エペソ2:19-22「神に組み合わされて育つ」(宣愛師)
2026年8月23日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『エペソ人への手紙』2章19-22節
19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。
20 使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。
21 このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。
22 あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。
「他国人でも寄留者でもなく」
先々週、M君がシオン錦秋湖の中高生キャンプに参加してきました。今回のテーマは「教会」だったそうです。M君に「覚えてる聖書の話はある?」と尋ねたら、「教会は建物じゃなくて人の集まりだから、建物のことは“会堂”って呼ぶし、“教会に行く”って言うよりも、“会堂に行く”って呼ぶほうが本当は正しい、みたいな話でした。」
本日の聖書箇所のテーマも“教会”です。19節。〈こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです〉―――最初のポイントは、教会は民族の壁や人種の壁を超えていく神の家族だ、ということです。
2023年7月、埼玉県川口市の病院の前で、約100人のクルド人たちが集まって暴動を起こした、という話がSNS上で広がりました。私もそのニュースを聞いた時、クルド人というのは治安を悪くする人たちなのかな、と思ったことを覚えています。ところが、最近になってからこの事件について調べてみたのですが、実際にはその日、病院の前で暴れていたのは数人だけで、他の人たちはむしろ、暴れているクルド人たちを止めるために集まってきた親戚や友人たちだったようです。
もちろん、一部のクルド人が迷惑行為を繰り返していることは事実だと思います。彼らの中に、コンビニ前に集まって騒ぎを起こす若者たちや、麻薬を売って儲ける密売人たちがいることも事実だと思います。しかし、事実とは異なる情報によって不安を煽られ、本来なら安全であるはずの街が、事実以上に危険な街であるかのように誤解されている面もあるように思います。
「外国人」や「寄留者」というのは、たしかに難しい問題です。しかし、だからこそ教会は、誰よりも先にこの壁を越えて、彼らを愛する存在でありたいのです。私たちもかつては「他国人」でした。「寄留者」でした。神の家族になれるはずもない、惨めな罪人でした。しかしただ神さまのあわれみによって、イエスさまの十字架によって、〈神の家族〉として招き入れられた。人種の壁、民族の壁、文化の壁を越えていくのは、ほかの誰よりもまず私たちでありたいと思います。
「キリスト・イエスご自身がその要の石」
二つ目のポイントは、教会の要はイエス・キリストだ、ということです。20節。〈使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。〉
M君がキャンプで教わってきたとおり、教会は建物ではなく、人の集まりです。しかし、パウロはここで、教会を建物にたとえています。なんてややこしいことをしてくれるんだ、M君が混乱しちゃうじゃないかとパウロ先生に文句を言いたいところです。でも逆に言えば、パウロ先生が教会を建物にたとえたのは、本来は教会が建物ではないからでしょう。
この写真はエルサレムの「神殿の丘」の一部です。一番下に写っている石、建物の角にある石を、英語では corner stone とか master stone と呼ぶそうです。日本語では「角石(すみいし)」とか「要石(かなめいし)」と呼びます。要石は、建物全体を支える石、そして建物の角度や方向を決定する石です。
パウロは、イエス・キリストこそが私たちの要石だ、と言います。教会の角度は、イエスさまの角度で決まります。教会の進む方向は、イエスさまが進まれる方向によって決まります。
ときどき、「聖書の中でどこが一番大事ですか?」と聞かれることがあります。もちろんどこも大事なんですが、私はやっぱり「福音書です」と答えます。なぜなら、教会の要石はイエスさまであり、イエスさまの教えや生き様が直接書かれているのは福音書だからです。
イエスさまを中心として、教会の〈土台〉がつくられていきます。〈使徒たちと預言者たち〉というのは、簡単に言えば、イエスさまの教えを受け継いだ人たちのことです。〈要の石〉であるイエスさまにしっかりと続いていった人たちです。そして、彼らが書き残したのが聖書です。だから、教会の土台は聖書だと言っても良いわけです。聖書という土台の上に、私たち教会は生きていきます。
「組み合わされて成長し」
最後にパウロは、この土台の上に私たち一人ひとりが〈建てられてい〉る、と語ります。でも、「建てられる」とか「組み合わされる」と聞くと、なんだか窮屈な感じがします。自由や個性が失われてしまうような、伸び伸びと動けなくなるような、凝り固まった組織にがんじがらめにされるような、そんな息苦しさも感じてしまいます。
しかし、パウロは21節でこう語ります。〈このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し〉―――「成長」という言葉は普通、植物の成長とか、子どもの成長に使うことばですし、パウロが使っていたギリシャ語でも同じです。それなのにパウロはあえて、「建物が成長する」と言うわけです。それは教会というものが、凝り固まっていつまでも形が変わらない建物のようなものではなくて、むしろ太陽の光を浴びながら伸びていく植物とか、思い切り体を動かしながら成長していく子どもたちのように、変化する自由と柔軟さをもつ共同体だからです。
もちろん、いつでも順調に成長していけるわけではありません。順調に積み上げられていけば良いのですが、隣りの石とうまく噛み合わないこともあります。欠けだらけの私たち、いや、欠けがあるだけならまだ良いのですが、それぞれが何かゴツゴツとした部分を持っていて、時にそれが隣の石に当たってしまったり、こすれてしまったり、傷つけ合ってしまうこともあります。ともに成長していきたい。でも、なかなか形が合わない。性格が合わない。文化が合わない。この二千年間、教会はそのような困難の中で、幾度も幾度も崩れかけてきました。
しかし、そのようにして教会が崩れてしまいそうに見えたとしても、実際に崩れてしまったように思えたとしても、それでもこの二千年間、変わらずに残り続けてきたものがあります。要石であるイエス・キリスト、そしてイエス・キリストに続く、使徒たちと預言者たちという土台です。
今日の聖書箇所には、「建てられ」「組み合わされ」「ともに築き上げられ」というふうに、受動態の動詞がたくさん出てきます。こういう主語(動作主)が書かれていない謎の受動態が聖書に出てきたら、大抵の場合、隠れた主語は神さまです。私たちの力で建つのではありません。崩れやすく不完全な私たちを、神さまの力強い御手が拾い上げ、優しく忍耐強く組み合わせ続けてくださいます。崩れては積み直され、ぶつかっては赦され、失敗しては励まされ―――その繰り返しの中で、私たちのゴツゴツも少しずつ丸みを帯び、痛みを伴いながらも共に成長し、神さまの優しい御手の中で、美しく築き上げられていくのです。しばらく黙想と祈りの時を持ちます。
黙想・祈り
「あの人とは合わない」と切り捨て、共に生きることを諦めること、もしくは、無理をして合わせようとして、疲れてしまうことがなかったでしょうか。凸凹のある私たちを忍耐強く愛し続け、ぶつかっても、崩れても、優しく組み合わせ続けてくださる神さまの御手におゆだねしましょう。
父なる神さま。文化の違いや性格の違いを、「合わない」という一言で片付けようとする私たちです。しかしあなたは、「合わない」者たちを組み合わせることによって、私たちの棘や罪を削り取ろうとなさいます。痛みを伴うあなたの御業を、感謝して受け取ることができますように。組み合わされやすい者へと成長することができますように。赦し合うことに長けた教会へと、ともに成長することができますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


