エペソ1:1-6「世界の基が据えられる前から」(宣愛師)

2026年5月10日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『エペソ人への手紙』1章1-6節


1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。
2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
4 すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
5 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。


ユダヤ人もギリシア人も一つ

 先週の日曜日の午後、盛岡みなみ教会への転入会に向けて、Rさんへの諮問(インタビュー)が行われました。役員会が色々な質問をする中、まなか先生はこう尋ねました。「Rにとって、教会とはどういうものですか?」Rさんは「神の家族です」と答えました。親戚や家族が住むフィリピンを離れ、日本で一人暮らしをする自分にとって、盛岡みなみ教会は温かい家族です、と。

 フィリピンと日本。言葉も文化も違います。それでも私たちは「家族」だと言える。半年前のクリスマスまで、私たちはお互いに顔も名前も知りませんでした。それでも私たちは「家族」だと心から言える。それは、単に教会の雰囲気が合っていたとか、教会で遊んだボードゲームが好みだったとか、そういう人間的な相性を超えて、同じイエス・キリストを信じるからです。

 今日から「エペソ人への手紙」のシリーズが始まります。この手紙のテーマを一言で表すなら、“ユダヤ人もギリシア人も一つ”です。当時の世界では、ユダヤ人とギリシア人は互いを見下し合い、差別し合い、敵対し合っていました。しかしこの手紙を書いたパウロは、ユダヤ人もギリシア人も、同じキリストによって一つにされるのだ、家族になれるのだ、と力強く語るのです。

 2節でパウロは、「恵みと平安があなたがたにありますように」と挨拶をします。「恵み」というのはギリシア風の挨拶で、「平安」というのはユダヤ風の挨拶です。二つの文化を結び合わせたこの挨拶も、“ユダヤ人もギリシア人も一つ”というキリスト教の本質を表すものだと言えます。


「世界の基が据えられる前から」

 また、4節にはこうあります。〈神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです〉―――このことばは、神さまが最初から「この人は天国行き、この人は地獄行き」と決めていた、という意味ではありません。

 神さまが選んだのは「私たち」です。ユダヤ人もギリシア人も含む、不思議な「私たち」です。ユダヤ人だけの教会や、ギリシア人だけの教会ではない。神さまは最初から、ユダヤ人もギリシア人も一緒の教会、日本人もフィリピン人も一緒の教会を、ご自身の教会として“選んで”おられた。

 「世界の基が据えられる前」にはまだ、ユダヤもギリシアも、日本もフィリピンもなかったのです。文化が違う、言葉が違う、肌の色が違う、マナーが違う―――こういう区別は、「世界の基が据えられた後」に生まれた区別です。人間が後から作り出した区別です。もちろん、それぞれの文化や価値観を尊重することは大切です。でも、「世界の基が据えられる前から」選ばれていた神の教会は、それらの違いに囚われずに、新しい家族を作っていけるのです。

 皆さんの中には、こう考える方もいるかもしれません。「キリスト教が人種の壁を超えることは分かった。でも今度は、他の宗教との間に新しい壁を作るだけじゃないのか?」―――たしかに仰るとおりです。しかし、神さまがアブラハムを選んだのは、アブラハムを通して全世界を祝福するためでした。神さまがイスラエルを選んだのは、イスラエルを通して全世界を祝福するためでした。それなら、神さまが教会を選んだのは何のためか。クリスチャンだけが祝福されるためではなくて、クリスチャンを通して、他宗教を信じる人も含めて、全ての人が祝福されるためです。

 もちろん、教会が祝福を広げることに失敗することもあります。私たちもそうです。周りに祝福を広げるどころか、傷つけてしまう。イエス様を信じているはずなのに、不安になったり、苛立ったりして、人を呪ってしまう。自分は本当に選ばれているのだろうか。神さまに見捨てられてしまうのではないか。しかし、神さまが私たちを選んだのは、私たちが正しかったからではないのです。4節の後半にはこうあります。〈御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。〉本当は傷だらけの私たち、汚ればかりの私たちです。でも、だからこそ選ばれたのです。自分の力では正しくなれないから、聖くなれないから、神さまが選んでくださった。


「二千六百年」を超えて

 日本の教会にも、悔い改めるべき歴史があります。この写真は、1940年に東京で行われた、あるキリスト教の大会を映したものです。青山学院というキリスト教系の大学に、二万人というものすごい数のクリスチャンが集まりました。

 クリスチャンが集まったわけですから、皆でイエスさまを賛美するわけです。ところがこの大会は、天皇が住む皇居にお辞儀をする「宮城遥拝(きゅうじょうようはい)」から始まりました。天皇を賛美するための「讃美歌」を歌いました。「天皇陛下のために命を捨てられますように」と祈りました。そしてこの大会の終わりには、次のような宣言がなされました。「吾等(われら)は全基督(キリスト)教会の合同の完成を期す。」

 素晴らしい志です。教団教派の壁を超えて、すべての教会が一つになることを目指す。しかし、「吾等」とは誰でしょうか? 天皇を拝み、天皇に讃美歌を歌い、大日本帝国が東アジアの国々を支配すべきだと信じる「吾等」です。その「吾等」が、「全基督教会の合同の完成を期す」と宣言したところで、世界中の教会が「アーメン」と言えるでしょうか。日本に支配された朝鮮や台湾やフィリピンの教会に、「アーメン、これこそ私たちの祈りだ」と言ってもらえるでしょうか。

 この大会は、最初の天皇だとされる神武天皇の即位から二千六百年を祝う大会でした。もちろん、二千六百年という長さは伝説に過ぎません。しかし、仮にそれが本当だとしても、それでもたったの二千六百年です。「世界の基」が据えられた後の話です。国と国の区別が出来上がった後の話です。そんな最近のことを祝っていたら、民族主義の壁を超えられないのは当然でしょう。「世界の基が据えられる前」に目を向けなければ、国と国の壁を超えていくことはできない。

 問題は民族主義の壁だけではないはずです。同じ日本人の間でも、成績がどうだとか、学歴が、年収が、見た目がどうだといって、互いを区別したがる。こういうことができる人間は優秀だ、価値がある。できない人間は劣っている、価値が低い。そうやって人をさばき、自分をもさばく。でもそれもすべて、「世界の基が据えられ」た後に人間が作り出した価値観でしょう。「世界の基が据えられる前」には、学校なんてなかったのです。会社も銀行もSNSもなかったのです。

 神さまが見るように、物事を見ていきましょう。人間が後から作ったものではなく、神さまが最初から望んでおられたことによって、自分や隣人を愛していきましょう。そうやって祝福を広げていきましょう。聖くなれない自分ではなく、必ず聖くしてくださる神さまの恵みに目を向けましょう。そしてこの神の恵みをたたえていきましょう。そのためにこそ私たちは、この特別で不思議な「私たち」は、神さまに選んでいただいたのです。しばらく黙想の時を持ちます。


黙想・祈り

 私たちはこれまで、どんな価値観に基づいて、自分と他者の間に壁を作ってきたでしょうか。その価値観は、世界が始まる前から存在する、神さまのご計画に基づくものだったでしょうか。それとも、人間が後から造り出した、狭く、浅はかで、本質的ではない価値観だったでしょうか。

 私たちの父なる神さま。私たちが、「私たち」という言葉を、今よりももっともっと豊かな言葉にできるように、凝り固まった心を解きほぐしてください。小さなことを気にしすぎていたかもしれません。人間が作る世界に囚われすぎていたかもしれません。神さまの大きさを見上げて生きることができますように。隣人も、自分のことも、神さまの大きな恵みのうちに、広やかに、豊かに、愛することができますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。