エペソ2:11-18「隔ての壁を打ち壊す十字架」(宣愛師)
2026年8月16日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『エペソ人への手紙』2章11-18節
11 ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、
12 そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。
13 しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。
14 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、
15 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、
16 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。
17 また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。
18 このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。
「自分の中にも悪がある」
近藤紘子(こんどうこうこ)という方をご存知でしょうか。牧師の娘として生まれ、生後8ヶ月でヒロシマの被爆者となった女性です。1945年8月6日、原子爆弾が広島の街を焼き尽くした時、紘子さんの命は奇跡的に助かりました。しかし、被爆者として様々な苦しみを通る中で、また数多くの被爆者たちと関わる中で、原爆を落としたアメリカ軍に対する紘子さんの憎しみは強くなっていきました。
原爆投下から10年後の1955年、10歳になった紘子さんはアメリカを訪問することになります。そこで、あるテレビ番組に出演することになり、そこで、ロバート・ルイスという男性に出会います。彼はあの日、広島に原爆を投下した戦闘機の副操縦士でした。紘子さんは強い憎しみを持って、ルイスを睨みつけた。ところがその直後、紘子さんは予想外の光景を目にします。
テレビの司会者が、「1945年8月6日の出来事についてお話しくださいますか?」と尋ねると、ルイスは暗い表情で、自分の経験を語り始めました。8月6日の夜明け前にマリアナ諸島を出発したこと。原子爆弾のターゲットは広島と長崎、そして福岡の小倉だったこと。原爆を広島に投下した時刻は午前8時15分だったこと。爆風が広がり、広島の街が消え去る光景を確認してから引き返したこと。そして飛行記録に、「神よ、我々はなんということをしたのか」と書き留めたこと。
「我々はなんということを」―――この言葉を語りながら、彼は涙を流していました。その姿を見た紘子さんは衝撃を受けます。そして、彼らを一方的に憎んでいた自分の悪に気づいたと言います。「子供心に、B-29エノラ・ゲイに乗っていた人を探して、パンチしたり、蹴ったり、噛んだりしてやろう。爆弾を落とした人間は悪い奴で、自分は正しい人間だと、そう思っていた。」「悪い人だと思っていたルイス操縦士は、実は私たちと同じように、涙を流すような人間でした。憎むべきは、戦争を起こす人間の弱さです。」その日、紘子さんはルイスと握手をしたそうです。
敵意を打ち壊す十字架
相手の中にも苦しみがある。そして、自分の中にも悪がある。平和への道のりはここから始まっていきます。パウロは14節で次のように語ります。〈実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し〉―――アメリカ人と日本人の間に「敵意」があったように、ユダヤ人と異邦人の間にも「敵意」がありました。ユダヤ人は異邦人を差別し、異邦人もユダヤ人を忌み嫌う。しかしその「敵意」が、キリストの十字架によって打ち壊された。
なぜ十字架が「敵意」を打ち壊すのでしょうか。それは、十字架を信じることは、十字架上のキリストを救い主と信じることは、自分自身の罪を認めることだからです。当時まだ10歳だった紘子さんが、「自分の中にも悪がある」と気づくことができたのは、紘子さんがこの十字架を知っていたからだと思います。イエスさまの十字架が、ほかの誰でもない自分の罪を赦すためだったのだということを、牧師であるお父さんから、何度も聞かされていたからだと思います。
自分を正しいとし、相手を悪とみなす「敵意」の壁は、私たちの日常の中にも現れます。家族に対して不機嫌になることがあるでしょう。教会の中でさえ、「あの人はダメだ」と突き放してしまうことがあるでしょう。そうやって人をさばく私たちは、人をさばけると思っている私たちは、何か大切なことを忘れているのかもしれません。
パウロは、「思い出してください」と語りかけます。「敵意」を滅ぼす唯一の方法は、自分の罪を思い出すことだからです。本来の自分がどれだけ醜い人間であったかを思い出すことだからです。そして、その醜い自分を救うために、イエスさまが血を流してくださったのだということを思い出すことだからです。思い出すことをしなければ、私たちは「敵意」に支配されます。自分は相手よりもマシな人間だと思うようになります。だから、「思い出してください。」何度も、何度でも。
神に近づくと、人に近づく
それでも、やっぱりあの人のことは赦せない、ということもあるでしょう。聖書を開くとすぐ、敵を赦しなさいだと言われるから、ちょっとうんざりしてしまう。紘子さんはちょっとできすぎている。自分はそんな風には人を赦せないと思う。もう何年も連絡を取っていないあの人に、「私も悪かったです」なんて今さら言えない。あんなひどいことを言ってきたあの人に、「あなたの苦しみを理解していなくてごめんなさい」なんて言えない。やっぱり自分には無理だ、と思う。
たしかに聖書は、人を赦しなさい、人と和解しなさい、と語ります。しかし聖書をよく読んでみると、人との和解を語る前にまず、神との和解を語っていることに気づきます。聖書が語る和解とは、人と人とが近づいていくことよりもむしろ、人が神に近づいていくことです。そして不思議なことに、神に近づくと、いつの間にか人と近づいているのです。パウロは18節でこう語ります。〈このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。〉神さまと私たちとの縦のつながりが、気づけば横のつながりを生み出していく。
あの人にもう一度連絡をするなんて無理だ。あの人に自分から謝るなんて無理だ。そうです、私たちには無理なのです。私たちはそんなに器用じゃないし、優しくもないし、勇気も度胸もありません。人と人が近づこうとしたところで、表面的な和解をすることさえ難しい。だからこそ、私たちはまず、神さまのもとに近づくのです。神さまが近づかせてくださる。それは、自分自身の罪を認めることです。そして、十字架の血によってきよめていただくことです。自分の中にも悪がある、ということを認める練習をすることです。そういう練習を重ねる中で、絶対に赦すことなんてできないと決めつけていたあの人とも、涙を流しながら手を握り合う、そんな日が来る。
今はまだ難しいかもしれません。でも、いつの日か必ず、キリストが成し遂げてくださいます。隔ての壁を壊すのは、私たちではなく、キリストです。二つのものを一つにするのは、私たちの努力ではなく、優しさではなく、キリストの十字架です。〈実に、キリストこそ私たちの平和です〉―――平和とはキリストであって、私たちではありません。黙想と祈りの時を持ちましょう。
黙想・祈り
近づくこと、歩み寄ること、赦し合うことが難しいあの人と、自分の力で、自分の優しさで、和解ができると思っていなかったでしょうか。自分が何とかして平和を作らなくてはと思い込んでいなかったでしょうか。十字架を仰ぎ見、自らの罪を顧み、聖霊さまの助けを求めましょう。
父なる神さま。敵意を捨てられず、赦すことができず、過去にこだわってしまう私たちです。かといって、自分の過ちについては忘れやすい私たちです。人を憎んでしまう時、自らの罪深い姿を思い出すことができますように。そして、十字架の赦しの恵みの大きさを今以上に深く知る中で、あなたに今以上に近づかせていただく中で、自分の力では埋めることができなかった隣人との距離を、少しずつ埋めていくことができますように。キリストの御名によって祈ります。アーメン。

