ヨハネ13:36-38「しかし後には」(まなか師)
2026年7月19日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』13章36-38節
36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」
37 ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」
38 イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
クオ・ワディス:「主よ、どこにおいでになるのですか」
『クオ・ワディス』という歴史小説をご存知でしょうか。皇帝ネロが支配する古代ローマを舞台に、キリスト教徒の受難を描いた物語です。史実をベースにしたフィクションですが、その物語のクライマックスにこんなシーンがあります。迫害が厳しさを増すローマを去ろうとしていた使徒ペテロが、幻の中でイエス・キリストに出会う。ペテロが「主よ、どこへ行かれるのですか(ラテン語で「クオ・ワディス・ドミネ?」)」と尋ねると、イエスは「あなたがわたしの民を捨てるなら、わたしはローマへ行ってもう一度十字架にかかろう」と答える。この言葉に打たれたペテロは、向き直ってローマへ戻り、殉教の道を選ぶ。
ペテロが幻を見たというのは事実か分かりませんが、彼がローマで十字架につけられ、殉教したことは確かだろうと言われています。ペテロの「主よ、どこへ行かれるのですか」という言葉。これは、今日の箇所ヨハネ13章36節がもとになっています。少し前の33節で、イエス様は「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません」とおっしゃいました。ショックを受けたペテロは、いったいイエス様はどこに行ってしまうのか、と不安でたまらなくなったわけです。
ガリラヤ湖で「わたしについて来なさい」と言われてから、ペテロはずっとイエス様の後をついて来ました。どこに行くときも、何をするときも、イエス様について来た。うれしいときも、苦しいときも。叱られたときも、褒められたときも。このお方について行けば大丈夫だと信じて、ずっとついて来た。それなのにどうして、イエス様は「もう一緒にはいられない」なんておっしゃるのか。なぜ今になって自分たちを見捨てるのか。「主よ、どこへ行ってしまうのですか」「私たちを置いて、どこに行かれるのですか」。ペテロの心には、戸惑いと悲しみが渦巻いていました。
「あなたのためなら、いのちも捨てます」
いま聖書を読んでいる私たちには分かります。イエス様は十字架に向かおうとされていること。その十字架に、ペテロたちはついて行けないこと。皆イエス様を見捨てて、逃げ出してしまうこと。だからイエス様は「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません」とおっしゃった。ペテロ、君は覚悟が足りなかったよ。いくらイエス様を愛していると言っても、君は十字架までついて行く勇気がなかったんだ。そんなふうにペテロを非難する人もいます。一方で、ペテロを非難することはせず、自分に置き換えて考える人もいます。自分だったら、十字架までついて行けるだろうか。自分だったら覚悟できるだろうか。そして、いや、自分には無理だ…と自分の弱さに落ち込む。
でも、ペテロは覚悟が足りなかったのでしょうか。ペテロは臆病だったのでしょうか。もし、ペテロより勇敢で、ペテロより覚悟のある人だったらついて行けたのでしょうか。ペテロはむしろ、イエス様のために戦う覚悟は、充分すぎるほどにあったと思います。実際に、イエス様が捕らえられようとしたとき、ペテロは大祭司のしもべに切りかかって、イエス様を守ろうとした。イエス様のために、勇敢に戦おうとした。しかしイエス様は、「剣をさやに収めなさい」と言われました。ペテロは、イエス様がどのように戦うか、まだ理解していなかったのです。ペテロは、イエス様がローマを打ち倒して、王様となってくださる、そんな力強い勝利を思い描いていたからです。
ペテロは言いました。「あなたのためなら、いのちも捨てます」。その情熱は本物です。イエス様への愛も本物です。イエス様のためになら自分は死ねる!それほどイエス様を愛している! しかし、そんなペテロを愛し、ペテロのために死んだのは、イエス様のほうでした。ペテロの裏切りも承知の上で、イエス様はペテロのために十字架に向かわれたのです。
イエス様はペテロに「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」とおっしゃいました。この言葉は、ペテロの情熱を否定したものではありません。彼を冷たく突き放したのでもありません。むしろ、ペテロを愛するがゆえに、ご自分が進んでいく道を教えようとされた言葉です。「ペテロ、あなたのその情熱は尊いものだ。でも、あなたが描いている『戦い方』は、わたしがこれから向かっていく十字架とは違うようだ。わたしは、人々からあざけられ、傷つけられる。あなたからも裏切られる。そうやって神に従う道が、十字架なのだよ」。
私たちも、イエス様は自分が思っていたようなお方ではなかった…とがっかりしたことがあるかもしれません。皆から称えられるような救い主ではなくて、弱々しく十字架に向かっていく救い主だなんて、話に聞いていない。私たちの人生も、クリスチャンになったからと言って良いことばかりではない。むしろ苦しいことや辛いことは増えた。こんなはずじゃなかったのに、と思ったことがあるかもしれません。ペテロは、抵抗もせず捕らえられていくイエス様を見て、「思っていたのと違う!」とショックだったでしょう。そして彼は、そんなイエス様の仲間だと思われることを拒みました。イエス様について行くということは、簡単なことではないのです。
「しかし後にはついて来ます」
でも、あきらめてしまう必要はありません。イエス様はペテロに言われたからです。「しかし後にはついて来ます」。
この言葉は、単なる気休めではありませんでした。ペテロはイエス様を裏切るという挫折を経験した後、よみがえったイエス様と出会います。そして、自らの裏切りにもかかわらず、それでもイエス様が自分を愛していることを知り、かつての姿とは見違えるように、主が歩まれた十字架の道を、ペテロ自身も歩むようになりました。『クオ・ワディス』の小説が描いたように、最後には、主のためにいのちをささげ、あのとき口走った「いのちも捨てます」という言葉さえ、聖霊の助けによって真実なものへと変えられていったのです。
先日、ある人が、自分はイエス様の愛について、本当のところピンと来ていないと話してくれました。イエス様に愛されていると何度も何度も聞いてきたけれど、自分が愛されているという実感はない。人生の苦しみや空しさ、人を愛せないことなど、自分の課題は色々あるけれど、一番の問題はイエス様の愛を感じていないことだと思う。そんなふうに正直に分かち合ってくれました。
私もその人の気持ちがよく分かりました。私自身もそうだったからです。洗礼を受けた後でさえ、イエス様の愛が分かったという自信はありませんでした。イエス様から愛されていることが分からないので、イエス様について行くということもピンと来ていませんでした。でも、大学時代のあるとき、ずっと聞いてきたイエス様の愛、頭では分かっていたイエス様の愛が、心に一気にずどんと降りてきて、愛されている実感を得るという経験をしました。そして、イエス様の愛が分からないと言ってイエス様を悲しませてきたこと、その愛に気づかずに歩んできたことを、悔い改めました。そのときから、イエス様の愛に少しでも応えたい、イエス様について行きたいという思いが芽生えていきました。イエス様について行きたいと思っている今でも、イエス様のことが完全に分かったわけではありません。むしろ、イエス様というお方をもっと知っていく道のりの途上にいることを感じます。
ある時点では、私たちには分からないこと、できないことがあります。でも、それでいいのです。「しかし後には」という約束が与えられています。イエス様がどんなお方か、私のために何をしてくださったのか、どんなふうに私を愛してくださったのか、分かるときが来ます。もちろん、完全に分かるようになるのは、イエス様と直接お会いするときだと思います。それでもこの地上の歩みの中で、少しずつ、確実にイエス様について行く者へと変えられていきます。私たちは、イエス様が私たちを変えてくださるという、確かな約束の中を生きているのです。だから、今はついて行けなくても、「しかし後には」という約束に信頼して、少しずつ、イエス様について行く練習をすればよい。
イエス様は私たちに、「ついて来れるようになってほしい」と願ったのではなく、「必ずついて来るようになる」と約束してくださいました。私たちの今の未熟さや足りなさをよく知った上で、「じゃあ自力で頑張ってね」とおっしゃるのではなく、「しかし後には、必ずわたしについて来るようになる」と約束してくださったのです。だから私たちに「ついて行ける」という自信があるかどうかは、重要ではありません。ついて行く自信がない人にも、「そんなあなたも、後にはついて来る」と約束されています。
イエス様の約束も信じられないという方もいるかもしれません。そんな方には、こう申し上げたいと思います。ペテロの裏切りという予言が確かに現実となった以上、「後にはついて来る」という約束も確かに現実となります。イエス様はご自分の言葉に責任を持たれるお方です。私たちの信じる力にかかわらず、イエス様の約束は決して変わりません。イエス様の約束は確かにそのとおりになります。
今日、私たちはどこから歩み出せばよいのでしょうか。大きな覚悟を決めることや、情熱を燃やすことよりも、まずは「主よ、私はあなたのことがよく分からないのです」と、イエス様の前で正直になることから始めたいと思います。そして、それでもイエス様が「しかし後には」とおっしゃるならば、いや、すでにそうおっしゃったので、その約束を握って待ち望みたいと思います。
黙想・祈り
今からしばらくの間、静まる時間を持ちます。イエス様の愛について、あるいはイエス様が歩まれた十字架の道について、「よく分からない」こと、あるいは「思っていたのと違う」と感じていることはあるでしょうか。その正直な思いをそのままイエス様の前に差し出してみましょう。
父なる神様。私たちはイエス様の十字架を、イエス様の愛を、どれほど分かっているでしょうか。イエス様について行きたいと願っていても、イエス様と全く違う方向に進んでしまうこともある、そんな私たちです。けれども、私たちの信仰や熱心さにかかわらず、イエス様が語られた約束は実現します。「しかし後には」というその確かな約束を信じて、待ち望むことができますように。約束してくださった主ご自身が、私たちをつくり変えていってくださいますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。

