エペソ1:11-14「"私たち"を広げる聖霊の助け」(宣愛師)
2026年5月31日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『エペソ人への手紙』1章11-14節
11 またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。
12 それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。
13 このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。
14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。
「私たち」 と 「あなたがた」
今日の礼拝の後に、Rの転入会式が行われます。フィリピンと日本という国籍の違いがある私たちですが、不思議なことに「私たち」と言えます。「私たち日本人」と「君たちフィリピン人」ではなくて、Rも私も一緒に「私たち」だと言えることは不思議なことで、嬉しいことです。
聖書を読む時は、「私たち」という言葉が意外と重要です。「私たち」という言葉の中に、誰が含まれているのか。「私たち」という言葉を理解すると、聖書の奥深さがさらに味わえます。
今日の聖書箇所、11節に出てくる「私たち」は“クリスチャン全員”のことです。また、14節にも「私たち」が二回出てきますが、これも“クリスチャン全員”のことです。しかし、12節の「私たち」は、“クリスチャン全員”ではなく、「前からキリストに望みを置いていた私たち」です。「前からキリストに望みを置いていた私たち」というのは、旧約聖書の時代からキリスト(メシア)を待ち望み続けていたユダヤ民族のことです。この手紙を書いているパウロ本人もユダヤ人です。
ということは、13節に出てくる「あなたがた」というのは、ユダヤ人ではない異邦人たちのことです。つまり12節と13節では、ユダヤ人たちの「私たち」と、ユダヤ人ではない「あなたがた」という区別があるわけです。こうやって、「私たち」と「あなたがた」を分けるパウロの言い方に、私は最初、ちょっと嫌な印象を持ちました。もし私がRに、「僕たち日本人はこうだけど、君たちフィリピン人はね……」みたいな言い方をしたら、ちょっと嫌な感じがします。「私たち」と「あなたがた」なんて区別せず、最初から皆で一緒に「私たち」と言えばいいじゃないか。
しかしその一方で、なんでもかんでも「私たち」という言葉で一括りして良いのだろうか、とも思うのです。以前、Rと教会で昼食を食べていた時、フィリピンが日本に支配されていた頃のことが話題に上がりました。その時もし私が、「他の国を支配するなんて、私たち人類って罪深いよね」とか、「私たち人間って残酷だよね」というように、まるで日本人とフィリピン人の違いを全く無視した上で、「私たち」という言葉で一括りにしたとしたら、どうでしょうか。
この世界には、「私たち」という言葉では一括りにはできない現実、一括りにしてはいけない現実があると思います。日本人とフィリピン人を、簡単に「私たち」と呼んでしまうなら、歴史や現実を軽んじることになってしまいます。パウロがこの手紙を書いていた時代にも、国と国の対立、民族と民族の対立は厳しいものでした。ギリシア人から迫害を受けたユダヤ人もいれば、その逆もいました。民族的な迫害やテロリズムによって、家族や友人を殺された人も大勢いました。
パウロはこの現実を無視しません。ユダヤ人とギリシア人の対立や憎しみに目をつぶって、平和ボケした顔で「私たちって一つだよね」なんて呑気なことは言いません。パウロは12節と13節で、「私たち」と「あなたがた」という表現をあえて使うことによって、この世界には対立と分断という厳しい現実があることをしっかりと見つめていたのです。
「私たち」 を広げる聖霊の助け
この厳しい現実を受け止めた上で、パウロは11節と14節で、ユダヤ人とギリシア人をあわせて「私たち」と呼びます。そして、ユダヤ人とギリシア人をあわせた「私たち」が、「御国を受け継ぐ者」とされた、と語ります。対立や憎しみはたしかにある。忘れてはいけない過去もある。しかしその上で、「私たち」と「あなたがた」という壁を超えて、新しい「私たち」が生まれる。
ユダヤ人とギリシア人も、同じ「御国を受け継ぐ」のです。日本人には日本人の「御国」があり、フィリピン人にはフィリピン人の「御国」があるわけではない。最後には同じ「御国を受け継ぐ」のです。韓国人と北朝鮮人も、イラン人とアメリカ人も、イスラエル人とパレスチナ人も、今はバラバラです。しかし、「キリストにあって」同じ御国を受け継ぐことができる。
「キリスト」の十字架の贖いによって、私たちは本当の意味で「私たち」になることができます。日本人はフィリピン人の血を流しました。簡単に赦されるべきことではありません。しかし、イエス様もまた、血を流してくださった。そして、「父よ、彼らをお赦しください」と祈ってくださった。「わたしがあなたがたを赦したように、あなたがたも赦し合いなさい」とお命じになり、「わたしの血による新しい契約」という、新しい共同体を作ってくださったのです。
14節には、「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です」と書かれています。みなさんは「聖霊」を受けているでしょうか。みなさんは「御国を受け継ぐ」準備ができているでしょうか。どうすれば、自分が聖霊を頂いていると分かるのでしょうか。聖霊を受けている人の特徴とは何でしょうか。パウロは別の手紙の中で(ガラテヤ5:22-23)こう説明しています。〈御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。〉聖霊を受けている人の特徴は、何か奇跡が起こったり、燃え上がるような感情が湧き上がることではなくて、「愛」です。
自分には「愛」がない、と落ち込むこともあるでしょう。神さまを信じているはずなのに、「喜び」や「平安」がない自分に気づくこともあるでしょう。人に優しくしたいのに、ついイライラしてしまって、「寛容」や「親切」を失ってしまう。人を差別してはいけないと分かっているのに、つい「私たち」と「あの人たち」を区別し、距離をおいてしまう。「あれ、自分って聖霊を受けていないのかな」「実は偽物クリスチャンなのかな」と不安になることもあるかもしれません。
しかし、「聖霊は……保証」なのです。「保証」と訳されている言葉は、「手付け金」という意味の言葉です。「手付け金」というのは、最終的には100%全額支払うけれど、約束として最初に10%だけ払う、みたいなものです。まだ100%ではない。まだ完成ではない。でも、たしかに聖霊は与えられている。まだまだ私たちは、クリスチャンとして未熟かもしれない。それでいい。神さまが「手付金」をすでに与えてくれた。ということは、神さまが必ず最後まで成し遂げてくださる。
だから、たった一歩でもいい。たった一ミリでもいい。以前の自分と比べて、少しでも「御霊の実」が実っているなら、それは聖霊様の働きです。今はまだ、愛せない人がいるかもしれない。愛の足りない私たちかもしれない。しかし、愛の足りない自分に気づいているなら、それもまた聖霊様を受けている証拠です。自分には罪がある。そのことに気付かせてくださるのも聖霊です。
聖餐式の式文にはこうあります。「聖霊の恵みに謙虚に信頼して、キリストのしもべとしてふさわしく生きる志のある者はすべて、この食卓に招かれています。」転入会式の式文にもこうあります。「あなたは、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストのしもべとしてふさわしく生きることを約束しますか。」大切なのは、「聖霊の恵みに謙虚に信頼」することです。自分の力ではなく、自分の能力ではなく、聖霊の助けに信頼するのです。そしていつの日か、「私たち」と「あなたがた」の壁は消え去って、世界中が神さまをほめたたえるのです。しばらく黙想と祈りの時を持ちます。
黙想・祈り
私たちは、「私たち」という言葉を正しく使えていたでしょうか。自分が気にいる人だけを「私たち」と呼び、そうでない人を「あの人たち」と冷たく区別していなかったでしょうか。また、厳しい罪の現実に目を向けることもせず、軽々しく「私たち」という言葉を使い、人を傷つけたことはなかったでしょうか。罪人を救い、聖め、成長させてくださる聖霊の助けを求めましょう。
私たちの父なる神さま。パウロは、ユダヤ人とギリシア人の分断を見つめた上で、二つの人々が一つとされる道を見出し、神の栄光をほめたたえました。私たちも、現実から目を背けることなく、しかし平和を諦めることもなく、この世界の傷を癒す癒し人となれますように。御霊の実を実らせることができるように、少しずつでも愛の人として成長していくことができるように、聖霊様の助けを、私たちに、豊かにお与えください。キリストの御名によって祈ります。アーメン。

