エペソ1:20-23「すべてのものを満たすキリスト」(宣愛師)

2026年7月12日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『エペソ人への手紙』1章20-23節


20 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、
21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。
22 また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。
23 教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。


「空の空。すべては空」

 皆さんはいま、自分の人生に充実感や満足感を味わっているでしょうか。それとも、どこか満たされない思い、空虚な思い、虚しい思いがあるでしょうか。伝道者の書は語ります。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」(伝道者1:2)―――ソロモンのように偉大な権力を手に入れたとしても、大金持ちになったとしても、世界でいちばん賢い人間になれたとしても、見よ、すべては空しい。しかし「すべては空しい」と言ったそのソロモンでさえ、最後には次のように結論づけたのです。「結局のところ……神を恐れよ。……これが人間にとってすべてである。」

 ソロモンと同じように天才的な頭脳を持っていた数学者のパスカルも、次のように書き残しました。「(人間の虚しさの原因である)この無限の深淵は、無限で不変の対象によってしか、すなわち、神ご自身によってしか満たされることができない」(『パンセ』断章425)。パスカルによれば、私たちが虚しくなるのは、間違ったものによって満たされようとしているからです。満たされるべきではないものによって満たされようとしているから、いつまで経っても空しいのだと。

 社会から評価されること、世間から称賛されること、親や友人たちから認められること。努力して、真面目に生きて、上手くやっていけば、時には評価してもらえることもあるでしょう。ほめてもらえることもあるでしょう。一時的に満足することはあるでしょう。しかし、心の何処かにはいつも虚しさが残る。また次の評価を得るためにがんばらなければなりません。ああ、いつになったら社会は自分を完全に認めてくれるのだろうか。親は、友人は、周りの人々は、いつになったら自分が満足するまで愛してくれるのだろうか。いつになったら自分を安心させてくれるのだろうか。そんな空しさの原因は、空っぽさの原因は、私たちが間違ったものによって満たされようとしているからなのかもしれません。


「すべての名の上に」

 本日の箇所でパウロは、キリストは「すべての支配、権威、権力、主権の上に」おられる、と宣言しています。キリストを信じるということは、キリストよりも大切な存在はないと認めることです。しかし私たちの現実はどうでしょうか。キリスト以外の何かを、キリストよりも上に置き、キリストよりも大切にし、キリストよりも恐れていないでしょうか。

 パウロは続けて語ります。神はキリストを、「今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。」古代世界において、「名」は存在そのものを表しました。エペソの町にも、様々な神々の「名」が刻まれ、崇められ、恐れられていました。皆さんが恐れている「名」は何でしょうか。人間の名前で考えてみましょう。この人を怒らせたくない、この人に嫌われたくないと皆さんが思う「名」です。そして、あなたが恐れているその「名」よりも上に、「キリスト」がおられることを想像してみてください。あなたが恐れているその「名」、あなたが怒らせたくないと思っているその「名」よりもはるか上にキリストがおられて、その「名」を完全に支配しておられ、その「名」は決してキリストに逆らうことができない。

 私にもいくつかの名前が浮かびます。あの人を怒らせたくない。あの人に嫌われたくない。あの人の期待に応えなければならない。有能であると思われなければならない。失敗してはいけない。認められなければ。承認されなければ。そして、疲れている自分に気づきました。

 しかし、私が恐れているその人たちの、私が愛されようとしているその人たちのはるか上に、キリストがおられる。そしてそのキリストは、私のために十字架にかかってくださったお方です。私が有能だからとか、失敗をしないからという理由で、愛してくださったのではない。むしろ、罪深い私をまるごと愛してくださった。愛するあまりに、いのちまで捨ててくださった。

 パウロは別の手紙でこう語りました。〈私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。〉(ピリピ4章11-13節)またヘブル人への手紙はこう語りました。〈金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。ですから、私たちは確信をもって言います。「主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。」〉(ヘブル13章5-6節)

 キリスト以外の何かを、キリストより上に置こうとするとき、私たちは満足できません。しかしキリストをすべての上に掲げるとき、キリストをかしらとするとき、私たちは満たされるのです。なぜならキリストは、「すべてのものをすべてのもので満たす方」だからです。


キリストが「満ちておられるところ」

 さらにパウロは、「すべてのものをすべてのもので満たす方」であるこのキリストは、教会に満ちておられる、と語ります。教会にキリストが満ちておられるとはどういうことでしょうか。

 ある人が、こんな正直な思いを話してくれました。「私が教会に通っているのは、不真面目な友人たちよりも正しい人間になれるような気がするからです。」この人にとって教会とは、正しい人間、優れた人間という、社会的な評価を達成するための手段だったのかもしれません。

 また別の人は、「自分が教会に来るのは、教会の中で優越感を得るためだった」と話してくれました。「教会には様々な悩みや弱さを抱えている人たちが集まってくる。その人たちと自分を比べて、自分はそこまで弱くない、自分はマシな人間だと思いたくて教会に来ていました。」

 教会に行けば立派な人だと思われる、まともな人間だと思える。しかし、教会はキリストが「満ちておられるところ」です。キリスト以外の何かで満たされたいなら、教会以外にもっと良いところがあるでしょう。教会の外での競争や小競り合いを、教会の中に持ち込むことはできません。社会の評価、親や友人からの評価、そのような願望を教会で満足させることはできません。

 ですから教会では、キリストが支配しておられる教会では、学歴を自慢することも、収入を比較することも、社会的立場で人の優劣を判断することも、許されません。そんなものはキリストがお許しになりません。教会を満たしているのは、人間の競争ではなく、キリストの絶対的な支配です。キリストの絶対的な愛です。ただキリストを信じ、ただキリストに期待し、ただキリストを恐れて礼拝するとき、私たちは、世のどこにおいても決して得ることができなかった、まことの満たしを経験し始めるのです。しばらく黙想と祈りの時を持ちましょう。


黙想・祈り

 認められようとして、愛されようとして、時にほめられることはあっても、なぜいつも心のどこかに不安や不満があるのでしょうか。本当は立派ではない私、愛されるに値しない私、罪深い私を、心から愛して受け入れてくださった、キリストの愛と満たしを祈り求めましょう。

 「空の空。すべては空。」私たちの父なる神さま。この空しい世の中で繰り広げられている競争を、教会の中にまで持ち込もうとする私たちの罪をお赦しください。私たちが恐れてしまう様々な名前があります。しかし、キリストがすべてを支配してくださいます。キリスト以外の何かによって満たされようとすることをやめ、ただキリストを恐れ、キリストの愛に満たされて歩み、真の満足を得て生きることができますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。