいは、慣れ親しんだ場所を離れて一人で歩き出すとき。それは、新しいステージへの期待とともに、背筋が伸びるような「責任」と「覚悟」を伴う瞬間です。
今日の場面で、イエス様もまた、一つの大きな「時」を迎えておられました。これまでイエス様は「わたしの時はまだ来ていない」と繰り返し口にされてきました。しかし、ギリシア人たちが自分を訪ねてきたという知らせを聞いたとき、ついにこう宣言されます。23節「人の子が栄光を受ける時が来ました」。
弟子たちはこの言葉を聞いて、期待に胸を躍らせたことでしょう。「いよいよイエス様が王座に座り、勝利のパレードが始まるんだ!」と。私たちがイメージする「栄光」も、そのような輝かしい成功者の姿ではないでしょうか。しかし、イエス様が見つめていた「栄光」は、私たちの想像とは正反対のものでした。それは、玉座への階段ではなく、十字架への道でした。人々の拍手の中で頂点に立つことではなく、一粒の麦が地面に落ちて姿を消すように、ご自分のいのちを差し出して、最も低い場所で死ぬことでした。なぜ十字架が「栄光」なのか。それは、最も恥ずべき十字架こそが、神の愛が最も輝く場所となるからです。
どうして、ギリシア人が来たことが、その合図となったのでしょうか。ギリシア人たちがイエス様に会いたいと願ったことは、救いがユダヤ人だけでなく、異邦人にまで広がることの予兆でした。彼らの訪問は、イエス様にとって「ユダヤ人への伝道の段階が終わり、全世界のための十字架へ向かうべき時が来た」という神様からの合図だったとも言えます。
ギリシア人たち、異邦人たちがイエス様に本当の意味で出会うためには、十字架が必要不可欠でした。十字架がなければ、救いはユダヤ人だけのもので、全世界に広がらなかったからです。けれども今や、救いが全世界に広がる時が来た。もはや遠い未来ではない。十字架が目前に迫っている。「よし、すべての人のために死ぬ時が来た」とイエス様は覚悟を決めたのです。
私たちにとって、「栄光を受けるべき時」はいつでしょうか。もちろん私たちには、イエス様のように全世界のために十字架にかかるようなことはできません。しかし私たちも、「栄光を受けるべき時」があるはずです。それは、誰かからほめられたり、何かの賞をもらったりするような「栄光」ではありません。隣人に仕えるという「栄光」です。隣人を愛するために犠牲となるという「栄光」です。私たちがイエス様とともに「栄光を受ける時」はいつでしょうか。その「時」を見逃してはいないでしょうか。
「一粒の麦」
さらにイエス様はこう続けます。24節「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」
一粒の麦にとって、最も安全な場所はどこでしょうか。それは、倉庫の片隅かもしれません。そこなら、土に汚れることも、腐ることもありません。しかし、そのままでは何年経っても「一粒のまま」です。一粒の麦がその使命を果たすためには、暗く冷たい土の下に落ち、死ぬ必要があります。
この「一粒の麦」とは、第一にイエス様ご自身のことです。もしイエス様が「ここで死んでしまうのは嫌だ!」と言って、十字架を拒んだなら、私たちは今も罪の中に留まったままだったでしょう。しかし、イエス様は私たちのために、死なれました。地に落ちて死ぬというのは一見すると悲劇ですが、その死によって、新しいいのちが芽吹き、今ここにいる私たちという「豊かな実」が結ばれたのです。
ある人はこう言います。「イエス様が30歳で死ぬのは早すぎたんじゃないか。イエス様がもっと長生きをしていれば、もっとたくさんの人に福音が伝わったんじゃないか。」しかし、そうではないのだと思います。イエス様がそのいのちを文字通りささげてくださったからこそ、全世界に福音が広がったのです。イエス様は「一粒の麦が、地に落ちて死ぬ」というその「時」を見逃しませんでした。
イエス様の姿は、今日を生きる私たちへの招きでもあります。続く25節で、イエス様はさらに言われました。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。」
「自分のいのちを愛する」とは、自分の人生を自分だけのものとして、ぎゅっと握りしめている姿です。自分が損をしないように、自分が傷つかないように、自分が幸せでいられるように…。私たちは無意識のうちに、自分を守るための硬い「殻」を厚くして生きてはいないでしょうか。しかし、殻の中に閉じこもって自分だけを愛する生き方は、一見守られているようでいて、実は「一粒のまま」の孤独です。そういう生き方をしていては、本当のいのちを失ってしまう。
そして、そういう生き方をしていると、「時」を見逃してしまいます。自分が損をしてでも、誰かを助けなければならない「時」があります。自分が傷ついてでも、誰かに寄り添わなければならない「時」があります。その「時」こそ、私たちの「栄光」であるはずです。しかしもし私たちが、「自分のいのちを愛する」生き方をしているなら、長生きはするかもしれませんが、「栄光」のない人生になってしまいます。人をほどほどにしか愛さず、自分の傷つかない範囲でしか関わらず、いつも自分の幸せばかりを考えている生き方です。そのような人生に本当のいのちはない、とイエス様はおっしゃるのです。
反対に「自分のいのちを憎む」とは、自分の人生を自分だけのものとせず、イエス様と隣人のために用いる生き方のことです。決して、自分を卑下したり、投げやりにしたりするわけではありません。自分にとって得になるもの、安心できるもの、心地よいものを、誰かのために喜んで差し出すことのできる生き方です。損得勘定を超えた新しい生き方です。
皆さんは、初めて教会に来たとき、何を求めていたでしょうか。「心の安らぎを得たい」「良い人間になりたい」「死んだ後の安心が欲しい」。これらはすべて「自分のため」の大切な願いです。信仰の始まりとしては、それで良いのです。けれども、芽が出たばかりの麦が成長するように、私たちの信仰もまた、次のステップへと招かれているのではないでしょうか。
「私のためにイエス様がいる」という段階から、「イエス様のために私がいる」という段階に進みたいと思うのです。自分を生かすためではなく、人を生かすために生きる。隣人のために時間や労力を差し出す。そのとき私たちは初めて「一粒のまま」の孤独から解放されます。自分のいのちを握りしめるのをやめ、イエス様の御手に委ねるとき、そこから周りに豊かな実りが広がっていく。しかも私自身も、死んで終わりではない。隣人のために犠牲を払って終わりではない。むしろ「生きていてよかった」という本当の幸せ、本当のいのちの満足を知る。
「わたしがいるところに、わたしに仕える者もいる」
とはいえ、一粒の麦として、イエス様や隣人のために生きることは、時に大きな痛みを伴います。自分の時間や労力を使い果たし、疲れ切ってしまうのではないか、最後には何も残らないのではないか、という不安に襲われることもあるでしょう。
だからこそ、イエス様はこの約束を与えてくださいました。26節「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。」
私は以前、「イエス様について行く」と聞くと、必死にイエス様を追いかける自分の姿をイメージしていました。ぐんぐん先を行くイエス様の後を、息を切らして「主よ、待ってください!」と追いかける。けれども「わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります」というイエス様の言葉からは、「苦難の道を行くなら、あなたは決して一人ではない」というメッセージが聞こえてきます。たしかに、イエス様が今から向かっていくのは、十字架の道です。人のために傷つくこと、自分だけが損をすること、それは苦しい道です。「なぜ自分ばかりがこんな目に遭うのだろう」と思うときもあります。しかし、そんな場所には確かにイエス様がおられる。わたしがいるところに、あなたも必ずいる。むしろ、親が小さい子どもの手を握って、一緒に歩いていくかのようです。イエス様が私の手をしっかりと握って、一緒に歩いてくださる。
イエス様は最後にこう言われました。「わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます」。世の中は、ノーベル賞や金メダルを取るような人を「重要な人」と呼びます。一方で、父なる神様が「重んじる」のは、イエス様のために、隣人のために、傷つく道を選んだ人たちです。
自分を生かすために、いのちを握りしめ続ける人生は、一粒のまま変わることはありません。それは永遠に続く孤独です。イエス様にお預けした人生は、土の中で一度は姿を消すように見えても、やがて豊かな実を結び、周りへと祝福を広げていきます。そして、そのいのちは決して失われることなく、イエス様の手の中で「永遠のいのち」へと至るのです。
今からしばらくの間、静まる時間を持ちます。私が握りしめているいのち、手放したくない生き方があるとすれば、それは何でしょうか。「これだけは手放したくない」という自分の安心や、プライド、こだわりがあるでしょうか。イエス様は言われます。「その手を離して、わたしに預けないか。わたしが共に歩むから。」お祈りをいたします。
祈り
父なる神様。イエス様は「ついにこの時が来た」と、一粒の麦となって十字架でご自分をささげる道へと進み始めました。私たちは、その実りです。イエス様の十字架の実りである私たちは、イエス様のために何を手放せるでしょうか。イエス様が愛しておられる隣人のために、何を差し出せるでしょうか。あなたの御心をおしえてください。そしてその御心に喜んで従う信仰を、私たちのうちに与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

