Ⅱ列王記5:8-14「幼子のからだのように」(「弱さ」シリーズ⑧|宣愛師)
2026年8月2日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
旧約聖書『列王記 第二』5章8-14節
8 神の人エリシャは、イスラエルの王が衣を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人を遣わして言った。「あなたはどうして衣を引き裂いたりなさるのですか。その男を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
9 こうして、ナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の入り口に立った。
10 エリシャは、彼に使者を遣わして言った。「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」
11 しかしナアマンは激怒して去り、そして言った。「何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。
12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で身を洗って、私がきよくなれないというのか。」こうして、彼は憤って帰途についた。
13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。
「王の軍の長ナアマン」
今日の主人公は「ナアマン」という名前の人物です。この人は非常に優秀な人でした。1節にはこうあります。〈アラムの王の軍の長ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。それは、主が以前に、彼を通してアラムに勝利を与えられたからであった。〉
しかし彼は、ある悩みを抱えていました。〈この人は勇士であったが、ツァラアトに冒されていた。〉「ツァラアト」がどのような病気なのか詳しくは分かっていませんが、肌が白くなってしまう病気で、とても悩ましい病気だということは分かっています。どうすればこの病を治せるのか。
彼はある日、この病気を治せる預言者がイスラエルという隣の国にいると聞きます。預言者の名前はエリシャ。数々の奇跡を行い、あらゆる病気を治せると噂の、偉大な預言者エリシャ。ナアマンはそんな偉大な預言者に会うために、早速イスラエルに向かいます。大量の金銀も用意します。5節。〈銀十タラントと金六千シェケルと晴れ着十着を持って出かけた。〉340キログラムの銀、68キログラムの金。今の価値で言えば数億円もの大金を用意して出発しました。
さらに9節を見ると、「ナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の入り口に立った」とも書かれています。大量の金銀だけでなく、軍隊も用意した。まるで、たくさんの部下を引き連れたヤクザが、小刀や拳銃をちらつかせながら、札束が入ったキャリーケースを机の上にドーンと広げて、「さあさあお医者さん、これで私の手術をしてくださいよ」と威圧しているかのようです。
経済力を見せつけ、軍事力を見せつけ、自分がいかに重要な人間であるか、自分がいかに強い人間であるかということをしっかりとアピールした上で、「エリシャ先生、よろしくお願いしますよ?」―――しかしこのナアマンに対して、預言者はどう対応したか。
「難しいこと」 ではなく
10節。〈エリシャは、彼に使者を遣わして言った。「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」〉―――「ああ、ナアマンさん!こんなにたくさんのお土産をすみません。さあさあ、こちらへどうぞ」と媚を売るのが普通です。しかしエリシャは、家から出てくることさえしません。ただ使者を遣わして、ナアマンにひとこと伝えるだけです。「あそこにある川で、体を洗ってきなさい。」
この失礼な態度にナアマンは怒ります。11節と12節。〈しかしナアマンは激怒して去り、そして言った。「何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で身を洗って、私がきよくなれないというのか。」こうして、彼は憤って帰途についた。〉そりゃそうです。
ところが、13節。〈そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」〉―――ナアマンは良いしもべに恵まれたのだなと思います。しもべたちの言葉は図星だったのでしょう。ナアマンは、自分の病気が治るためには「難しいこと」が必要だと思っていました。「一ヶ月断食しなさい」とか、「幻のキノコを見つけてきなさい」とか、そういう「難しいこと」が必要だと思っていました。そして、そういう「難しいこと」が自分にはできると思っていました。
ところが預言者に言われたのは、「あそこにある川で体を洗ってきなさい」だけ。「そんなこと誰にでもできるじゃないか!」―――しかし、それこそがナアマンに必要なことでした。14節。〈そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。〉
ナアマンは「下って行き」ました。経済力を見せつけ、軍事力を見せつけ、難しい修行でも達成する力を見せつけ、神の祝福を自分の力で勝ち取ろうとしていたナアマンは、ただ「下って行く」だけ、という屈辱を味わいます。誰にでもできることをさせられます。そして、彼は救われます。
「幼子のからだのように」
神を信じるということは、そして洗礼を受けるということは、彼のようになるということです。聖書をすべて読んで理解できたら神さまの祝福を受け取れる、ということではありません。何か立派な行いができるようになったら、「さあ、あなたを救ってあげましょう」と出て来るような神でもありません。聖書の神は、人間が何かをささげることによって操作できるようなお方ではないのです。この神が命じることはただ一つ、「下って行って、体を洗いなさい」ということです。
洗礼を受けるかどうか悩んでおられる方々。どうぞ大いに悩んでください。洗礼を受けるべきかどうか、よくよく考え続けてください。でも、“考え抜いて答えを見つけた自分”になろうとしないでください。“洗礼を受けるにふさわしくなるまで学び抜いた自分”になろうとしないでください。「クリスチャンになることを決意した特別なエピソード」みたいなものも、無理に用意しようとしないでください。神さまがあなたに求めておられることは、ただ下って行くことです。そして、小さく、か弱い幼子のように、へりくだって、神を愛して生きることです。
すでに洗礼を受けた方々。私たちは今、幼子のように祈れているでしょうか。いつの間にか、神さまの祝福を受けるためには何か「難しいこと」が必要だと思うようになっていないでしょうか。最近ちゃんと聖書を読んでいないなあ。教会でしっかり奉仕ができていないなあ。神さまは私から離れてしまうのではないか……。大丈夫です。もう一度、洗礼を受けたあの頃のように、幼子のように祈りませんか。「神さま、私はあなたのために何も用意できません」と、その弱さを差し出して、素直に祈りませんか。そんなあなたを、何よりも愛おしく思ってくださる神さまです。
自分の人生は自分でコントロールしたいとか、優秀な人間として評価されたいとか、そういう私たちの願望は満たされないかもしれません。しかし、もっと素晴らしいもので満たされます。「難しいこと」はやめて、小さく弱い者として、ただ神さまを呼び求めたいと思います。誰にでもできることです。特別な人間になる必要はありません。「すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」しばらく祈りと黙想の時を持ちましょう。
黙想・祈り
自分の能力や、優秀さや、真面目さを示すことによって、神さまを動かそうとしていなかったでしょうか。誰にでもできることによって救われるということに、どこか抵抗感を感じているとすれば、それはなぜでしょうか。自分自身の賢さではなく、神さまの導きに助けを求めましょう。
私たちの父なる神さま。他の人よりも優秀であること、真面目であること、信仰深いこと、そのようなことによってではなく、ただ幼子のように、小さく弱い幼子のように、あなたの恵みを祈り求める者とさせてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

