創世記21:1-7「弱さを笑いに変える神」(「弱さ」シリーズ⑤|宣愛師)
2026年5月3日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
旧約聖書『創世記』21章1-7節
1 主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。
2 サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。
4 そしてアブラハムは、神が命じられたとおり、生後八日になった自分の子イサクに割礼を施した。
5 アブラハムは、その子イサクが彼に生まれたとき、百歳であった。
6 サラは言った。「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」
7 また、彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子に乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、主人が年老いてから子を産んだのです。」
「笑い」 のメカニズム:認識と現実のズレ
今日のテーマは「笑い」ということで、皆さんにウケるかどうか分かりませんが、キリスト教の有名な笑い話を一つ。ある人が神と会話をした。「神さま、あなたにとって百万年とはどれほどの長さですか。」「たった1分のようなものだ。」「では神さま、あなたにとって百万円とはどれほどの金額ですか。」「ああ、そんなの1円みたいなものだ。」そこで彼は言った。「では神さま、どうか私に1円をお恵みください。」神は答えた。「よし、ほんの1分待っていなさい。」
もう一つ笑い話を。礼拝の説教を聴いていたある人が居眠りをして、聖書を床に落としてしまった。すると牧師がその人に向かって言った。「気をつけてください。皆が起きてしまうでしょ。」
今のジョークが面白かったかどうかはさておき、笑いというもののメカニズムは「緊張からの解放」だと言われます。「ほんの1分待っていなさい」ということばに、「どういうこと?」と一瞬緊張した後、「ああ、百万年待てということか」と分かって、ふっと緊張から解放される。また、「笑い」というのは「認識と現実のズレ」によって起こる、と説明されることもあります。居眠りをしているのは一人だけだと思っていたら、実際には皆が眠っていたという、認識と現実の「ズレ」にクスッと笑ってしまうわけです。
「笑い」のメカニズムにいくつか種類があるのと同じように、「笑い」そのものにも色々な種類があります。「微笑み」のような温かい笑いもあれば、人を馬鹿にするような「嘲笑い」「嘲笑」という笑いもあります。冷たく笑うと書いて「冷笑」もあります。アブラハムとサラの場合、彼らの「笑い」はどういう笑いだったかと言うと、神さまを馬鹿にするような「嘲笑」「冷笑」でした。
創世記の17章17節。〈アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。」〉―――アブラハムの妻、サラも同じように笑いました。創世記18章12節。〈サラは心の中で笑って、こう言った。「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。」〉
なぜアブラハムとサラは、神さまの約束を聞いて「笑った」のでしょうか。それは、年老いた自分たちの現実と、「必ず子どもを与える」という神さまの約束との間に、大きな「ズレ」があったからです。「アブラハム」と聞けば、立派な信仰を持っていた人だと思うかもしれません。偉大な信仰の模範だと思うかもしれません。しかし実際には、その信仰は不完全で弱いものでした。
私たちはどうでしょうか。イエス様は、「わたしを信じる者は死んでも生きる」(ヨハネ11:25)と約束されました。しかし私たちは、「死んでも生きるなんてあり得ないでしょ」と笑うのです。パウロも、「神がすべてのことを益としてくださる」(ローマ8:28)と語りました。しかし私たちは、「すべてのことを益とするなんて無理でしょ」と笑うのです。自分の現実との「ズレ」がありすぎるからです。こんなに大変な状況、こんなに絶望的な状況、いくら神さまでも無理でしょ、と嘲笑うのです。口では「アーメン」と言っても、心の中では「はいはい、きれいごとでしょ。」
現代は冷笑主義の時代だと言われます。誰かが何か夢を語っても、「どうせ無理だよ」と冷たく笑うのです。「なに本気になっちゃってんの?」と馬鹿にするのです。そうやって冷たく笑う人間のほうが賢いと思われています。本気で何かを信じるということに疲れてしまった時代です。本気で信じて、本気で期待して、それが叶わなかった時の失望感を味わいたくないからです。だからクリスチャンでさえ、ほどほどの信仰で、ほどほどの熱量でやっていけばいいじゃないかと、斜に構えた、生ぬるい信仰生活を送ることがあるのです。
約束の子イサクの誕生:「彼は笑う」
しかし、そんなふうに私たちが、冷ややかな目で神さまを嘲笑うとしても、神さまは私たちのために、相変わらず本気であり続ける。創世記21章に戻って、1節と2節。〈主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。〉
アブラハムも、サラも、神さまを笑いました。「いやいや、無理でしょ」と嘲笑いました。しかし、たとえ笑われても、たとえ馬鹿にされても、神さまは「約束したとおりに」私たちのために働いてくださるのです。私たちが心から信じていなくても、本気になれなくても、「もう無理でしょ」と諦めてしまっても、神さまは私たちのために最善のご計画を成し遂げてくださるのです。
信じきれない私たちです。斜に構えてしまう私たちです。批評家のような態度を崩せない私たちです。でも、それでいいんです。大切なのは、私たちが神さまを信じ抜けるかどうかではなく、神さまが私たちを愛し抜いてくださるかどうかだからです。どんなに笑われても、どんなに馬鹿にされても、見捨てずに約束を果たしてくださる神さまです。ともにいてくださる神さまです。情熱的に愛し続けてくださる神さまです。だから私たちは、ちょっとずつでもいいから、この神さまを信じていきたいのです。どんなに絶望的な状況にあったとしても、この神さまがなんとかしてくださるのかもしれない、と思ってよいのです。
21章の3節。〈アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。〉―――「イサク」という名前は、「彼は笑う」という意味です。誰が笑ったのでしょうか。最初はアブラハムが笑いました。サラも笑いました。それは冷たい笑いでした。しかし最後には「彼は笑う」のです。神さまが笑うのです。「ほらね」と神さまが優しく笑う。馬鹿にされても、笑われても、愛する人々のために約束を果たしてくださる神さまが、にっこりと微笑むのです。
そして、アブラハムとサラも笑うのです。今度はもう、冷たい笑いではありません。6節。〈サラは言った。「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」〉―――サラの笑いは、冷たい笑いから、暖かく真実な笑いへ変えられていきました。以前のサラの冷たい笑いは、他の人を笑顔にするような笑いではなかったはずです。どこかとっつきにくくて意地悪な、一緒にいるとこちらまで元気をなくしてしまうような、そんな冷たい雰囲気だったはずです。しかし、そんなサラの冷たさも、神さまが変えてくださいました。いや、そんな冷たいサラが変えられたからこそ、周りにも笑顔が広がっていくのです。
私たちはもしかすると、神さまを全く疑わずに信じ続けた人こそが模範的なクリスチャンだ、みたいなイメージを持ちがちかもしれません。「私は信じて祈り続けました。そして神さまは願いを叶えてくださいました」みたいなサクセスストーリーをイメージしやすいかもしれません。でも、もっと力の抜けたような証しがあっても良いと思うのです。「私は正直、信じていませんでした。神さまに期待なんてほとんどしていませんでした。お祈りだって真面目にしていませんでした。どうせ何も変わらないと思っていました。でも神さまは、そんな不信仰な私のためにさえ、素晴らしいことを成し遂げてくださいました。」
サラの信仰も、アブラハムの信仰も、不完全で、弱い信仰でした。しかし、彼らの信仰が弱かったからこそ、神さまの約束を嘲笑うような不完全な信仰だったからこそ、私たちもこの神さまを信じてみようと思えるのです。サラやアブラハムの弱い信仰のおかげで、その不完全な信仰のおかげで、私たちもまた、弱い信仰でもいいんだ、それでも神さまは見捨てないんだと、安心して笑うことができるのです。私たちの弱い信仰も、弱い信仰だからこそ、だれかを励ますために用いられるはずです。真実な神さまが、尊く用いてくださるはずです。しばらく黙想をいたしましょう。
祈り
私たちの父なる神さま。何かに本気になること、真剣になることに、どこか距離を取りたくなってしまう私たちです。ましてや、神さまの約束を耳にしても、自分の現実とのズレを感じて、心の中で嘲笑ってしまう私たちです。でも、それでもあなたの愛が冷えないのであれば、あなたの約束が変わらないのであれば、私たちももう少しだけ真剣になって、あなたを信じたいと思います。「もう無理だ」と諦めてしまう時、「でも、神さまは本気なのかもしれない」と思い出すことができますように。そのようにして、冷たい嘲りではなく、素直で温かな微笑みを、周りの人にも広げていくことができますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

