聖書の説教
マルコ14:66-72「そして彼は泣き崩れた」(宣愛師)新着!!
・・・・・・「ここで物語られるペトロの過ちは、私たちの弱さを映し出す鏡である。」私たちもまず、一度目の罪を犯します。その時はまだ、イエス様を完全に否定するような罪ではないことが多い。嘘をつくとしても、大した嘘はつきません。お金に関する罪も、性的なことに関する罪も、最初は小さなことかもしれません。ペテロが一度目にイエス様を否定した時、「すると鶏が鳴いた」とあります。これは、「これ以上罪を犯してはならない」という、神様からの警告だったのかもしれません。しかし、そこで踏みとどまることができないのが、私たち罪人の現実です・・・・・・
マーク・ゲルソープ師「この警告は誰のためか?」(ルカ13:1-5)新着!!
※本日は、盛岡みなみ教会と花巻めぐみキリスト教会の講壇交換(説教者の相互派遣)でした。盛岡みなみ教会ではマーク・ゲルソープ先生がご奉仕くださり、花巻めぐみキリスト教会では宣愛伝道師が奉仕しました。
ヨハネ4:43-54「しるしの信仰、ことばの信仰」(まなか師)
・・・・・・しるしによる信仰、みわざを求める信仰は、順境のときであれば問題ありません。自分は守られていて、自分は祝福されていると感じられる限りは、大丈夫です。……でも逆境のときはどうでしょうか。私たちは、イエス様が現実を奇跡的に変えてくださらないと、イエス様のことが分からなくなってしまうことがないでしょうか。それは結局のところ、イエスのことばを信じる信仰ではなく、イエスのしるしを求める信仰です・・・・・・
創世記1:26-28「神のかたち」(宣愛師)
・・・・・・「支配」という日本語は、ちょっと不思議な言葉だなあと、前々から思っていました。「支配」と聞けば、力ずくでコントロールするとか、無理やり従わせるとか、そんな印象を持つわけですが、少なくとも漢字に分解して考えてみれば、「支配」の「支」という漢字も、「配」という漢字も、そんなニュアンスではない。気になって調べてみましたら、「支配」という言葉はもともと、「量って配る」という意味だったのだそうです・・・・・・
マルコ14:53-65「しかし、イエスは黙ったまま」(宣愛師)
・・・・・・なぜ、そこまでしてイエス様を殺したいのでしょうか。彼らはなぜ、殺したいほどにイエス様を憎んでいたのでしょうか。ある人たちは、「イエスという人物は、人々に良い生き方を教えた教師だった」と考えます。たしかに、イエス様は教師でした。良い生き方とは何か、幸せな人生とは何か、そのことを人々に教えた教師。しかし、それだけだとすれば、なぜイエス様はここまで憎まれなければならなかったのか。イエス様は、間違いなくそれ以上の存在だった。そのことに気づいた「祭司長たち、長老たち、律法学者たち」は、このイエスという人物を殺さずにはいられなくなったのです・・・・・・
秋山善久師「主の御声を聴く者」(第一サムエル3:1-14)
※本日は仙台のぞみ教会と盛岡みなみ教会の合同礼拝(第13回)でした。主任牧師の秋山善久先生が仙台から来てくださり、説教と聖餐式のご奉仕をしてくださいました。
マルコ14:43-52「聖書が成就するため」(宣愛師)
・・・・・・いろいろ調べていくうちに、悲しい現実に気づいてしまいました。人間不信は連鎖していく、という現実です。人間不信になってしまった人は、自分の周りの人たちにも人間不信を広げてしまう傾向がある。常に周りの人を疑っているから、自分の本音を言えない。家族や親しい友人に対してさえ、自分の本当の気持ちを正直に伝えることができない。すると何が起こるか。人間不信で苦しんでいるあなたのことを、周りの人も信じられなくなるんです。悪循環です。このようなことが世界中で起こり続けている。誰かがこの連鎖を止めなければなりません。しかし、私たち人間が解決するには、あまりにも重すぎる問題かもしれません。一体だれが私たちを救えるのか・・・・・・
ヨハネ4:39-42「聞いて分かったのです」(まなか師)
・・・・・・先生はこんなこともおっしゃいました。「疑問を持つのは信仰成長のプロセスです。聖書に疑問をぶつければ、答えは必ず返ってきます。そしてその答えに対して、私たちがまた応答するというのが、イエス様と向き合い、イエス様と一緒に生きていく関係です。私たちのほうに応答する気があるなら、イエス様は必ずはっきりと語ってくださいます」。サマリアの人々もそうでした。一人の女性から「来て、見てください」と招かれ、「この方がキリストなのでしょうか」と問われて、実際に確かめてみようとやって来た・・・・・・
マルコ14:32-42「わたしの望むことではなく」(宣愛師)
・・・・・・「みんなが神様を忘れちゃう時って、どんな時?」すると、秋田から来ていた一人の男の子が、面白い答えをしてくれました。「ん~、楽しい時かなあ?」なかなか本質的な答えだと思いました。楽しい時に、私たちは神様を忘れてしまう。神様抜きで生きていけるかのような錯覚をしてしまう。でも、苦しくなると、辛い状況に陥ると、神様を思い出す。普段の祈りはテキトーなのに、お腹が痛くなった時にトイレの中で祈る祈りは誰よりも熱心。……イエス様の祈りは、“苦しい時の神頼み”ではなかった。「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」・・・・・・