エペソ1:7-10「すべてが一つに集められる」(宣愛師)
2026年5月17日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『エペソ人への手紙』1章7-10節
7 このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
8 この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、
9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、
10 時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。
「和解はもう無理です」
先日、「家族とまた喧嘩をしてしまった」という人と話をする機会がありました。その人は、「相手が売り言葉をかけてくるので、どうしてもきつい言い方になってしまう」と話してくれました。また、その人はこうも言っていました。「相手が反省しようとしない限り、和解はもう無理です。」
家族が一つになれないことがあります。夫婦も親子も兄妹も、なかなか一つになれません。教会でさえ一つになれず、バラバラの歩みをすることがあります。「相手が反省しようとしない限り、和解はもう無理です。」どんなにがんばっても、そんな言葉しか出てこないような厳しい現実があります。国と国との争いもそうです。「世界はまるい ただひとつ」と歌われますが、日本や韓国や中国も、アメリカやイスラエルやイランも、なかなか一つになれません。
しかし、そのような厳しい現実にもかかわらず、聖書は驚くべきことを語ります。10節。〈時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められる〉―――そんなことがあり得るのでしょうか。「和解はもう無理です」と諦めるしかない私たちです。「もうあの人とは一緒に生きていけない」と切り捨てるしかない私たちです。しかし聖書は、「一切のものが、キリストにあって、一つに集められる」と断言します。これは神のご計画なのだ、神の約束なのだ、神は約束したことを必ず果たすのだ、と。
“罪の奴隷”からの 「贖い」
神さまは一体どうやって、こんなにもバラバラの世界を一つに集めるというのでしょうか。その答えは、「キリストにあって」です。7節にはこう書かれています。〈このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです〉―――「贖い」とは、「買い戻す」ということです。奴隷として売られてしまった大切な人を、代価を払って買い戻す、取り戻す。イエス様は私たちを買い戻してくださった。奴隷だった私たちを贖い、神さまの子どもとしてくださった。
しかし、私たちが奴隷だったとはどういうことでしょうか。私たちは誰かの奴隷になったことがあったでしょうか。イエスさまに出会ったユダヤ人たちも言いました。「私たちは……今までだれの奴隷になったこともありません」(ヨハネ8章33節)。しかしイエスさまは言いました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」(34節)。
「罪の奴隷」とは何でしょうか。罪にも色々ありますが、聖書が語る最大の罪は、人を赦さない罪です。赦せと言われても、赦せない。赦すべきだと頭では分かっていても、赦せない。自分から先に謝るべきだと分かっていても、謝れない。「ごめんなさい」の一言が出てこないのです。「僕が悪かった」「私が悪かった」という一言が言えないのです。なぜなら、「罪の奴隷」だからです。
私たちはなぜ、「ごめんなさい」と言えないのでしょうか。それは、「ごめんなさい」と言ってしまったら、相手に攻撃の機会を与えてしまうからです。相手だって悪いはずなのに、自分だけが悪かったかのようになるのが辛いからです。でも、イエスさまの十字架を思い起こしてください。まるでイエスさまが罪を犯したかのように、まるでイエスさまが悪かったかのように、十字架で殺されたのです。それでもイエスさまは、「父よ、彼らをお赦しください」と祈ってくださった。
「相手が反省しようとしない限り、和解はもう無理です。」たしかにそのとおりです。でもイエスさまは、私たちが反省しようとする前から、私たちを赦すために、救うために、命までささげてくださいました。この方を信じ、この方に従う時、私たちは「罪の奴隷」ではなくなります。「ごめんなさい」の一言が言えるようになる。「僕が悪かった」「私が悪かった」と言えるようになる。「罪の奴隷」にはそれが言えません。でも、キリストにあって罪を赦され、「その血による贖い」を受けた私たちは、もう自由なのです。自分から先に頭を下げられる自由を得たのです。
「時」 が満ちる日を待ち望んで
8節には、神さまが「あらゆる知恵と思慮」を用いた、と書かれています。「あらゆる知恵と思慮」というのは、パウロが別の手紙で書いたように、ユダヤ人とギリシア人の両方を罪の中に閉じ込める、という不思議な知恵でした(ローマ11章32-33節)。神さまは、ユダヤ人とギリシア人を一つにするために、ユダヤ人とギリシア人の両方を罪の中に閉じ込めた。ユダヤ人とギリシア人がお互いに「自分のほうが正しい」と主張することがないように、神さまが両方をさばき、そして両方を赦す。そうして初めて、ユダヤ人とギリシア人は「一つ」になる。これが、私たち人間の理解力を超えた、神さまの驚くべき方法、神さまの驚くべき「知恵と思慮」でした。
今の時代も、国と国との間で、「自分が悪かった」の一言が言えず、関係が壊れ続けています。もちろん、どっちかだけが悪いということはないのです。どちらにも悪いところがあるのです。なぜなら、神さまがそうしたからです。でも、だからこそ、一つになることができるはずなのです。自分の罪を認めることによって、私たちは「一つ」になる。相手が反省しなくても、謝ってくれなくても、まず私自身が罪人であることを認める。家族が一つになるために、教会が一つになるために、まずは自分が謝る。「私こそ罪人でした」と謝る。
しかし、こちらがどんなに謝ったとしても、それでも「一つ」になれないことがあるでしょう。謝っても、悔い改めても、相手が受け入れてくれない、赦してくれない。まさに、「相手が反省しようとしない限り、和解はもう無理です」と諦めるしかないような時もあるでしょう。
10節には、「時が満ちて」と書かれています。ここで「時」と訳されている言葉は、ギリシャ語では複数形になっています。この「時」というのは、この世界の様々な時代を意味する「時」です。私たちの人生にも色々な「時」があります。一つになれない時、歩み寄れない時、意地になってしまう時、「どうせダメだ」と開き直ってしまう時、「私は謝ったのに」とさばいてしまう時……。しかし、それらの「時」もまた、満ちる時が来る。
今はまだ、「時」が満ちていないのかもしれない。今はまだ、和解することはできないのかもしれない。しかし、神さまのご計画が成就するその日、「あの時は申し訳なかった」と言えるようになる。「あの時の私は未熟でした」と謝れる、自由な日が来るのです。その時が来れば、私たちの正しさとか、私たちの努力によってではなく、ただ神さまの恵みによって、バラバラの私たちが一つになります。バラバラになった家族も、教会も、社会も、キリストにあって必ず集められます。この約束を信じるからこそ私たちは、「どうせ無理だ」と開き直ることもなく、かといって自分の力不足に絶望することもなく、諦めずに歩んでいくことができるのです。しばらく黙想と祈りの時を持ちましょう。
黙想・祈り
あなたが今、和解すべき人は誰でしょうか。「ごめんなさい」と言えないままの人は誰でしょうか。「ごめんなさい」が言えないのは、相手が悪いから、だけでしょうか。それとも、私たちも罪の奴隷だからでしょうか。私たちを贖い、自由にしてくださる、キリストを呼び求めましょう。
私たちの父なる神さま。「私たちは今までだれの奴隷になったこともありません」と言ったあのユダヤ人たちと同じように、私たちもまた、自分自身が奴隷であることを認めることができずにいました。私が謝れないのは、歩み寄れないのは、相手に問題があるからです。しかし、私自身も罪の奴隷だからです。神さま、私たちを贖ってください。自由にしてください。今はまだ、一つになれない私たちです。しかし、いつの日かキリストにあって、すべてのものが集められるその時には、今はまだ赦し合えないあの人にも、あの人にも、意地を張ることなく、私から先に、頭を下げることができますように。イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン。

