ヨハネ13:12-15「互いの足を洗い合う」(まなか師)
2026年5月24日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』13章12-15節
12 イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。
13 あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。
14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。
15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。
洗足の意味:仕えることときよめること
今朝の箇所は、洗足と呼ばれる場面の一部です。「足を洗う」と書いて洗足(せんぞく)とか洗足(せんそく)と読みます。皆さんは人の足を洗ったことがあるでしょうか。子育て経験のある方は、子どもの足を洗ったことがあると思います。介護経験のある方は、年配の方の足を洗ったことがあるかもしれません。私は、以前キャンプで奉仕した際に、小学生の子どもたちの足を洗ったことがあります。洗足式というプログラムの中で、大人の奉仕者が子どもたちの足を洗うという時間がありました。子どもたちが、うれしそうにするよりも、むしろどちらかと言うと困惑した表情を浮かべていたことを思い出します。
洗足の第一の意味は、奴隷のようにへりくだって仕える、ということです。ペテロも6節でこう言っています。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」もとのギリシャ語のニュアンスをもっと汲み取るならば、「主よ、あなたのようなお方が、私のような者の足を洗うのですか。」足を洗うときには、相手の前にひざまずくことが避けられません。ペテロが戸惑ったのも無理のないことです。神の子でありメシアであるはずのイエス様が、あろうことか、自分にひざまずいたのです。足を洗うというのは、当時は奴隷の中でも一番身分の低い奴隷がすることでした。イエス様は、奴隷がしていたことをなさってまで、自らを低くして仕えてくださったわけです。自分を低くして仕えるということ、これが洗足の第一の意味です。
洗足の第二の意味は、罪の汚れをきよめられる、ということです。イエス様は8節の後半でペテロにこうおっしゃっています。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」ここでの「洗い」は、「イエス様の十字架によって、人間の罪が根本的にきよめられること」の象徴です。つまりイエス様は、弟子たちの足を洗うことを通して、「わたしがあなたがたの罪をきよめるのだ、そのためにこれから十字架に向かうのだ」ということを示されました。わたしの「洗い」を受け取らなければ、「あなたはわたしと関係ないことになります」。逆に言えば、イエス様の「洗い」を受け取るなら、イエス様との関係はしっかりと保証されている、ということです。イエス様に罪を洗い流していただいて、イエス様とともに生きる歩みをスタートすること、これが洗足の第二の意味です。
「あなたがたもまた、互いに足を」
イエス様に足を洗ってもらい、罪をきよめていただいた私たちに、イエス様は命じられました。「あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません」。
足を洗い合うというのは、身を低くして仕え合うということですが、イエス様が命じておられることはそれだけではありません。互いの罪を洗い合うということも、イエス様は命じておられます。「いやいや、私たちはイエス様じゃないんだから、誰かの罪をきよめることなんてできない」と思うかもしれません。たしかに、根本的な罪の問題を解決できるのは、イエス様の十字架だけです。一方でイエス様は、私たちが日々犯す罪について、互いに洗い合うように教えておられるのです。もちろん、一度イエス様を信じて救われた人は、どんな罪を犯したとしても、救いを取り消されてしまうことはありません。もう一度洗礼を受け直す、なんて必要もありません。しかし、この世で生きていく中で犯してしまう日々の罪については、互いに助け合い、互いにきよめ合わなければならない。
私たちは、「なぜ人の罪の尻拭いをしなければならないんだ」と思ってしまうことがあります。人の足が汚れているのは、実際のところ、私のせいではないからです。自分に責任のない誰かの罪のために、いわば自分とは無関係な罪のために、わざわざ近づいていって、手で触れて、洗い流す。そんなおせっかいとも思えるようなわざが、誰かの罪をきよめるということなのです。また、「よりによってあの人の罪をぬぐうのだけはごめんだ」という思いがわいてくることもあります。あの人のために自分が汚れるなんて嫌だ。あの人にだけはひざまずきたくない。なんで自分があの人のために損をしなければならないのか…。
あるいは、自分を愛してくれる人の足は洗うことができても、自分に逆らってくる人の足は洗えない。そんな現実もあります。誰かの足を洗おうとして、かえってその足で蹴り飛ばされる。傷つけられる。実際にそういうことが起こるのです。誰かの汚れをぬぐうためには、自分も傷つくことをいとわないという覚悟が必要です。もっと言うならば、相手をきれいにしてあげるには、自分が身代わりになって泥をかぶるということもあり得ます。
イエス様はどうだったでしょうか。驚くべきことに、イエス様はイスカリオテのユダの足も洗ってくださいました。2節を見ると、「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた」とあります。もちろんイエス様もそのことをご存知でした。しかしそれでも、自分を裏切ることになるユダの足も、他の弟子たちの足と同じように洗われた。まさに、ご自分を蹴り飛ばすことになるユダの足をも洗ってくださった。身をかがめ、黙ってユダの足に触れ、愛を示してくださった。「この人を助けても自分の利益にはならない」と分かっていても、それでもひざまずいて、ユダの足を洗ってくださったのです。
人の足を洗うとは、私たちにとって具体的にどういうことでしょうか。賀川豊彦というクリスチャンは、病気で身体中から膿が出ている人がやってきたとき、その膿を自らの口で吸い出して手当てをした、と言い伝えられています。私たちにはそこまでのことをするのは難しいかもしれません。けれども、人の罪を一緒に背負い、きよめていくことは、身近なところからできるはずです。仲違いをしている人たちの間に入り、仲直りができるように尽力する。誰かが失敗してしまったとき、「自業自得だ」と責めるのではなく、自分も一緒に頭を下げる。それがたとえ自分の利益にならないとしても、汚れてしまった誰かの足を洗ってあげるために、自分の歩みを止めて、上着を脱いで、ひざまずくのです。
“潔癖症”を乗り越えるために
しかしそれでも、私たちには、なかなか人の足を洗ってあげることができないという現実があります。どうしたら、イエス様の姿にならうことができるでしょうか。それにはまず、自分の汚さを認めることです。自分の汚さを本当に知っているならば、誰かの汚い足に触ることは可能になるはずです。自分が汚いということに気づけば、汚いものに触ることはたやすくなるはずです。自分はイエス様にきよめられる必要があるということを、素直に認める。ここに、私たちが「人をさばく」という「潔癖症」から解放されていく道があります。
そして、そんな自分に対してイエス様がしてくださったことを知る。イエス様がどれだけ身を低くして私の罪をぬぐってくれたか、その恵みを受け取り続ける。隣人の罪を覆うことは、単に「我慢する」ということだけではないはずです。自分がイエス様から受けた圧倒的なあわれみを、今度は自分が隣人に対して差し出す。そこには、感謝と喜びによって広がっていく、恵みのサイクルがあります。
もし私たちが、「人の罪のために何かをするなんて無理だ」と思うなら、イエス様に洗ってもらったという実感がまだまだ少ないのかもしれません。「自分の足くらい自分で洗える」「別にイエス様に洗ってもらう必要なんてない」と心のどこかで思っているのかもしれません。
私たちは日々、色々な場面で足を汚しています。誰にも言えないような罪を心の中で犯しています。そういう私たちの隠れた罪は、いちいち公になることはありません。隠したままで過ごせることのほうが多いかもしれません。でも、イエス様は私たちの罪を全てご存知なのです。それにもかかわらず、私たちの罪をさばくのではなく、きよめてくださる。私たちの足が汚れるたびに、イエス様が私たちの足を洗い続けてくださっている。私たちが、「自分はきよい人間だ」なんて思い込めるのは、イエス様が私たちの足を洗い続けてくださっているからです。
今日もイエス様は、私たちの汚い足を洗い続けてくださっています。人の足を洗ってあげられないような、プライドが高く、計算高く、自分の損得ばかり考えてしまう自己中心な私たちの足さえも、忍耐強く洗い続けてくださっています。人の足を洗ってあげられるほど、今はまだ優しくなれない私たちかもしれません。そんな私たちがまずすべきことは、良い人ぶって人の足を洗おうとすることよりも、自分自身の汚い足を洗い続けてくださるイエス様に心から感謝することです。このイエス様への感謝の心によって、私たちもまた、誰かの足を洗うためにひざまずくことができるようになるのです。
最後に、イエス様が「互いに」とおっしゃっていることを覚えたいと思います。イエス様は「あなたの隣人の足を洗いなさい」とおっしゃったのではなく、「互いに足を洗い合いなさい」とおっしゃった。つまり、私も誰かに足を洗ってもらうのです。
私たちは、誰かの足を洗ってあげようと熱心になれることがあっても、自分の汚れた足を誰かの前に差し出すことには、強い抵抗を覚えるのではないでしょうか。「あの人にだけは洗ってほしくない」「あの人にだけは自分の情けない姿を見られたくない」。もしそう思っているとしたら、私たちはイエス様のおっしゃる「互いに」の輪から、外れてしまっているのかもしれません。誰かに足を洗ってもらうことを通しても、私たちはへりくだることを学ぶのです。「ああ、自分もあの人に足を洗ってもらう必要がある」と示されたり、「ああ、私はあのとき、あの人に足を洗ってもらっていたのだな」と後から気づいたり、そんなふうに「互いの足を洗い合う」歩みが重ねられていくのです。
私たちは、イエス様から洗っていただく必要を知るときに、そして兄弟姉妹から洗ってもらう必要を知るときに、本当の意味で身を低くして「互いの足を洗い合う」生き方へと進んでいくのではないでしょうか。イエス様からしてもらったように、誰かに足を洗ってもらう。イエス様からしてもらったように、誰かの足を洗ってあげる。そうやって仕え合い、愛し合う群れ。互いの罪をきよめ合う群れ。そのような群れとして、私たち盛岡みなみ教会はさらに歩んでいきたいと願います。
黙想・祈り
今からしばらくの間、静まる時間を持ちます。弟子たちの足を洗ってくださったイエス様が、今日、私の汚い足をも洗っていてくださいます。私の汚さを、私自身はどれほど知っているでしょうか。私は誰の足を洗うために、ひざまずくことができるでしょうか。私は誰に足を洗ってもらう必要があるでしょうか。
父なる神様。あなたの御子であるキリストがご自分を低くし、その御手で私の足に触れ、汚れを洗い流してくださったことを心から感謝いたします。私は誰の前に身をかがめて、足を洗うことができるでしょうか。今日から始まる新しい一週間、あなたが私を遣わしてくださる場所で、誰かの足を洗う務めを果たすことができますように。また私自身も、誰かに足を洗ってもらうことを通して、へりくだってイエス様の愛を受け取ることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

