エペソ2:6-10「恵みを表す神の作品」(宣愛師)
2026年8月9日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『エペソ人への手紙』2章6-10節
6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
7 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。
8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
「来たるべき世々に示すため」
「アパルトヘイト」という言葉をご存知でしょうか。南アフリカで行われていた人種差別政策の名前です。肌の色によって人間が四種類に分けられ、徹底的な差別が行われました。このアパルトヘイトに対して抵抗運動を行っていたのが、ネルソン・マンデラという人でした。彼は裁判にかけられて終身刑を言い渡され、実に27年もの間、収容所に閉じ込められてしまいます。
しかし、時代は動き、アパルトヘイトへの国際的な批判が高まる中、彼はついに釈放されます。そして、南アフリカ初の黒人大統領に選ばれます。大統領になったマンデラは、人々を驚かせる行動に出ます。かつて自分を迫害し、敵対していた人たちを、次々と自分の政府の閣僚に指名したのです。27年もの間、自分を牢屋に閉じ込め、自由を奪った人々を、ともに働く仲間として選んでいったのです。
なぜマンデラは、敵だったはずの人々をあえて閣僚として任命したのでしょうか。それは、「南アフリカの新しい時代が始まった」ということを、世界中に示すためでした。もはや差別の時代は終わった。復讐の時代も終わった。これからは新時代が、真実と和解の時代が始まるのだ。
今日の聖書箇所にはこう書かれています。6節。〈神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました〉―――「天上に座らせて」とは、私たちをイエスさまと一緒に、神の右の座に座らせてくださったということです(1章20節)。神の国の閣僚として選んでくださったということです。なぜこんなことをなさるのでしょうか。弱さを抱え、何度も神様に背を向けてしまうような私たちを、神さまはなぜ、そんなにも重要な場所に引き上げてくださるのでしょうか。
その理由が7節に書かれています。〈それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。〉罪深い私たちを神さまが天上に引き上げた理由。それは、新しい時代を宣言するためです。「もはや罪が支配する時代は終わり、恵みと赦しの時代が始まるのだ」ということを、世界中に宣言するためです。
「私たちは神の作品」
8節と9節。〈この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。〉―――ここでの「行い」とは、私たちが自分の力として誇れるようなもののことです。社会的な立場が立派だとか、人より性格が穏やかだとか、誰よりも熱心に信仰を持っているとか。そういった人間の側の「行い」は、救いにとっては全く意味をなさない、ということです。
もし「行い」によって救われるなら、私たちは必ず、「あの人よりも自分のほうが優れている」と他人を見下してしまいます。しかし、救いがただ「恵み」であり、ただ「神の賜物」であるなら、私たちは誰も誇ることができません。誰ひとりとして、自分のおかげで生きていないからです。
このようにパウロは、「行い」によって救われるわけではないということを、はっきり強調します。しかしややこしいことに、救われたのは「良い行いをするため」だとも語るのです。10節。〈実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。〉
「良い行い」とは何でしょうか。貧しい人や困っている人を助けること。もちろん、それも大切なことです。神様の愛を多くの人に伝えること。それも素晴らしいことです。しかし、ここでパウロが伝えようとしている「良い行い」は、「神の作品」としての「良い行い」です。
「神の作品」と聞いて私が最初に思い出すのは、『たいせつなきみ』という絵本です。私たち一人ひとりは神様に大切に造られた作品である、ということを教えてくれる素晴らしい作品です。
ただし、ここでパウロが言おうとしているのは、「一人ひとりが神の作品だ」ということではなさそうです。ここで「作品」と訳されているギリシャ語は、複数形ではなく単数形です。つまり、「神の作品」とは、私たち個々人のことではなく、「教会」という一つの集まりのことです。
神様は、私たち一人ひとりを集めて、教会という一つの「神の作品」を造り上げられました。そう考えると、私たちがまず何よりも大切にすべき「良い行い」とは、私たちが「神の作品」として、一つになって生きるということです。教会が教会として歩むということです。ユダヤ人も異邦人も、日本人も外国から来た人も、女性も男性も、子どもも大人も、意見の合わない者同士も、神様が一つに結び合わせてくださった「神の作品」として、互いに愛し合いながら歩むこと。これこそが、まず何よりも大切な「良い行い」です。
イエスさまが十二人の弟子たちをお選びになった時も、全く立場の違う人たちが集められました。イエスさまは取税人のマタイを選びました。取税人は、ローマ帝国のために税金を集める仕事です。一方で、熱心党のシモンも選ばれました。熱心党は、ローマ帝国への抵抗運動をしていたグループです。ローマのために働く取税人と、ローマに抵抗する熱心党。明らかに対立するはずの二人を、イエスさまはあえて十二弟子として呼び集め、一つの家族とされました。
立場や好き嫌いが異なる人々が、「神の作品」として共に歩む。簡単なことではありません。私自身、牧師として教会に仕えながら、その難しさを日々痛感しています。クリスチャン同士であっても、すれ違いが起こります。いざこざが起きます。分かり合えない現実があります。表面上は仲良く見えても、いつの間にか罪が入り込んで、教会が壊れていきます。そこには高慢があります。妬みがあります。怒りがあります。相手への無理解があります。そして私自身の罪や未熟さも入り込んで、問題を悪化させてしまうこともあります。牧師として無力感を感じます。
しかし、教会は「牧師の作品」ではなく「神の作品」です。教会が「神の作品」である限り、神さまが責任を持って支え続けてくださいます。取税人と熱心党員さえも一つの家族とされたイエスさまが、私たちのこともなんとかしてくださいます。教会が教会として歩むという「良い行い」は、神さまが「あらかじめ備えてくださ」る賜物です。
教会が崩れてしまいそうに思える時も、「私たちの作品」ではなく、「神の作品」であることを忘れずに、人と人とを結びつけてくださるのはただ神さまの恵みであることを忘れずに歩みたいと思います。一つになろうとすることよりも、一つにされていくことを、祈り求めていきましょう。私たちの力で成し遂げることよりも、神の恵みが教会において明らかになることを、そして教会を通して、全世界に対してこの恵みが示されていくことを、ご一緒に祈り求めていきましょう。しばらく黙想と祈りの時を持ちます。
黙想・祈り
人間関係がうまくいかないとき、愛し合うことに失敗したとき、自分の力でなんとかしようと思い悩み、神さまの恵みにより頼むことを忘れていなかったでしょうか。罪人と罪人を和解させ、まことの平和をもたらしてくださる、聖霊さまの助けを祈り求めましょう。
父なる神さま。「互いに愛し合いなさい」と命じられていながら、憎しみや妬みに支配されてしまう私たちです。その憎しみや妬みを自分でどうにかできると勘違いして、あなたの恵みが輝くことを拒んでしまう私たちです。しかし、そんな私たちさえも愛して、赦して、神の国の一員としてくださる神さま、どうかあなたの恵みによって私たちを罪から解き放ち、この教会に、この世界に、和解をもたらしてください。私たちの家庭にも、職場にも、学校にも、あなたの恵みが輝き、今は愛することが難しいあの人とも、赦すことができないあの人とも、ただあなたの恵みのうちに、一つに結び合わせてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

