2026年5月
No.209【「金局長が、私を愛しているんですか?」】※マナカ寄稿
◆昨日「ラブ・ソナタ岩手」の第二回プレ集会が開催されました。韓国からのゲストは、元外交官の金夏中長老でした。駐日大使館で働いていたご経験があり、ノーベル平和賞を受賞した金大中大統領の秘書官もされ、日本や中国の政治家たちと […]
エペソ1章11-14節「"私たち"を広げる聖霊の助け」(宣愛師)
・・・・・・ 「私たち」と「あなたがた」を分けるパウロの言い方に、私は最初、ちょっと嫌な印象を持ちました。もし私がRに、「僕たち日本人はこうだけど、君たちフィリピン人はね……」みたいな言い方をしたら、ちょっと嫌な感じがします。「私たち」と「あなたがた」なんて区別せず、最初から皆で一緒に「私たち」と言えばいいじゃないか。しかしその一方で、なんでもかんでも「私たち」という言葉で一括りして良いのだろうか、とも思うのです・・・・・
No.208【「足を洗わせてくれない?」】
◆先日、妻から突然「ねえ、足を洗わせてくれない?」と言われました。「クレームか? 僕がくさいのは脇だけのはずなのに」と内心焦りましたが、数秒後に全てを理解しました。「ああ、説教の箇所が“洗足”だもんね」―――ということで […]
ヨハネ13章12-15節「互いの足を洗い合う」(まなか師)
・・・・・・人の足を洗うとは、私たちにとって具体的にどういうことでしょうか。賀川豊彦というクリスチャンは、病気で身体中から膿が出ている人がやってきたとき、その膿を自らの口で吸い出して手当てをした、と言い伝えられています。私たちにはそこまでのことをするのは難しいかもしれません。けれども、人の罪を一緒に背負い、きよめていくことは、身近なところからできるはずです。仲違いをしている人たちの間に入り、仲直りができるように尽力する。誰かが失敗してしまったとき、「自業自得だ」と責めるのではなく、自分も一緒に頭を下げる。それがたとえ自分の利益にならないとしても、汚れてしまった誰かの足を洗ってあげるために、自分の歩みを止めて、上着を脱いで、ひざまずくのです・・・・・・
No.207【「岩手には牧師が少ないから」】
◆多忙と風邪が重なり、三週間もコラムを休載してしまいました。ご心配くださった方々、声をかけてくださった方々、ありがとうございました。忙しさは続きそうですが、長引いていた風邪はすっかり良くなりました。コラムも無理なく再開し […]
エペソ1章7-10節「すべてが一つに集められる」(宣愛師)
・・・・・・家族が一つになれないことがあります。夫婦も親子も兄妹も、なかなか一つになれません。教会でさえ一つになれず、バラバラの歩みをすることがあります。「相手が反省しようとしない限り、和解はもう無理です。」どんなにがんばっても、そんな言葉しか出てこないような厳しい現実があります。国と国との争いもそうです。……しかし、そのような厳しい現実にもかかわらず、聖書は驚くべきことを語ります・・・・・
エペソ1章1-6節「世界の基が据えられる前から」(宣愛師)
・・・・・・役員会が色々な質問をする中、まなか先生はこう尋ねました。「Rにとって、教会とはどういうものですか?」Rさんは「神の家族です」と答えました。親戚や家族が住むフィリピンを離れ、日本で一人暮らしをする自分にとって、盛岡みなみ教会は温かい家族です、と。……今日から「エペソ人への手紙」のシリーズが始まります。この手紙のテーマを一言で表すなら、“ユダヤ人もギリシア人も一つ”です・・・・・
創世記21章1-7節「弱さを笑いに変える神」(「弱さ」シリーズ⑤|宣愛師)
・・・・・・「笑い」のメカニズムにいくつか種類があるのと同じように、「笑い」そのものにも色々な種類があります。「微笑み」のような温かい笑いもあれば、人を馬鹿にするような「嘲笑い」「嘲笑」という笑いもあります。冷たく笑うと書いて「冷笑」もあります。アブラハムとサラの場合、彼らの「笑い」はどういう笑いだったかと言うと、神さまを馬鹿にするような「嘲笑」「冷笑」でした・・・・・






