ヤコブ5:13-16「弱さを祈ってもらえる強さ」(「弱さ」シリーズ⑦|宣愛師)

2026年7月5日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ヤコブの手紙』5章13-16節


13 あなたがたの中に苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。
14 あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
15 信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
16 ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。


「正しい人の祈り」:罪を犯さない人の祈り?

 神学大学で学んでいたころ、一人の友人が、「ノア、今度おれの部屋でゆっくり話そうぜ」と声をかけてくれました。一時間か二時間くらい、色々な話をしたと思います。彼の人生について話を聞きました。それまでの人生で犯してきた罪や、今も抱えている罪について、彼はびっくりするほど赤裸々に話してくれました。彼の話を聞きながら私は、この人になら何でも話せると思いました。そして人生で初めて、自分が長年抱えていた罪について打ち明けました。彼は一緒に祈ってくれました。そしてその日から、私が抱えていたその罪は、少しずつ力を失っていきました。

 ヤコブは16節で、「正しい人の祈りは、働くと大きな力があります」と語りました。私にとっては、あの日友人が祈ってくれた祈りこそが「正しい人の祈り」でした。彼は決して立派な聖人タイプではありませんでしたが、自分の罪を隠さない彼の姿は、神さまの御前でまさに「正しい人」の姿でした。「正しい人」とは、罪を犯さない人ではなく、罪を認めて告白できる人です。

 みなさんは、自分の罪のために誰かに祈ってもらったことはあるでしょうか。神さまの前で一人、自分の罪を告白して祈ることはあるかもしれません。「神さまごめんなさい、また罪を犯してしまいました」と祈りをささげる。それも大切です。しかし、目に見える仲間の誰かに罪を告白して、一緒に祈ってもらうことも大切なことです。

 もしくは、誰かの罪のために一緒に祈ったことはあるでしょうか。もし私たちにそのような経験が少ないとすれば、それはなぜでしょうか。なぜ私たちは、誰かの罪の告白を聞くことが少ないのでしょうか。私たちの家族はなぜ、私たちの友人はなぜ、日常のちょっとした困りごとなら相談してくれるのに、人生の根本的な問題である罪については相談してくれないのでしょうか。それは、私たち自身が、自分の罪を告白せずにやり過ごそうとしてきたからかもしれません。


牧師のために:祈りを必要とする罪人

 カトリック教会では、神父さんに罪の告白を聞いて祈ってもらう“告解”というものがあります。“懺悔”と呼ばれることもあります。どちらかと言えばプロテスタント教会には馴染みの薄い習慣かもしれません。みなさんは牧師に罪を告白して祈ってもらったことがあるでしょうか。もしみなさんが、牧師にさえ罪の告白をしたことがないとすれば、それは単にプロテスタントだからというだけではないかもしれません。もしかすると牧師たちが、自分たちの罪を隠してしまいやすい立場にあるからかもしれません。

 ある牧師は、“自分の思い通りの教会を作ろうとする罪”について、正直な告白をしていました。教会は神さまが集めたいと思う人たちが集まる場所なのに、その牧師は、自分の思い通りになるメンバーだけが集まる教会を目指してしまっていた、と言っていました。教会に集まる人たちを見て、「なぜこんな人たちばかりが私の教会に集まるのか」と思ってしまっていた、と。

 また別の牧師は、教会では立派な振る舞いをしているのに、家庭では高圧的な態度を取っていたことについて告白していました。説教壇に立てば、神の愛だ、赦しだ、隣人に仕える喜びだなどと語っているくせに、家に帰れば妻に対して横柄な態度。子どもたちに対しても、仕える姿勢などとは正反対で、大きな声や威圧的な態度で子どもたちをコントロールしようとする。

 私自身も、日曜日にはこうして皆さんの前に立っていますが、日々の生活は皆さんにお見せできないようなことがあります。小さな子どものようなわがままな態度で、妻を困らせたり疲弊させることも度々あります。スマホやゲームに熱中しすぎてしまったり、インターネット上の性的なコンテンツに気を取られてしまって、貴重な時間や体力を無駄にしてしまうこともあります。

 みなさんは、そんな牧師の罪のために祈ったことはあるでしょうか。牧師が罪からきよめられて、牧師としての働きを全うすることができるように、祈ったことはあるでしょうか。牧師もまた、皆さんの祈りを必要としている一人の罪人に過ぎないのだということを、ぜひ知っていただきたいと思います。私たち牧師がその務めを果たせるように、支えていただきたいと思います。


「癒されるために」:まずは自分の告白から

 15節でヤコブは、「信仰による祈りは、病んでいる人を救います」と語っています。また、「もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます」とも語っています。病気と罪にはどのような関係があるのでしょうか。ヤコブは、すべての病気が罪のせいだと言っているわけではありません。「もしその人が罪を犯していたなら」ですから、すべての病気が罪のせいだというわけではありません。

 しかし、罪と関わりがある病というものもあるのです。それはつまり、罪の問題が解決されることによって癒される病もあるということです。私自身も、自分の抱えていた罪を友人に初めて打ち明けたとき、自分の中の病的な何かが癒され始めたことに気づきました。それは単なる心理学的な効果に過ぎないと言う人もいるかもしれません。しかし、心理学と信仰を区別しすぎる必要もないと思います。互いの罪のために祈り合うとき、そこには心理学的な癒しがあります。そしてそれと同時に、心理学的な力を超えたもの、罪の不自由からの解放が与えられるのです。

 誰かに罪を打ち明けることは、恥ずかしいことです。怖いことです。幻滅されることもあるでしょう。傷口に塩を塗られることもあるでしょう。勝手な想像をされることもあるでしょう。ですから、なんでもかんでも誰にでも話せば良い、というものではありません。あなたの正直な罪の告白を、噂話のように言いふらすような人ではダメです。また、人の罪の話を興味本位で聞きたがるような人にも気をつけましょう。あなたの罪のために、あなたの癒しのために、真剣に祈ってくれる人を見つけてください。見つからないと思ったら、見つかるように神さまに祈ってください。私自身も牧師として、これまで以上に正直な心で、皆さんとともに祈り合える人になりたいと思っています。

 今日も礼拝のあとにシェアリングタイムを持ちます。説教の感想を分かち合います。私たちクリスチャンがよくやってしまうことは、単に知的な分かち合いで終わってしまうということです。「今日の説教は、こういう発見がありました」「こんな聖書解釈があるとは知りませんでした」「とても勉強になりました」という知的な分かち合いです。それももちろん大切なことですが、私たちが目ざすべき分かち合いは、罪の赦しが生まれる分かち合いです。みことばを通してどんな罪が示されたのかを正直に分かち合い、そして互いに祈り合う交わりです。そのような交わりの中でこそ、神さまの豊かな恵みが働き、私たちの癒しが始まっていくのです。そのような分かち合いを、まずは自分自身の罪の告白から始めていきましょう。しばらく黙想と祈りの時を持ちます。


黙想・祈り

 私はなぜ、誰かに罪を告白することを恐れているのでしょうか。人々はなぜ、私に罪を告白することを恐れているのでしょうか。私自身が癒されるために、そして誰かを癒す祈り人となるために、弱い私たちを造り変えてくださる、聖霊さまの助けを祈り求めましょう。

 私たちの父なる神さま。私たちは癒されることを願います。罪から解放されることを願います。そして、誰かが癒されるための手助けをしたいとも願っています。互いの罪のために祈り合う、真実の交わりが生まれるために、まずはこの私から、正直な告白を始めていくことができますように。恥ずかしさや恐れの向こうに、神さまの豊かな癒しがあることを信じて、へりくだって、勇気を出して、一歩踏み出すことができますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。