ヨハネ13:31-35「互いの間に愛があるなら」(まなか師)

2026年6月28日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』13章31-35節


31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。
32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。
33 子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。
34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
35 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」


関西のおばちゃんになりたい

 SNSで見かけたのですが、ある人が、旅行で友だちと一緒に関西に来て、電車に乗っていたそうです。でも、乗っている電車が、自分たちの目的地に行くかどうか不安になった。「この電車、◯◯に行くかな?」「もしかして乗る電車間違えたかな?」と焦っていると、知らないおばちゃんが「◯◯には行かへんで。次の駅で降りて、向かいのホームの電車に乗ったらええよ」とおしえてくれたそうです。関西のおばちゃんはさすがです。誰かを助けるとき、考えるより先に身体が動くものです。

 皆さんはそういう場面に出くわしたら、どうしますか。私は、助けてあげたいとは思いつつも、「目立ちたくないなあ」とか「間違ったことをおしえてしまったらどうしよう」とか「急に話しかけて変に思われたら困るなあ」とか「いい人ぶっていると思われたら嫌だ」とか色々考えてしまって、結局話しかけられないタイプです。なぜ困っている人を助けられないのか。自分が損をすることを恐れて、人に優しくできないからです。自分が傷つくかもしれないと思うと、躊躇してしまうからです。でも本当は、自分が傷ついたら…と考えるより先に身体が動くような、そんなおばちゃんになっていきたいなと思うのです。私もこう見えて関西圏で育った人間ですから、そういう関西のおばちゃん的な愛を、傷つくことを恐れないような愛を身につけていきたいのです。


「わたしがあなたがたを愛したように」

 イエス様のことばをもう一度読んでみましょう。34節「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」「わたしがあなたがたを愛したように」というところ、ここに新しさがあります。イエス様にしか語ることのできない言葉です。イエス様が私たちに示してくださった愛を知ることが、鍵なのです。互いに愛し合おうとする前に、そして互いに愛し合うことをあきらめてしまう前に、今一度、そのイエス様の愛とはどんな愛なのか、私たちは知る必要があります。

 31節に「ユダが出て行ったとき」とあります。それはつまり、イエス様がユダから裏切られると決まったときです。ユダはイエス様を引き渡すために、出て行った。そしてそのときにイエス様は栄光を受けた。ヨハネの福音書が「栄光」について語るとき、それは十字架を表しています。

 愛する弟子に裏切られることによって、十字架への道が決定的になる。それでもイエス様は弟子たちを愛し続ける。この後に出てきますが、ペテロや他の弟子たちもまた、イエス様を裏切り、十字架の前から逃げ出すことになります。彼らは十字架までイエス様について行くことができません。特にペテロは、揺るぐはずがないと思っていたイエス様への愛に挫折し、絶望します。弟子たちはイエス様を愛し抜くことができないのです。私たちも同じではないでしょうか。イエス様を愛していると言っても、その愛を貫けないことがある。イエス様を悲しませてしまう言葉や行いばかり。イエス様に救っていただいたのに、どこまでも恩知らずなのです。それにもかかわらず、イエス様の私たちへの愛は変わらない。イエス様は私たちを愛し抜く。裏切られても愛する愛。傷つけられることを恐れずに愛する愛。そこに、神の栄光が輝くのだと、聖書は証ししています。

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という戒めは、愛の深さや大きさだけを言っているのではありません。裏切られるとしても、傷つけられるとしても、相手を愛することをやめない、勇気の伴う愛です。先日、ある方がこんな話をしておられました。バス停に目の見えない人がいた。クリスチャンになる前の自分なら声を掛けることはできなかったけど、私はクリスチャンなんだという思いに励まされて、声を掛けることができた。このお証しを聞いて、「愛には恐れがありません」という御言葉はそのとおりだなと思いました。

 誰かに親切にしてあげたり、誰かを助けてあげたりしても、感謝されなかったり、むしろ迷惑がられたりするかもしれません。思っていたような結果にならなくて、自分が傷つくこともあります。裏切られたと感じることもあると思います。そうすると「裏切られるくらいなら、最初から愛さなければいい」「傷つくくらいなら、最初から近づかなければいい」と思ってしまうかもしれない。でもそんなときは、イエス様の姿を思い出したらいいのです。裏切られて傷つくことがあっても、「私もイエス様と同じ栄光を頂いたのだ」と思っていいのです。私たちが人を愛そうとして傷つくとき、そこにはイエス様の十字架と同じ「栄光」が輝いています。


「互いの間に愛があるなら」

 盛岡みなみ教会の今月の月間聖句は、夫が妻をどのように愛するか、ということが語られている箇所でした。第一ペテロ3章7節「夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。」妻を理解し、妻とともに暮らすには、愛が不可欠です。これは、夫婦の間だけに限った話ではありません。「弱い器であることを理解して、共に生きる」ことは、教会という共同体に集められた私たちが愛し合う関係にも当てはまるのではないでしょうか。私たちはイエス様の弟子です。弟子は先生の真似をします。イエス様の愛を真似て、傷つくことを恐れずに、自分から愛していきたいのです。私たちの間に愛はあるでしょうか。イエス様の弟子たちの間に、イエス様のような愛があるでしょうか。私たちの愛は、イエス様の愛を映し出しているでしょうか。

 共に集まる時間を大事にするのが教会です。とはいえ、教会の中でも、人と関わりを持つのは楽しいことばかりではありません。仲違いをしてしまうこともあります。お互いに、愛しやすい存在、愛されやすい存在であればいいのですが、決してそうとは言えないからです。自分自身の姿を見れば分かります。愛に乏しく、愛されにくい私たちです。でも、教会は愛する練習をする場所でもある。宣愛先生も少し前の説教で言っていたとおり、教会は「実験場」です。愛することに失敗したとしても、自分の愛のなさに失望したままでいる必要はありません。もう一度愛してみればいいのです。自分の愛に失望したことがあるからこそ、自分自身に期待しすぎることなく、イエス様に期待することができます。自分の愛はもうここまで、と限界を決めてしまうのはもったいないことです。それはイエス様の働きに制限を設けてしまうことでもあるからです。愛する練習をしていると、愛せるようになっていく。イエス様が、私たちを変えていってくださるからです。あの人とだけは合わないと思っていた人と、一緒に時間を過ごせるようになっていく。私もイエス様によって変えられていくし、あの人も変えられていくからです。そうやって少しずつ少しずつ、私たちの愛は広げられていきます。一人ひとりが愛の人へと変えられていきます。そして、「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになる」のです。

 私たちの愛は、不十分だったり不完全だったりしますが、それでも教会は、互いに愛することをあきらめません。互いを愛そうとする教会の姿が、イエス様を指し示すからです。「神は愛です」と言葉で伝える以上に、伝わるものがあります。イエス様が目に見えなくても、私たちの間に愛があるなら、イエス様がどんなお方か伝わります。それが、教会が「キリストのからだ」であるということです。

 まずは一緒にいるということから始めたいと思います。誰かと一緒に過ごすことにはエネルギーを使います。気を遣うし大変だな、疲れるなと思うこともありますよね。私もそうです。「まなか先生、無理しなくていいですよ」と言ってもらうこともあります。実際にイエス様から「今日は休んでいなさい」と言っていただくこともあります。でも一方でイエス様から「今日はわたしがあの人を迎えたいんだ。あなたもあの人を迎えてくれるか?」と言われることもある。「わたしがあなたを愛しているように、あなたもあの人を愛してくれないか?」とチャレンジされることもあります。皆さんにもそれぞれイエス様からのチャレンジがあると思います。教会の中であれば、シェアリングタイムに加わってみること、昼食の交わりに加わってみること、小グループの交わりに参加してみること、そんな小さく見える、けれども大きな一歩から、愛することを始めてみるのも良いと思います。

 交わりに加わろうとすれば、傷つくこともあるかもしれません。しかしそれもまた、イエス様と同じ栄光を頂くことです。人を愛そうとして傷つくことがあっても、イエス様と同じ傷であれば、イエス様と同じ栄光だとすれば、感謝して受け取ることができるのではないでしょうか。傷つくことを恐れずに、愛の交わりに加わっていく。そのようにして互いに愛し合う私たちを、イエス様は「わたしの弟子」と呼んでくださいます。今からしばらくの間、静まる時間を持ちます。


黙想・祈り

 私たちのうちに、そして私たちの間に愛はあるでしょうか。自分が損をすることを恐れて、傷つくことがこわくて、人を愛せない私たちではないでしょうか。そんな私たちを、イエス様はどのように愛してくださったでしょうか。

 祈りましょう。父なる神様。イエス様が私たちを愛してくださったように、互いに愛し合う。その新しい戒めを受け取りました。愛することの難しさを知っている私たちですが、愛することをあきらめることはありません。イエス様からいただいた愛で、私たちも愛し合いたいと願います。傷つくことを恐れず、愛する練習を少しずつ重ねていくことができますように。イエス様が、私たちを愛の人へとつくり変えてくださいますように。互いの間の愛が、イエス様を伝える証しとなり、さらにこの愛の交わりに加わる仲間が起こされますように。愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。